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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

水郷佐原の山車

2018-07-12 09:22:14 | 旅 ~国内

300年の伝統を引き継ぎ、勇壮豪華な大人形が江戸優り佐原に舞う

「佐原の大祭」夏祭りは今年は7月13日(金)、7月14日(土)

7月15日(日)に行われる。この祭りはユネスコ無形文化遺産・

国指定重要無形民俗文化財に指定されている。

佐原本宿にある八坂神社。佐原の大祭(祇園祭)で知られている。

旧社格は村社。所謂村の鎮守様だ。変わっているのは

正門が2ヶ所存在し、1年置きに交代する。

香取市にはもう1つ諏訪神社があり、こちらは佐原の大祭秋祭りで知られている。

八坂神社境内には佐原の大祭に関する展示観光施設

「水郷佐原山車会館」がある。ここでは佐原の大祭に

曳き出される本物の山車を常時2台展示してあるほか、

大人形を間近に見ることができ、いつでも佐原の祭りの迫力を実感することができる。

この写真は平成12年、旧佐原市の市制50周年記念行事で行われ、

24台の山車が勢揃いした時のもので、大変な賑わいで盛り上がったそうだ。

佐原の山車行事は、佐原地区の中心部を流れる小野川を境に、

東西に分かれて7月の夏祭りに10台、10月の秋祭りに14台の

山車がそれぞれ登場する。小江戸と呼ばれる佐原地区の歴史的な

街並みの中を、身の丈4.5メートルの大人形を飾り付けた

山車が勇壮に曳きまわされるが、互いの地域に踏み入らないのが不文律とされている。

1階展示室では佐原の大祭で曳き廻される絢爛豪華な山車を

間近で見ることが出来る。ここの山車は4輪2層の曳山で

所謂江戸型山車とは異なり独自に発展を遂げた形態だ。

材料は主にケヤキ材やカシ材などで造られている。

大きさは高さ約4.0メートル、間口約3.2メートル、奥行き約3.8メートルで

更に4~5メートルの大人形が飾り付けられる。

彫刻は「関東彫り」と呼ばれ、木材の木地を生かし、

重厚かつ繊細に彫られており、後藤茂右衛門、石川三之助など

名工と呼ばれた彫工の作品が数多く残されている。

跳高蘭を廻した山車の天井部には、人物の大人形や

作り物が飾り付けられている。一番上が南横宿の人形仁徳天皇(大正14年完成)

二番目が下仲町の人形菅原道真、一番下が新橋本の小野道風。

人形(飾り物)のテーマは日本神話など様々な

説話から取材した歴史上の人物の大人形や麦わら細工の鯉、

稲わら細工の鷹などがある。大人形は日本最大級の大きさを誇っている。

日本には山車、屋台が出るまつりがこんなにも沢山ある。

小江戸山車まつりとして関東三大祭と言われているのが

川越と栃木とご当地佐原とされている。

2階の展示コーナーには歴代の「佐原の大祭」のポスターが展示してあった。

徳島の阿波おどり会館にもこの様なポスターがあったのを思い出した。

小野川を囲んでずらり並んだ山車の模型日本三大囃子といわれてる

佐原囃子が聞こえてくるようだ。山車の曲曳きの見せ場は

「の」の字を書くように山車を数回転させる「のの字廻し」。

この祭りを知れば知る程一度見てみたくなってきた。

「お江戸みたけりゃ佐原へござれ 佐原本町江戸優り」と

唄われた小江戸佐原はその財力を背景に佐原の大祭を始め、

独自の文化が発展した。又、江戸との深い経済・文化の交流から

「江戸」を強く意識し、江戸に勝る文化の醸成を目標に揚げ、

約300年にわたりその伝統は、脈々と現在に受け継がれている。 


伊能忠敬旧宅・記念館

2018-07-11 08:55:48 | 旅 ~国内

伊能忠敬は1745年(延享2年)、上総国(現九十九里町)に生まれ

17才で佐原村の伊能家に婿入り、1800年(寛政12年)から

1816年(文化13年)まで足かけ17年をかけて日本全国を

測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させ、国土の正確な姿を

明らかにした偉人だ。1818年(文化14年)69才で没した。

ここは国指定史跡になっている伊能忠敬の旧宅だ。

この旧宅は正門、店舗、炊事場、書院、土蔵からなっていて

江戸時代より家の規模が縮小されて、昭和20年代まで

住居として使われていた。忠敬が17才で伊能家に婿養子に入り、

主な家業である酒、醤油の醸造、貸金業を営み、

伊能家で東北3年分の米の買い占めが可能な程の財産を築いたという。

今でも旧宅は江戸時代の雰囲気がよく残っている。

これが旧宅の全貌。規模が小さくなったとはいえ、

639.21㎡(193.7坪)もある。居室だけでなく、店舗を兼用していた

ことも広くさせている。伊能家は佐原村の名主であったことも

影響しているのだろう。

伊能忠敬家には3ヶ条の訓書がある。この中から

偉人の生き方、考え方を学ぶ価値は必ずある。

伊能忠敬旧宅から桶橋(ジャージャー橋)を渡ると

正面に伊能忠敬の関係資料が公開されている伊能忠敬記念館がある。

当館は平成9年に完成し、所蔵の伊能忠敬関係資料は

2,342点にも及び平成22年6月29日、国宝に指定された。

https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/

館内に入ると正面にいきなり伊能図とランド・サミットから

見た日本列島の比較地図、写真が展示してあった。

1821年完成の「大日本沿海輿地全図」(東京国立博物館蔵)は

実際に測量してつくられたので、とても正確であるとともに

芸術的な美しさを備えている。

記念館では、忠敬の人生を年代順に追い、その業績の

結晶である伊能図をあますことなく紹介している。

江戸中期の佐原村の人口は5,000人。関東でも有数の村で

江戸天領で、武士は1人も住んでいなかったという。

村政は村民の自治によって決められることが多く,

忠敬は佐原の名主、村方後見を務めていた。

人生50年の時代、忠敬は当時50歳を過ぎ、隠居した第2の人生で

天文学を修学、さらには日本を歩いて測量し、初めて実測沿海図を

完成させる大偉業を成し遂げた。測量に当たっては

富士山などの山々が目標とされ、富士の高さを最初にほぼ

正確に測ったと言われている。忠敬のロマンは

「地球を測りたかった。」だそうだ。

日本地図の歴史や楽しい世界の地図を紹介しているコーナー。

伊能忠敬がつくった伊能図により日本の正確な姿が

紹介された19世紀以前においてヨーロッパの人々は

日本の姿をどのように理解していたのか。

ヨーロッパから見れば極東の地である日本について

様々な憶測やとぼしい地理情報に基づいて描いていた。

見ても楽しく興味深いものがある。

記念館のロビーから見た大きく立派な木造日本家屋。

現在はカフェで使われている。

伊能忠敬をNHK大河ドラマで取り上げてもらおうと

ドラマ化推進協議会が立ち上げたポスターを見つけた。

2018年,没後200年「200年の時空を超えて今蘇る」

そういえば、このポスターを見て、浦和の地でも友人が以前

浦和、川越に縁がある保科正之を大河ドラマで取り上げてもらおうと

運動をしていたが、保科正之の人生が地味だとの理由で

却下されたとのエピソードを思い出した。

記念館から旧宅を望んだ風景。まるで江戸時代へ

タイムスリップしたみたいな一枚だ。


小江戸 さわら舟めぐり(小さな旅)

2018-07-09 06:26:45 | 旅 ~国内

北総の小江戸佐原に来たらまず最初に舟めぐりをしましょう。

http://www.kimera-sawara.co.jp/

佐原は利根川が物資の主な運輸網だったため、

分流の小野川周辺は河港となり、旅館や商店が建ち並んでいた。

川べりには重厚な木造建築が軒を連ねており、

昔の繁栄ぶりをうかがうことが出来る。

舟めぐりの乗り場の近くにある切符売場と舟の船頭さん達の休憩所。

舟は7月は10:00~16:30 大人1,300円 

子供700円(小学生)で所用時間は約30分。

船頭さん達は年配の方が多く、この方は次の出発時間まで

のんびり休憩していた。この街はすべて時間がゆっくり流れている。

樋橋(ジャージャー橋)のたもとから出発。小野川には

川沿いに柳の木があり、風でなびく風景はまるで映画のシーンを見ているようだった。

佐原の街並みの歴史を説明してもらいながらの川下り。

とても魅力的なコンテンツで陸とはひと味違った風景体験をすることができる。

小野川は水深が約1メートルと浅い為、船底が平らの

ザッパ船という小型船を使っている。

是非水郷地域で見たかったあやめはもう終わってしまった。

今年は特に例年より咲いたのが早く、今は蓮の花が咲いているとか。

今年は7月13日(金)・14日(土)・15日(日)に予定されている

「佐原の大祭」。その時に町に繰り出される山車は

各町内の倉庫で管理している。ここ船戸地区は神武の山車だ。

舟めぐりの途中で見つけた火の見櫓の半鐘。

今はすっかり見なくなった火の見櫓。日本の風景で

一時火の見櫓は大事なものの1つだったが、

時代の変化とともに色々なものが変わるものだ。

船頭さんの話では舟めぐりの一番のフォトスポットが

この白い蔵だと言っていた。これを聞いて乗船している人全員が写真を撮っていた。

雪景色の佐原の街並みと小野川の夜景風景の写真。


江戸優り、佐原の町並み(小さな旅)

2018-07-07 06:36:29 | 旅 ~国内

今に伝える小江戸佐原、時代は変われど今なお現役。

佐原の町並みは、佐原[千葉県香取市]が最も栄えていた江戸時代末期から

昭和時代前期に建てられた木造町屋建築、蔵造りの店舗建築、

洋風建築などから構成されている。そんな素敵な町に

行ってみたいと前々から思っていた。

小野川に架かる忠敬橋の角にある中村家商店。

和の雑貨と手ぬぐいの店だ。安政2年(1855年)から

明治時代に建てられた歴史的に価値の高い建物の中に

「新しく懐かしい、旅の愉しみ方がはじまる」をテーマに

佐原商家町ホテル「NIPPONIA」も経営している。

中村家の隣りが入口になっている日本料理佐原千与福。

なかなか小粋な空間が続いている。

暑い日でも黙々とおせんべいを焼いていた青年。

こんな古い店がかえって佐原の街並みに溶け込んでいた。

小野川に架かる樋橋(とよはる)。もともとは江戸時代に

上流でせき止めた農業用水を水田に送るため小野川に架けられた

大きな樋(とよ)であった。この樋から小野川に落ちる水の音から

ジャージャー橋と呼ばれる様になった。

そんなことでこの橋は日本の音風景100選に選ばれている。

戦後以降昭和20年代から昭和40年代頃にはこの様なスタイルの

洋風の建物が全国到る所にあった。

とてもノスタルジックな建物で個人的には郷愁を誘う。

創業1807年(文化4年)の「宮定」の代々魚問屋、

蒲鉾の製造・販売を業としてきたが、現在は割烹として営業している。

寄棟で瓦を道路側に葺き下ろし連続した町屋景観を形成している。

宮定と並んで町屋景観を造り上げている袋物、帽子業の「こばやし」。

今年の梅雨は計測史上もっとも早く明け、6月末というのに完全に夏空。

夏の雲と青空と太陽の光の中で引き立った町屋の街並。

とても素晴らしい風景だった。

昔はどの町にも一軒はあった荒物屋の「植田屋」さん。

竹や木材を使った商品などを販売していた。今もざるやおひつなど

現在の生活でも使えるアイテムを多数取り扱っている。

何せ創業が1760年というから260年近くの歴史がある店。

とにかく続いているということは立派だ。

千葉県では所によって長年の表記で住所にイロハニの地名を使っている。

ここ佐原に来て住所が「佐原イ」に何?と思った。

明治の初めに付けられたそうで全国でも千葉県に特有な例だそうだ。

佐原三菱館は香取市佐原イにある歴史的建造物。

大正3年に建てられた煉瓦造の旧三菱銀行の建物。

千葉県の有形文化財に指定されており、現在改修中で、

外部のシートにその姿をプリントしてあるという。

いかにも観光資源を大事にしている姿勢を感じる。

施工は元施工会社の清水建設。現場名はちょっと変わっていて

「三菱銀行佐原支店旧本館保存修理実施設計技術支援業務委託」となっている。

 


善光寺

2018-06-29 06:44:39 | 旅 ~国内

これが善光寺の案内図。善光寺の山号は定額山で、山内にある

天台宗の大勧進と25院、浄土宗の大本願と14坊によって護持・運営されている。

山門に揚げられている善光寺の額は、通称「鳩字の額」と

言われている。この額には鳩が5羽隠されている。

鳩字の額(善光寺の額)は享和元年(1801年)

輪王寺宮公澄法親王の筆で大変有名な額だ。

これが1953年(昭和28年)に国宝に指定された本堂。

現存する本堂は1707年(宝永4年)に竣工。

2階建のように見えるが建築形式的には一重裳階付である

屋根は檜皮葺きで屋根形式は撞木造という特異なもの。

檜皮葺建造物の中では日本一の規模を誇る広大な建物だ。

間口24メートル、奥行54メートル、軒高26メートルで

間口に比して奥行きが深い。日本の仏堂には特異な平面だ。

御線香売場と大香炉。香炉の所で外国人が通訳の説明を

聞いて何やら頷いたり、笑ったりしていたのが印象的だった。

寛延3年(1750年)に完成した二層入母屋造りの山門(三門)で

重要文化財に指定されている。上層には仏間があり

文殊菩薩像、四天王像四国八十八ヶ所尊像などが安置されている。

5羽の鳩が隠れている善光寺の額は畳三畳程あるそうで、

横に立っている人と比べるとその大きさが分かる。

享保7年(1722年)に完成した濡れ仏。

高さ約2.7メートルの延命地蔵菩薩坐像だ。

66部(日本全国を行脚する巡礼者)の供養の為

法誉円信が広く施主を募って造立したもの。

江戸の大火の火元として処刑され、のちに歌舞伎や

浄瑠璃の題材と成った「八百屋お七」の冥福を祈り

恋人の吉三郎が造立したという伝説もある。

六地蔵は、われわれ衆生が輪廻を繰り返す6つの世界(6道)に現れ、

迷いや苦しみから衆生を救ってくださる菩薩だ。

向かって右から地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界の

地蔵菩薩だ。地獄界の地蔵菩薩が蓮台から片足を

踏み出しているのは、一刻も早く衆生を救いに

行こうという気持ちの顕れと言われている。

山門に入る手前に瀟洒なお手洗い(御安心処)がある。

このトイレ建造には7000万円かかったそうだ。

山門から仁王門方面の仲見世通り。ここには善光寺に

因んだ土産物店が軒を並べている。又食事処として

お蕎麦屋さんの数も多い。午前中早目に着いた為、

この頃から人出が増えて賑わいが増してきた。

いかにも門前町という風景だ。

善光寺の特徴としては日本において仏教が諸宗派に分かれる

以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が

可能な霊場と位置付けられている。

 

お釈迦様の弟子であるびんずる尊者様は古くより健康の

仏様として信仰されてきた。自分の体の悪い部分と同じ

箇所に触れることでその痛苦から救われると言われている。

善光寺のご本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来。

本堂の床下には約45メートルの暗闇の回廊があり、

秘伝の御本尊と結縁する「お戒壇めぐり」をすることができる。

通常のダルマの色は赤だが、時折他の色のものを見ることがある。

ダルマの7つの色はみな意味が違うそうだ。

赤は厄除け・家内安全、金は金運招福、白は合格必勝、

黒はなんと商売繁盛、黄は幸福招福、先日見た桃は人運・良縁、

そして緑は健康祈願だそうだ。詳しくは知らなかった。

この経蔵の中には仏さまの教えを余すところなく網羅した経典

「一切経」を収めた輪蔵がある。この輪蔵を回すことで

中のお経を全て読んだと同じ無量の高徳が得られると言われている。

御開帳は数え年で7年に一度行われる善光寺最大の行事。

善立本尊御開帳において、本尊前に建てられる高さ

10メートルの角塔婆が回向柱だ。この柱は前立本尊さまの

右手と直に結ばれ、柱に触れると前立本尊さまにふれるのと

同じご利益があると言われている。回向柱は御開帳が

終わるとここに納められ、歴代の回向柱とともに徐々に土に還っていく。

この蔵は善光寺の西端に建っている。ご本尊を納めてある

蔵だそうだ。よく見ると鍵穴が左右に高さがずれてあるのが分かる。

天台宗大勧進貫主と浄土宗大本願上人の両者の鍵が無いと

開かない仕組みになっているのだそうだ。

善光寺本坊大勧進。住職は善光寺の住職も兼ねている。

大勧進前の放生池の蓮とカルガモの赤ちゃん。

現在のこの仁王門は、全国信徒の篤志により大正7年に再建された。

仁王像は近代彫刻の巨匠高村光雲と米原雲海の合作だ。

仁王門から長野駅方面に向かっての一枚。この辺は宿坊が多い。

江戸時代末期には「一生に一度は善光寺詣り」と

言われるように多くの参拝者が訪れた。もう一つよく聞くのが

「牛にひかれて善光寺まいり」皆さん、このフレーズの

意味をご存知ですか?昔、善光寺から東に十里、

信濃の国小県郡に強欲で信心が薄く、善光寺に一度も

お参りしたことのないお婆さんが住んでいました。

ある日、川で布をさらしていたところ、どこからか

一頭の牛が現れ、角に布を引っ掛けて走り出しました。

そこで慌てたお婆さんは布ほしさに取り戻そうと

一生懸命に追いかけました。そして気が付いてみると、

そこは善光寺、牛の姿は無く、角に引っ掛けられたはずの布は

如来の厨子の前にありました。実は布をさらった牛は

善光寺如来の化身だったのです。そのことに気付いた

お婆さんは自分の不信心を悔い、善光寺如来に手を合わせ、

以来信心深くなって善光寺にも度々参詣に訪れ、極楽住生を遂げたとのこと。


琴平駅とその周辺

2018-06-04 06:19:56 | 旅 ~国内

明治22年(1889年)開業のJR琴平駅は2012年に

登録有形文化財に指定され、昨年3月に全面改修工事を終えた。

現在駅舎は大正時代に建てられた擬洋風の木造駅舎で

その北欧風の洒落た外観は老若男女の人気を集めている。

駅名の文字も古い驛を使っている。床は市松模様、天井は

格子模様の造りになっている。ロッカーも洒落たデザインで目に付いた。接近メロディも

「こんぴら船々・・・」を使って盛り上げている。

徳島駅、善通寺駅に続いて琴平駅にもセブン・イレブンが

入店していたが、ここの店は見慣れたセブン・イレブンの

デザインではなく黒を基調としたモノトーン色になっていて、

とても気に成った。店長に聞いた所、駅の全面改修の

デザインに協力して色を合わせたとの事。やりますネー。

これが琴平町内の観光案内図。JR琴平駅、琴電琴平駅と

金刀比羅宮の門前町の中心とは少し離れているのが分かる。

駅前の広場にずらりと並べらえた石燈籠と駅舎の

洗練された欧風の建物が不思議なコントラストを作り出している。

駅前広場には琴平RC創立30周年記念事業として

地域の発展と金毘羅大芝居の隆盛を祈って

建立された「鏡獅子像」があった。

こちらは私鉄琴電の琴平駅。開業は昭和2年とかなり古い。

こちらの駅舎もJRにまけず劣らず風格のある駅舎だ。

この琴平線はここが始発で髙松築港まで行っている。

重要有形民俗文化財に指定された高燈籠。安政7年(1860年)

東讃岐の人々が6年の歳月を費やして完成した高さ日本一の燈籠。

瀬戸内海を航海する船の指標として建てられたもので

高さ27mの塔から放つ灯は、丸亀沖の船に届くように

設計されたといわれている。

髙松市、丸亀市を中心とする香川県全県をホームタウンとする

カマタマーレ讃岐。現在はJ2。県立髙松商業OBサッカークラブが

前進でクラブ愛称の「カマタマーレ」は釜玉うどんと

イタリア語で海を意味するマーレを合わせた造語。

今年のキャッチコピーは「共に歴史を塗りかえよう」

「讃岐ノ力」を見せつけろ だ。

 


善通寺とその周辺

2018-06-02 07:13:46 | 旅 ~国内

大歩危駅から土讃線特急南風に乗って約50分、

香川県の善通寺駅に来た。今回の旅は電車移動が中心で

善通寺へ行くのは前の晩に決めた。

善通寺駅は昭和の香りがするなかなか趣きのある駅だった。

徳島駅もそうだったがここも駅舎の内に

セブン・イレブンが入店している。

駅舎から外に出る扉がまた洒落ていて思わずパチリ。

祖谷の秘境から下界に降りてきた感じで

温度も空気も浮世の世界だ。ここ善通寺は弘法大師

「空海」の御誕生の地ということで町を散策しに下車した。

下車してホームを歩いていたら、臨時の「アンパンマン列車」が来た。

2輌編成の内の1輌は窓の無いトロッコタイプの列車だ。

どうやら岡山駅から瀬戸大橋を渡って琴平・髙松間を走る

「瀬戸大橋アンパンマントロッコ」らしい。

善通寺市内の地図。駅前の通りを西へまっすぐ行くと

弘法大師御誕生所の総本山善通寺に着く。

地図で見るとそんなに遠くなく思えたので歩いたが、

かなりの距離があり疲れた。しかし途中、

四国学院大学、美術館などがあり、歩く発見を又々体験した。

道中に建築意匠的に凝った建物を発見。平成15年に

街を丸ごと元気にしたいとの願いでできた

「おしゃべり広場」。色々なイベントの会場に利用されているらしい。

それにしても、市のメインストリートなのに人が歩いていない。

この町も過疎のにおいがしてしまった。

善通寺ロータリークラブのプレートと広告塔も見つけた。

これを見ると善通寺RCは今年度創立50周年を迎えるようだ。

ようやく総本山善通寺に到着。暑い中、歩いて約25分かかった。

ここは東院の南大門と五重塔。五重塔は国重要文化財で

現在の塔は弘化2年(1845年)仁孝天皇の御論旨により再現。

明治35年(1902年)に完成した4代目の塔だ。

このゴールデンウィークで特別公開が行なわれ、

長蛇の列ができていた。

総本山善通寺は伽藍(東院)と誕生院(西院)からなっている。

弘法大師空海(774~835年)はここで誕生した。

父君佐伯善通御の名をとって「善通寺」と号された。

当寺は和歌山・高野山の名蹟と京都・東寺と

ともにお大師様の三大霊跡である。

この大楠は香川県天然記念物。寺伝では樹齢千数百年とか。

お大師さまの著作に記される「豫樟(クスノキ)」と伝えられ

まさにこの地がお大師さまの生まれ育った場所だ。

ここでも大勢のお遍路さんを見た。当寺は

四国霊場第75番札所でもあるからだ。

善通寺の本堂の金堂(国重要文化財)。現在の建物は

元禄12年(1699年)に上棟。本尊は薬師如来巫像。

本堂に入る所にお遍路さんの金剛杖の為か

他の寺では見ないお杖立てがあった。

善通寺は受験生にも縁起の良いお寺のようだ。

「善く通る寺・・・よくとおる寺」

伽藍「東院」の西にある中門を抜け、五百羅漢の石仏を

横目に見て、屋台が並ぶ参道を経て誕生院「西院」の入口

「仁王門」へ。この門から右手に護摩堂を、鐘楼を見ながら

廻廊を渡って御影堂へ。

廻廊の軒天の所には弘法大師誕生から昇天するまでの

絵馬が架けられていた。

済世橋を渡って昼食の讃岐うどん屋へ。


桃源郷祖谷の山里

2018-05-31 06:25:44 | 旅 ~国内

東祖谷のほぼ中央にある山の斜面に広がる落合集落は

2005年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

集落内の高低差は約390mもある。この写真は対岸の

中上展望所から集落の全景を撮ったものだ。

江戸中期から昭和初期に建てられた古い民家の集落景観は、

まるで日本の原風景や桃源郷のような空間を醸し出している。

落合集落を展望する対岸の落合展望所にも名頃かかしの里に

あったかかし人形が置いてあった。

よく見るとこの人形は服装にインパクトがある。

さぞ人形に合った古着を集めるのが大変なことだったろう。

ここが桃源郷祖谷の山里事務所。ここは廃校に成った

旧落合小学校内にあり、茅葺民家スティのチェックインはここで行う。

http://www.tougenkyo-iya.jp/

落合集落散策マップ。ここには8棟の茅葺民家の宿(一棟貸切)がある。

ここ落合集落はいわゆる限界集落(過疎化と高齢化で

共同生活の維持が難しくなり、社会単位としての

存続が危ぶまれる集落)で、人口は年々減り続け、

それに伴う空き家問題が大きな課題となっていた。

その課題解決の取り組みとして、2011年から

「桃源郷祖谷の山里」プロジェクトがスタート。

プロジェクトの主たる目的は、落合集落の伝統的景観の

保護と集落の活性化。空き家状態になっていた

8軒の民家をこの地域の伝統工法に基づいて改修し、

昔ながらの茅葺き民家型の宿泊施設として再生させた。

たまたま最後の予約で取れた標高差約390mに及ぶ

なかで最上部の「浮生」。―星にいちばん近い夜、雲の上に

おきる朝― なんてロマンチックなタイトル。

他に「悠居」「雲外」「蒼天」「晴耕」「雨読」「談山」「天一方」の

1棟民家宿がある。旅館とも民宿とも違う独自の宿泊スタイルを

確立させ、維持可能な地域再生活動に取り組んでいる。

かずら橋から一日お世話になったタクシーのKさん。

氏は語り部タクシーの会の会長も務め、この地域の歴史、文化

活動などあらゆる分野に詳しく、とても勉強になった。

祖谷川沿いの入口から集落内を上へ上へとつづら状に続く

里道のつきあたりが宿泊先の「浮生」の入口。

タクシーはここまでで、その先は3軒の民家の庭先を歩いて行く。

「えーこのあぜ道みたいのは他人の家の土地じゃないの?」

と腰を引いたが、立派な公道だという。

これが浮生の茅葺き民家の外観。しっかり古民家を

リニューアルしてあり、少しも古さを感じさせない。

まさに現代の隠居所のような静寂さと趣きがあり、歴史や伝統を感じさせる。

・隣の民家(ここの住人と話したが、先祖はやはり平家の落人と言っていた。

・わずかな庭先(この前はすごい崖状態。この写真では

見えないが急な斜面に平坦な土地を作るための青石の石垣)

・外壁の竹(これは外壁を強化するためのひしゃぎ竹

この竹が意匠的にお洒落。)

・古民家とはいえ随所に現代の快適性を備えている。

出入口はナンバ―制のオートロックシステム。

浮生の間取り図。9畳のDKと12畳のLの1LDKタイプ。

縁側につながっている出っ張った部屋がいまいち理解できないスペースだ。

玄関はたたきの土間になっている。横にはインテリア用のワラジが。

キッチンはIHヒーターで電子レンジからパン焼き器など

自炊する為の道具が心憎いほど全て揃っている。

ウォーターも剣山の天然水タンクがセットしてある。

リビングのセンターには囲炉裏があり、床の間には

掛軸と活け花のしつらえ、タンスは民芸調のもので

ソファーは持って帰りたくなるようなモダンで使いやすいものが置いてあった。

バス・トイレの水廻りも木仕立てのぬくもりのある仕様。

もちろんウォッシュレットを採用している。

そしてウッドフロアーが床暖房になっていて最高だった。

宿泊施設として改修の際に重要視したのは、

現代的快適性という点だとか。伝統の枠内に無い要素を加えることで

独自の空間づくりを心掛けているのが伝わってくる。

天井は黒い梁がむき出しの合掌造り的なもので貴重な造りだ。

夕方、ブラブラと散歩に出てみた。山の急な斜面にへばりつくように

民家が点在する独特の景観を持ったこの集落が

歩いてみるととても良くわかった。

ここには小学校唱歌がピッタリの風景が到る所にあった。

夕方、下の方から見た浮生。ここで桃源郷祖谷の山里プロジェクトで

大切な人について紹介します。その人は三好市から委託を受け

落合集落での古民家再生、地域活性化事情の企画運営を

手掛けたアレックス・カー氏(米国メリーランド州出身)。

氏は1964年初来日。少年期に体験した日本の美しさと

失われていく現状を国内外に訴え、次代へ残すべく

日本各地に残る美しい風景と文化を守り伝える事業を推進している。

月光が浮きあがらす幽玄でのびやかな風景が楽しめる「天一方」。

アレックス・カー氏曰く「今、考えてみると、それは

ギリギリのタイミングだったと思います。1971年、初めて祖谷に

僕がやってきた時、昔の生活はまだ残っていてましたが、

消えてゆく間際だったのです。今でも祖谷にもどると、

世間からはなれて雲の上の世界へ入ったような気持ちになります。

江戸時代の石碑にも「祖谷、我阿州(阿波藩)之桃源也」と

書いてあり、昔の人にとっても祖谷は桃源郷のような

世界だったようです。」氏は他の集落でも築300余年の

萱葺民家を買い取り、リニューアルして有名な

宿泊施設「篪庵(ちいおり)」を運営してる。

夕方散策をしていたらネコを押しているオバアチャンと会った。

ネコの中には沢山のワラビが。これから子供家族が

大阪から帰ってくるので、これで料理を作るのだとか。

他の家でもゴールデンウィークには帰省してくるとか。

とてもうれしそうな顔で話してくれた。まさに鶴瓶の家族に乾杯だ。

散策して気が付いたのは各家の近くに比較的新しい

墓があったことだ。先祖代々とは書かれていない。

随所に墓があるのはよく分かるが、新しいのはどうしてだろう?

本当にここは絶景だ。時の流れとともにその風景も変化していく。

この移りゆく自然の変化をボーと見ていると下界の

イヤなことが消えていく。上の写真は夕方の、下の写真は朝の展望台方面。

この食事のシステムは3通りある。①自炊②出前③他の民家へ外食

一番安直な出前をお願いした。秘境の仕出し料理なので

あまり期待はしていなかったが、それそれは立派で

素晴らしい料理であった。郷土名物の岩豆腐、祖谷こんにゃく、

そば米雑炊、ごうし芋などそれを入れた木箱も

高級料亭のもののようだ。この店は集落を下った所にある

「そば道場」からとか、故に祖谷そばは最高であった。

驚いたのは自炊用とはいえ、塩、砂糖、コショウ、ソース、

サラダ油、そしてなんとみりんまで用意してあった。

器も若い都会の人のセンスを感じた。

早朝散歩で中腹まで降りていくと「平家伝説の里東祖谷

落合集落」の石碑を見つけた。右側には朝日を浴びて

眩しい別の集落がある。この写真でその厳しい高低差が分かると思う。

渓谷のたもとにある赤い屋根の建物が里山の事務所からもかなり昇った所だ。


祖谷かかしの里

2018-05-30 05:46:40 | 旅 ~国内

二重かずら橋から落合集落へ向かう途中で、突然林の中に

不思議なきこり3人を発見してドキッ!よくよく見ると

人と間違いそうなリアルでおもしろいかかし達でした。

ここ東祖谷名頃集落は天空の村・かかしの里として名を轟かせている。

ここは集落のセンターにある「かかし工房」。センターの

回りにはまるで日向ぼっこをしている様な人形が並んでいる。

なんともおもしろおかしい光景に見える。

このかかしには「住民は30人ですが、かかし200体で

皆様のお越しをお待ちしています。」というプレートが掛けられていた。

前に向いているのは人形だとすぐ分かるが、赤い割烹着に

麦わら帽子をかぶっている女性は人間と間違えてしまう程リアルだ。

まるで生きているような動きを感じる。

部屋の中に入ると沢山の人形が並んでいた。

中には外国人も居て皆名前が付いている。このかかし人形の

製作者は、16年前大阪から故郷に戻った綾野月見(あやのつきみ)さん、68才で

人形作りのきっかけは「故郷に戻ってから畑に種をまいたけど

何も生えてこなかった。それでかかしを作ってみようと思った」と。

今まで作ったかかし人形の「かかし村基本台帳」なるものもあるそうだ。

部屋の真ん中で寝ているオバアサン。後姿はまるで

生きている様で思わず声を掛けたくなってしまう程だった。

かかしのバス停に鎮座しているかかし達。このかかし人形の

作り方はまず表情豊かな顔づくり。次に木枠に

新聞紙を80枚以上巻いて胴体作り。要らなくなった洋服、

ブラウス、スニーカー、長靴など着せて完成。

一体作るのに2日間程かかるそうだ。

売店のかかし達。このかかし人形の数は集落の人数より

多い約100体にのぼる。製作を始めて350体位になるそうだ。

大変なのは家の軒先や畑の中に設置するので2年位しかもたないのだそうだ。

 

 

人間そっくりのかかしが集落のあちこちでまるで生活をしたり

働いているように置かれている。それがなんともほのぼのとした

光景を醸し出している。その中の傑作作品をアップしてみます。

米国のニュースサイトが「見捨てられた日本の村」として

ここ祖谷かかしの里を紹介して話題になった。

最後に多くの畑仕事をしているかかしの中で一人本当に

畑仕事をしているオジイサン。それをジット見ている観光客。

見事にかかし人形の中に人が共存している。

感動的な写真だと思いませんか。名頃集落の住民は

かかしによる村おこしを歓迎しているそうです。


大歩危周辺エリア

2018-05-26 06:05:33 | 旅 ~国内

阿波池田駅で乗り換えて土讃線「大歩危(おおぼけ)」駅へ。

上りの次駅「小歩危(こぼけ)」と共に「オオボケ・コボケ」と呼び

メディアでも時折ネタとして紹介され親しまれている。

大歩危とは大股で歩くと危険から来ていると言われ、

日本三大秘境の一つ祖谷(いや)渓への入口になっている。

このエリアは吉野川の渓谷が美しく、平家落人の里や

後日アップ予定のかずら橋など秘境に相応しい景勝の地だ。

大歩危駅のホームにはかずら橋のミニチュア版の橋があり、

これから当地に向かう旅人の心を掻き立てている。

かずら橋の隣りには奇妙な「らぶらぶベンチ」なる物があった。

確かに2人で座るとすべり台の要領でお互いに体が寄ってしまうベンチだ。

このらぶらぶベンチには「たいへん、よくすべる

ベンチですので、くっつきすぎにごちゅういください。

との注意書きがあった。駅をデートスポットとして利用出来るように

JR四国が設置したらしい。

田舎の駅とはいえ、なかなか趣きがある「大歩危駅」の駅舎と駅前広場。

駅前の向こうはご覧の様にすぐに急な山並みが迫ってきている。

改札口の横には2011年4月に地元生まれの妖怪

「こなきじじい」が駅長に就任し、観光案内所入口横に

木彫りのこなきじじい像が置かれている。こなきじじいは

徳島県山間部などで伝承される妖怪で、本来は老人の姿だが、

夜道で赤ん坊のような産声をあげるとされている。

電車の車窓から撮ったので、写真がボケてしまったが、

吉野川の大河沿いと国道側にワイヤーを張り

全国から集められた百十匹の鯉のぼりが川面を泳ぐ

有名な「鯉のぼり秘境大歩危峡を泳ぐ」イベント。

本当はその地まで行ってじっくり撮りたかったのが、

時間の余裕もなく、この車窓の1枚だけとなってしまった。

ここ東祖谷(イヤ)は日本有数の圧倒的な質と量の平家落人

伝説が語り継がれていた地方だ。そして古き文化を

今に伝える平家落人の里にある東祖谷歴史民俗資料館。

ここには東祖谷の歴史に最も雅やかな変化をもたらした

平家一族の資料が展示され、興味のつきない歴史の足跡がうかがえる。

近代のわが国では、各地に置いて文明の利器や、

生活様式の変化に伴う日常用具の変遷が生まれた。

当時、貴重だった道具、利器の数々。

又生活を潤す芸術品など、村民が大切に残した時代の形、

暮らしの風景が展示してある。

祖谷に眠る秘密の物語「もうひとつの平家物語」

祖谷平家物語のポスターとNHK平清盛(平成24年スタート)の

ポスター ・・・平成は平安を見よ。

展示物の硝子に書かれた平家物語の冒頭の一節

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」が

より一層この地だと響いてくる。「ただ春の夜の夢のごとし

たけき者もつひには滅びぬ・・・」

母が平清盛の娘徳子(後の建礼門院)の安徳天皇御尊影

(御寺 泉涌寺 蔵)

平氏および天皇家の関係。平清盛の甥平教経(国盛)の影が

祖谷のいたるところにあった。

安徳天皇崩御により、平氏再興の願いは途絶えてしまったが、

平国盛はこの祖谷の地で根を張っていきてゆくことを決意し、

祖谷街道、土佐街道のどちらからも目に付きにくい場所に

居を構えた。その子孫は「阿波」の国と「土佐」の国の

国境に屋敷があることから、それぞれの国名から

1文字ずつ取り、「阿佐」という姓を名乗り、

23代に渡りこの地で暮らしている。それがこの阿佐家住宅だ。

屋敷の特徴のひとつは玄関。正面玄関からは

武士階級の人、横の小さい玄関からは役付のお百姓さん、

その他の人は西側の入口からしか出入りできなかったそうだ。

主屋の建立は文久2年(1862年)と考えられ、その後阿佐氏による

維持管理がなされてきたが、根本的な保存修理が必要と成り、

所有を三好市に切り替えて昨年3月、保存修理工事が完成した。

本屋を入母屋屋根に復元し茅葺を現わし、

玄関屋根は柿葺、下屋は板上に銅板養生に整備した。

阿佐家には大小二流の平家の赤旗、系図、宝刀が

伝わっており、この赤旗は日本最古の群旗と言われている。

戦場用の小旗には八幡大菩薩の文字と雄雌二羽の

揚羽蝶(平家の家紋)が入っている。

阿佐家は追ってから身を隠すために、代々亡くなった時は

名を伏せて墓に入るという約束も守られているという。

丁度訪問した時奥の松の木の下の畑で、現在の

阿佐家当主が農作業をしていた。その姿を目の当たりして、

歴史の非情さを感じてしまった。