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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

阿波半田・阿波池田

2018-05-25 06:13:24 | 旅 ~国内

半田という地名で一番名が通っているのは

愛知県の知多半島にあるミツカン酢で有名な半田市があるが、

次に知られているのが、ここ徳島県美馬群つるぎ町

(合併前の半田町)だ。

JR四国の徳島線の無人駅「阿波半田」の駅舎とホーム。

当駅の開業は大正3年と古いが、2014年の乗車人数

(降車客は含まない)は一日たった88人とほんのわずかの利用客の駅だった。

無人駅の為、乗車券は駅舎の向かいにある

雑貨店 正木 で販売していた。電車が来るまで

約1時間位あったので、そこの店のオバアチャンが

「家に上がって、お茶でも飲んでいきな」と言って

お菓子を食べながらよもやま話に花が咲いた。

まるでNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」の様なことに成り、

人の温かさに感動を覚えた。

駅近の古いトタンの看板には半田と名の付く役場、高校

病院等が並んでいて、とても変な気持ちに成ってしまった。

雑貨店のオバアチャンに「半田姓の人は多勢居ますか?」と

聞いたら、ほとんど居ないとの事。地名と名前とは

必ずしもフィックスしていないことが分かり、ちょっとガッカリした。

半田町で有名な物といったらなんといっても「半田手延素麺」。

半田素麺は江戸時代、当地の船頭たちが、

奈良の三輪地区(三輪そうめん)から技術を持ちこんで

冬場に素麺づくりを行うようになったのが始まり。

吉野川のもたらす肥沃な土地が小麦を育て、良質な水を

もたらし、吉野川と剣山に囲まれた山間に吹く寒風と

相俟って素麺作りの好条件となった。半田麺は

0.1~0.3mと太く、そうめんとひやむぎの中間の太さの麺だ。

阿波池田駅は三好市における主要駅で、土讃線と徳島線の

ターミナルとなっている。やはりここも大正3年開業で

一日の乗車人員は647人。池田といったらすぐ思い出すのが

「さわやかイレブン」「やまびこ打線」と呼ばれ、

春夏の甲子園大会で優勝3回、準優勝2回を

果たした蔦文也監督率いた池田高校野球部だ.

こういっては悪いがこんな山奥の高校から良くぞ甲子園優勝校が出たものだ。

阿波池田駅を降りると駅はやたらアンパンマンだらけだ。

高知出身の故やなせたかしのアンパンマンを

JR四国は前面に出し、アンパンマン電車を各線で運行している。

まさに四国はアンパンマン一色だ。


都市伝説の神社

2018-05-24 05:38:48 | 旅 ~国内

今回の旅の目的の1つは邪馬台国は実は

四国阿波にあったという説

こんな都市伝説とルーツのロマンに触れ、

目で確かめるというある意味馬鹿げた旅である。

美馬市美馬町には2つの神社がある。1つは倭大国魂神社

(やまとおおくにたま神社)もう1つは八幡神社である。

この近くには重清城跡があり、又3基の八幡古墳と

もう3基の大国魂古墳の6古墳群がある。

ここ倭大國魂神社(やまとおおくにたま)の由来は不詳だが、

平安時代の「延喜式」神名帳の美馬群条にある

「倭大国玉神大国敷神社二座」に比定される古社で、

大国魂命、大己貴命を主祭神とする。

「日本書紀」の第10代崇神天皇紀6年に

「天照大神、倭大国魂、二神を天皇の大殿の内にお祀りしたとある。」が、

「延喜式」で「倭大国魂」を冠とする神社は

他に無く、「倭大国魂」との強い関係性が窺える。

古事記の神話の舞台が徳島であると考える根拠の一つとして、

日本で唯一「倭」の国名を冠したこの神社の存在をあげている。

天皇の尊号に「美馬」を用いたのは、神々の母神が

鎮まる美馬地方に天皇が入り込んだため、由緒あるその名を

冠したものと言われている。少数説だが邪馬台国四国山上説が

あるのは歴史のロマンだ。四国は日本史のブラックホールだ。

倭大国魂神社の隣りには八幡神社がある。鎌倉時代末期に

小笠原長親が重清城を築いた時に、京都石清水八幡宮の

分霊を勧請し、源氏であった小笠原氏の守護神、

武神として祭られ、明治には郷社となり、現在も村人たちの

氏神、鎮守の神様として崇敬されている。境内には昼なお暗く

うっそうとした森である。樹齢数百年、太さ5~6mのクスの巨樹が

神社の神秘性を高めている。

徳島県三好市東祖谷地区にある栗枝渡八幡神社

(くりしどはちまんじんじゃ)。ここは鳥居も無く、平家の隠れ里集落に

ひっそりとあるが、詳しい人はよく知っている神社だ。

「栗枝渡(くりしど)」は「キリスト」のことではないかとの話もある。

ここはユダヤ教やキリスト教をルーツとするパワーが溢れている。

祖谷(イヤ・・・ユダヤ教のイザヤから来ているとか)

には平家や安徳天皇にまつわる伝説遺跡が多く残っている。

安徳天皇は壇の浦で入水したことになっているが、入水したのは

影武者で、この地方の伝承では祖谷に落ち延び

剣山に宝剣を奉じ再起を祈願したが、ここ祖谷で崩御され、

栗枝渡神社で火葬されたというらしい。

安徳天皇の次に即位した後鳥羽天皇から、天皇家の

家紋菊16紋が与えられたとの事。これも何かの縁か。

東祖谷山村、西祖谷山村には天皇家にまつわる話が

非常に多いという。奥深い祖谷の山の中に

「天皇村」というバス停がある。

この山深い場所は天皇家が移り住む予定だったという伝説もあるとか。

 

今回の秘境の旅の目的の1つにこの超マイナーな

一笑に付される様な伝説の地に行き、実際に目で

確認することにあった。歴史とはロマンであり、

そこから派生した様々な伝説には理屈を超えた

魅力を感じる。読者の皆さんも、自分のルーツを調べて各地を

訪ねてみてはどうですか。きっと何かを感じることがあると思いますヨ。


うだつの町並み

2018-05-20 05:42:39 | 旅 ~国内

うだつの町並み、脇町南町へ行くには、徳島線穴吹駅(美馬市)で下車。

この路線の駅は無人駅が多く、改札の役割を

車掌さんが電車を降りてホームでやっていた。

なんとのどかな風景だったことか。車中でもボックス席に

高齢な男女の乗客が方言で一種の井戸端会議をやっていた。

徳島弁はとても優しい言葉で(ex ~けん 語尾)

車窓景色と相俟ってのどかのどかな時が流れていた。

穴吹駅からタクシーに乗り、しばらく走り日本三大

暴れ川の1つ四国三郎吉野川(参 利根川・・・阪東太郎、

筑後川・・・筑紫次郎)を渡るとそこがうだつの町並 美馬市脇町。

ここは江戸時代から阿波藍の集散地として栄えた

商家町で江戸時代中期から昭和初期にかけての

歴史的な建造物が建ち並び、歴史の変遷にふれることが出来る所だ。

南町通りの長さ400mには、歴史的な建造物が

85棟残されている。ここは昭和63年12月16日、

全国で28ヶ所目の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

昭和20年代の香りがする美馬市伝統工芸体験館、美来工房

そして自働電話と書かれた電話Box。

ここワタル珈琲さんの建物も戦後の匂いがする懐かしい建物だ。

うだつ(卯建)とは町家の妻壁の横に張り出した袖壁で、

防火の役目をした。江戸から明治にかけて富裕な家は

この卯建をあげた立派な家を造っていた。

ことわざに、いつまでもぐずぐずしていて一向に出世の

できないことを「うだつが上がらぬ」とはこれが語源だ。

鬼瓦は魔除け、火除け、雷除け、家の守り神であり、

その上に鳥ぶすまといって鳥が鬼瓦に糞をしないための

止まる所帆掛船の帆の形(防火)にしている。

藍染めの商品を取り扱っている「うだつや」さん。

薄暗い商家の店の中で味わいの深い藍の様々な

商品が並んでいる。阿波藍の最古の資料では

1247年(宝治元年)藍住町の見性寺という寺の和尚が

藍を栽培して美馬軍岩倉(現在の美馬市脇町・・・ご当地)で

衣を染めたと記されている。

「うだつや」さんの店頭でかわいらしく売られていたお手玉人形1個400円。

突然何これ!といった看板に遭遇した。

「警告 犬のフンを放置する悪質な飼い主を追跡捜査中!」

美馬市環境下水道課 この文章が一番強烈だったが

他にもいくつも犬のフンについて看板を見た。

美馬市の条例でもあるらしいが、特に犬のフンに片寄った印象を持ってしまった。

昔は当たり前のたばこ屋の店頭構えだったが、

今と成っては郷愁を誘うものがある。

土蔵などに用いられるなまこ壁。日本伝統の壁塗りの

様式の1つで、壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に

漆喰を盛り上げた形に塗ったものだ。

関東方面ではあまりみないとてもビックな松ぼっくりが

無人の籠に入れられて、1個100円で売られていた。

この松ぼっくりがなぜか魅力的に見えて数個買おうと思ったくらいだ。

細かい角木を縦横に間をすかして組合せ、窓や出入口に

取りつける建具が格子で、出格子などは旧商家が

威勢を表す建築様式だ。出格子からさらに道路側に張り出しているのが

持ち送りといって、出格子を支え、装飾にもなっている。

本当に本当に懐かしいホーローでできた「ボンカレー」の看板。

モデルは松山容子さんで発売から50周年を迎えたそうだ。

「江戸から町屋のにおいを感じながら、しわしわ歩きないよ

ほんまにうだつが上がるけんな 心が癒されて いんでよ」

うだつ名物 そば米雑炊の店、茶里庵さん。そば米雑炊(1080円)は

郷土料理の原点。阿波の山里では昔からそばの

米粒が入った吸物で阿波尾鶏の肉、多種多様な野菜が

豊富に入った栄養満点な健康食品大変珍味な逸品

これこそふる里料理の王様と言われている。

こんな山奥の地にも外国人の観光客が居る。

一昔前までは考えられないが、SNSの発達の為か

我々日本人よりも情報を持っている外国人が増えた。

この街で見た唯一の近代的建物 道の駅の売店レストランと

1792年創業の藍商の館「吉田家住宅」の裏庭。

モダンな藍色のパラソルがお洒落な空間を演出している。

ここは5つあるカメラポイントの1ヶ所だ。

吉田家住宅藍商の館の中。商人の人形と藍染商品が

江戸時代から現代までの時間を継いでいる様だ。

阿波踊竹人形作りを実演販売している「時代屋」さん。

このご主人から「どこから来たのですか?」と聞かれたので

「さいたま市です」と答えたら「そんな遠い所からですか。

ようおいでてくれましたなー」と感心されていた。

1585年(天正13年)の冬、秀吉より四国征伐の功績により、

蜂須賀家政に阿波国を拝領、筆頭家老稲田植元

脇城に入城する。城下町の復興を命じ、

焼跡に町並み、表国4間、裏へ間と定める。

讃岐、伊予、備前などからも諸商人が集まり繁栄が始まった。

辻井戸。昭和62年、建設省の手作り郷土賞と

日本の道100選に選定された。

窓の形が虫を入れる籠に似ていることから、「むしこ窓」と

呼ばれる。部屋の明かりとりや、風通しを良くする為に造られた。 


徳島の街あれこれ

2018-05-19 06:03:09 | 旅 ~国内

ゴールデンウィークに知られざる都市伝説、

ルーツへのロマンを求めて、四国秘境の地への旅へ行って来た。

今までのとはかなり違う、シナリオのない旅、NHKの

「鶴瓶の家族に乾杯」のような旅と成った。

そこで触れたものは人の温かさ、優しさ、都会が失った

人そのものの息遣いであった。

その旅はJR徳島駅から始まった。さすが、徳島県の県庁所在地の

徳島市の駅だけに駅舎、駅ビルは立派だ。

市の人口は約25万7000人、幕末時は国内で

人口上位10位に入る城下町だった。

四国の県都の中で唯一私鉄が走っていないが、

乗降客数はJR四国の駅の中で第2位だ。徳島駅開業は古く

明治32年に遡る。路線は4線で全線全区間は非電化で

車両はディーゼル車のみだ。今回秘境の旅で利用したのは

徳島線(よしの川ブルーライン)、終点は阿波池田駅だ。

改札口の所にはセブンイレブン店があったのも目に付いた。

久し振りに車両が一両の鈍行列車に乗って「穴吹」駅へ向かった。

電車に乗るのに、多少時間があったので駅前に

散策に出て面白いものを発見。徳島といったら阿波踊り。

歩道のラバーに描かれた絵と文字の阿波踊り。

四国と言ったら、四国八十八ヶ所霊場を巡るお遍路さん。

駅ビルのショールームの中に巡礼用品一式の販売物が

展示してある。駅前には背中に「南無大師遍照金剛」と

書かれた白装束をまとい、金剛杖、菅笠姿のお遍路さんが歩いていた。

今回の旅では様々な所でお遍路さんとすれ違ったのが

とても印象的であった。お遍路の目的は健康祈願、自分探しや

開運、縁結びなどそれぞれ。巡礼者が持つ笠には

「同行二人」という文字が書かれており、ひとりは自分、

そしてもう一人は弘法大師を意味している。

つまり、弘法大師様と二人で巡礼の道を歩く、それがお遍路なのだそうだ。

空港から駅までの間、バスの窓から見て気に成ったのが、

この徳島ラーメンだ。駅前にも朝早い為、まだ開店していないが数軒あった。

徳島ラーメンは徳島県(東部)のご当地ラーメンで

地元では中華そばやそばと呼ばれている。

徳島ラーメンは大きく分けて「茶系」「黄系」「白系」の3系統がある。

最初に戦後間もなく白系が誕生した。

茶系は黒系とも呼ばれ、豚骨スープに濃口醤油や

たまり醤油で味付けした中細麺を使用、トッピングに

豚のバラ肉、ネギ、もやしなどを使い、生卵を乗せるのが特徴だ。

全国的には徳島ラーメンとは茶系を指す。黄系は鶏がらや

野菜などを使い薄口醤油を加えた薄い色のスープを用いており、

ネギやもやし、チャーシューを用いる。白系は豚骨スープに

薄口醤油や白醤油などで味付けしたもの。

いずれもスープの味は濃く、やや強めの甘味があるのが特徴。

今回の旅で一番悔いが残ったのは徳島ラーメンが食べられなかったことだ。

以前にも書いたが旅をしたら地元Jリーグのチームをアップするように

している。ここには徳島全県をホームタウンとするJ2徳島ヴォルティスがある。

2004年の設立で約1万8000人収容の鳴門、大塚スポーツパーク

ポカリスエットスタジアムをホームスタジアムにしている。

一番のスポンサーはオロナミンCで有名な大塚製薬。

チーム名称の「ヴォルティス」とはイタリア語で渦を意味する

  ヴォスティーチェをもとにした造語だ。2014年には

J1に昇格したが一年後に又J2に降格した。東四国にはJ2で

もう一つチームカマタマーレ讃岐(香川県全県をホームタウン)があり、

東四国クラシコはvsカマタマーレ讃岐。

そして四国ダービーで愛媛FCがある。


神戸の街あれこれ

2018-05-14 05:53:11 | 旅 ~国内

神戸港中突堤の袂に建つ神戸ポートタワー。

高さ108mで昭和38年に建てられ平成22年に改築。

平成26年12月に国の登録有形文化財に指定された。

ポートタワーは世界初のパイプ構造の建造物で、

和楽器の鼓を長くしたような外観(双局面構造)が特徴だ。

その姿から「鉄塔の美女」とも称され、日本で初めてライトアップされた建造物だ。

神戸ハーバーランドは夜景で有名な神戸の中でも代表的な地だ。

港神戸のランドマークホテルのホテルオークラ神戸。

地上35階建ての当ホテルはホテルオークラより

受け継いだ伝統の格式、上質な空間、洗練されたおもてなし

そして夜景が自慢の神戸を代表するホテルだ。

その手前が白い波、帆船の帆をイメージした神戸海洋博物館。

この博物館は「海・船・港」をテーマにした神戸港の

シンボルの1つになっている。

1987年に神戸港開港120年を記念して開館した。

海に突き出した神戸港中央突堤の先に、

浮かぶように佇む白亜のリゾートホテル、神戸メリケンパーク

オリエンタルホテルの外観は、海と船に親しめる

新しいウォーター・フロントの創造というコンセプトに基づき、

海からせり上がる白い波をイメージした

なだらかな流線型のデザインを採用し、

景色にやさしく溶け込む独特のフォルムが誕生した。

この建物は神戸のシンボル神戸ポートタワー、

神戸海洋博物館とともに三位一体の存在であることを考慮して建てられた。

 

メリケンパークから見た神戸ハーバーランドの夜景。

ここは旧国鉄の貨物駅や川崎製鉄・川崎重工業の跡地を

再開発して平成4年に街開きした市街地だ。

この中には夜の神戸を彩るモザイク大観覧車もある。

神戸港の絶景を上空から一望することができ、

デートを楽しむカップルたちで賑わう。

神戸の夜の歓楽街として知られる「東門街」。しかしこのエリアには

風俗営業店はなく、昼間時には、コンビニ、酒屋、一般ホテルなどが

営業しているため、昼間も商店街として機能しつつ、

昼と夜の雰囲気が変わるという特徴を持つ。

夜二次会で繰り出したビルはホテルから近い為、

早朝散歩でもう一度見に行ってみた。この10階建てのビルは

ほとんど全部と言っていい程、スナック、クラブなどの

飲食店でなんと約50店舗も入居している。CPも東京に比べて

かなり安く、ちょっとビックリした。タクシーの運転手さんの話では

夜の飲み方は大阪人は競争が激しい為かクレームが多いが

神戸人は大らかであまり文句を言わないとの事。

「神戸の飲食店は楽ですヨ」と言っていたのが印象的だった。

ビルの壁をひっこませてて地蔵尊を祀っていたのが

新鮮で思わずパチリ。このビルのオーナーはおそらく

信仰心が深い人なのだろう。関東ではあまり見ない光景だ。

神戸のグルメといったら神戸牛。市内には神戸牛の店が

183軒もあるようだが、市の中心地三ノ宮を散策していたら

「神戸牛観光MAP」なるものを発見。

この限られたエリアだけでも22店舗も紹介されている。

この看板は「神戸牛観光倶楽部」が出しているようだ。

http://kobebeef-kanko.com/

東門街のエリアから生田ロードのアーチゲートを見る。

ここにも神戸牛ステーキの広告が出ている。

早朝7時前の為ほとんど人気が無い。

 

 

因みに前述したタクシーの運転手さんから

生の阪神淡路大震災の体験談を聞いた。

震災発生後23年間も経過しているのに

きのう起きた様に生々しく話をしていた。

「何だかドドドゥーとものすごい音が寝ている時にして、

タンスが倒れ、隙間で九死に一生を得た」と。


北野異人館街

2018-05-12 06:23:52 | 旅 ~国内

神戸異人館街の玄関口(大駐車場がある為)、「北野工房のまち」 

ここは神戸市立北野小学校が廃校になった後、

校舎(昭和6年築)を活用して、平成10年に北野工房のまちに変わった。

昔の校舎の雰囲気を残しつつ、買って食べて体験して遊べるおもしろい所だ。

http://kitanokoubou.jp/

1階には10店舗が入店しており、神戸のグルメを存分に味わえる。

又、お土産などにもどうぞ。

その中でも今評判になっているのが、プリンの店「神戸フランツ」 

http://www.frantz.jp/

ここのスケジュールがタイトだった為、とうとう買えなかった。

2階には主に小物などのグッズのお店が11店舗あり、

ここの特色である手作り体験が10店舗で出来る。

それ以外に87年の小学校の歴史の思い出の品々を

展示している市民ギャラリーもある。

主だった異人館が写真付きで紹介されている北野異人館MAP。

この地図はよく見るとうろこの家グループのものらしい。

この洋風建築物(異人館)が数多く残存する北野町山本通は

東西約750m、南北約400mの地区を伝統的建造物群保存地区に定められ、

洋風建築物34棟、和風建築物7棟等の保存措置が講じられた。

この界隈には明治20年代から大正期にかけて

建設された洋風住宅(いわゆる異人館)が多数残り、

それらが和風住宅と混在して調和のとれた街並みを形成している。

戦時中は外国人居住区ということで神戸大空襲の対象と

されなかったことが幸いし、優美な雰囲気を残す稀少な街並みとなっている。

現在スターバックスになっているこの家は登録有形文化財に

指定されている。コロニアルスタイルのこの建物は

明治40年にアメリカ人M・シェー氏によって建てられた。

その後、所有者が何回か移ったが昭和52年放映の

NHK・朝の連続テレビ小説「風見鶏」の主人公であるドイツパン職人、

ハインリヒ・ブルクマイヤーのモデルとなった人物の二世だ。

残念ながら、震災で被害が大きく解体されこの地に移築・復元された。

いよいよここから坂をのぼり「風見鶏の館」へと向かう。

天気は五月晴れで空気が爽やか、本当に気持ちが良く

仕事のことが頭から消えていった。

昭和53年に国指定重要文化財に指定されたここ

「風見鶏の館」は、明治42年頃、ドイツ人貿易商

ゴットフリート・トーマス氏の自邸として建てられた。

多く残る異人館で、レンガ張りの建物は唯一のもので

色鮮やかで重厚な雰囲気を持っている。

設計はドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデだ。

風見鶏の館の回りには絵を売っている画家が何人かいた。

これを見てパリ郊外モンマルトルの広場で

画家の卵が絵を売っているのを思い出した。

 風見鶏の館の隣りにある「萌黄の館」。この建物は

明治36年にアメリカ総領事の邸宅として建てらえた。

2つの異なった形のベイ・ウィンドー(張り出し窓)が特徴だ。

アラベスク風模様が施された階段、重厚な

マントルピースなど贅沢な意匠が随所にみられる。

風見鶏の館の隣りにある北野天満神社は異人館が

建ち並んでいる中で1180年(治承4年)創建という歴史を誇っている。

ハンター迎賓館はエドワード・ハズレット・ハンター氏と

愛子さんがその余生を静かに過ごした場所だ。

E・H・ハンターはアイルランド北部ロンドンデリーに生まれ、

慶応3年に横浜に来日した貿易商で

大阪の薬問屋の娘、平野愛子と結婚した。

これが日本における国際結婚の第1号である。

ここから狭く落ち着いた住宅街の路地を行き左へ曲がって

急坂を上ると「うろこの家」にたどり着く。

うろこの家まではあまりにもの急坂。途中にあった

ウィーンオーストリアの家とデンマーク館の間の中庭にある

屋外カフェで小休止。ここで息を吹き返してうろこの家に向かう。

北野異人館街のなかでも、ひときわ見晴らしのいい高台にある

「うろこの家」は、神戸で最初に公開された代表的な異人館だ。

1905年(明治38年)に外国人向けの高級借家として建てられ

その後、ドイツ人教師の邸宅となった。国の登録有形文化財に

指定されている。特徴は何と言ってもこの魚の鱗のように見える

美しい天然スレートの外壁。ヨーロッパの古城のような

佇まいは、これぞ異人館といった風格だ。

庭の真ん中には「カリドン(ボルチェリーノ)の猪」と呼ばれるブロンズ像が。

カリドンの猪はギリシャ神話で鼻に触れると幸福が訪れると言われている。

そして後ろの方にはブルーのダチョウもどきの作品が5羽。

そしてなぜか豚のおもりの降雨計が設置してあった。

館内には、時代の経た家具・調度品ともに、マイセンを

はじめとする陶磁器、エミールガレやティファニーなどの

ガラス工芸品が展示されている。

2階から神戸の中心街を展望。中庭の生垣も手入れが

行き届いていて素晴らしい。まさにここからの見晴らしは絶景だ。

苦労して来た甲斐があるというものだ。

 

うろこの家の隣には美術館がある。

1階では造形作家の松浦つかさ展が開催中であった。

2階では近代ヨーロッパの著名画家の所蔵品が展示してあった。

ユトリロの「ミミの家」、若い頃大好きだったビュッフェの「アナバラ像」 

キスリングの「赤いひざ掛けの裸婦」

それ以外にもルノアール、ルオー、マチス、ドニなどの作品がある。

さらに一番上には山手八番館と北野外国人倶楽部、

坂の上の異人館などがあるが、時間の関係と足疲労から行くことをやめた。


神戸南京町

2018-05-09 05:24:59 | 旅 ~国内

神戸市にある中華街南京町は横浜中華街、長崎新地中華街と

並んで日本三大チャイナタウンと言われている。

東西で約200m、南北110mの範囲に100軒あまりの

店舗がひしめき合っている。これでスミダマンは三大チャイナタウン

全部を制覇、アップしたことになる。

南京町の中央通りは十字路になっていて東はここ長安門、

西は西安門、南は海栄門、北は元町商店街に繋がっている。

現在、神戸に在住の華僑の人々は約1万以上、横浜の

華僑6000人に比べてずっと多い。神戸華僑の人々は

他の地域に比べて日本人社会と良好な関係を築いてきたと言われている。

南京町の歴史は1868年神戸港開港まで遡る。その頃は清国とは

通商条約を結んでいなかった為、華僑は居留地市内に

住むことが許されなかったので雑居地に移住してきた。

1945年には神戸大空襲で全焼。戦後は退廃化が進み

1960年代には純粋な中華料理レストランは1軒まで減少したという。

昭和56年「南京町復興環境整備事業実施計画」により

広場や楼門の建造があり、一気に観光地化が進んだ。

この中央広場にもあずまやが建てられた。

ということで今年南京町は生誕150周年を迎えた。

阪神淡路大震災において、ライフラインが停止、やむを得ず店頭での

点心などの軽食テイクアウト販売、これが観光客に

好評を博し、現在でも南京町の名物となっている。

そういうことで店頭の路上で点心、スイーツ、材料、記念品などを

売る店が多い。ここユンユンの焼き小龍包は南京町の

食べ歩きでは外せない一品だそうで、若い女性の

長蛇の列を引いた。一口かじると絶品肉汁スープが

溢れだすので、口内火傷に注意。青ネギとごまの風味が

ジューシーな肉餡の美味しさを引き出している。

大正4年、一代目店主・曹松琪の手で神戸に店を開いた。

「ぶたまん」という呼び名の発祥の店だ。それが元祖豚饅頭の「老祥記」。

開店当時は中国の船員さんが故郷の味を求めて集まったそうだ。

この写真には写っていないが、後ろには長蛇の列ができ人気の程が伺える。

2口3口で食べられるぶたまんは小振りの大きさで1個90円。

お土産に買ってきたが、やはり出来立てが食べたかったな。

因みに今回の旅で気が付いたのが、肉まんのことを神戸ではぶたまん、

メンチコロッケのことをミンチと言う。

こんな些細な違いが他にももっとあるのだろう。

地域文化とはおもしろく奥が深い。

 


生田神社とその周辺 

2018-05-06 06:01:49 | 旅 ~国内

生田神社は神戸市の中心地中央区下山手通1丁目にある。

式内社(名神大社)で、旧社格は官幣中社。

約1800年以上、神功皇后以来の歴史を有する由緒高い大社だ。

神戸の地名は当社の神戸(かんべ)から起こったもので

地元では「生田さん」として親しまれている。

生田神社境内の見取り図。生田神社には他にも源平合戦の

古戦場となった名勝「生田の森」の他、「生田の池」

「箙の梅」「敦盛の萩」などの見所がある。

早朝散歩で行った為、神社本殿に拝殿するにはまだ早く、

楼門はシャッターがまだ閉まっていた。それにしても

神社の門にシャッターとはあまり記憶に無いが、

その理由は後程触れてみる。それでも早朝から

参拝に来る人がいて、この時間の人は

敬虔な祈りを捧げている姿が印象的であった。

後程、アップするが、神社の隣りのホテルで朝食をとった後

再度、食後の散歩で行ったら、宮司が朝のお勤め(朝拝)の

儀式を行っていた。神撰(米、酒、塩、水等)をお供えし、

その日一日、生かされている事の感謝、平和と安寧、

地域の皆様の繁栄等をお祈りしている。

実は生田神社は「蘇りの社」とも言われている。

それは平安の昔、名勝「生田の森」が、源平合戦の古戦場となり

近々は昭和20年6月5日の空襲により、悉く焼土と化し、

昭和34年4月氏子崇敬者の奉賛により、戦災の復興を成し遂げ

昭和59年には式年造替の制を定めた。平成7年1月17日未明の

阪神淡路大震災により御本殿をはじめ

境内各所に甚大な被害を受けた。これはその時の写真。

平成8年6月には不断の努力により以前にも増して

立派な復興(楼門にシャッターを設置など)をした。

梶原の井、別名かがみの井とも言われ、800年前の

源平生田の森合戦の折、梶原景季がこの井戸の水を汲んで

生田の神に武運を祈ったと伝えられている。

ここが世に有名な源平合戦の古戦場の生田の森。

平家はこの地を大手の木戸口とし、知盛大将軍・重衡副将軍が

陣取り防備を固めていた所、ここへ源範頼の軍勢が攻め入った。

この時源氏の若武者の梶原源太景季が

境内に咲き誇った梅の一部を箙(えびら)に挿して戦ったことは

武士の風流として語り継がれ、現在も「箙の梅」として老梅が境内に植わっている。

生田神社の境内には「大海神社」「松尾神社」「人丸社」

「雷大臣社」「寒神社」「弁天社」「戸隠社」「蛭子社」など

多くの神社があるが建築意匠的な空間として目に止まったのが

この稲荷神社と隣りのRC打放しの建物のコントラスト。

生田神社の生田池の前にあるのが一泊お世話になった

「ホテルモンテエルマーナ神戸アマリー」(神戸市中央区中山手通り2-2-28)

隣は生田警察署で、神戸の盛り場東門街まで歩いて

1~2分という最高のロケーションにあるホテルだ。

最近、旧ホテルを建替え、新たなコンセプトでホテルモントレグループ

(全国に19ヶ所のホテル)が経営している。

外観は一見するとマンションの様でロビー、レストランなど

共有部分はコンパクトだがお洒落な空間に仕上げられている。

https://www.monte-hermana.jp/kobe/

 


「天空の城」竹田城跡

2018-05-03 04:00:11 | 旅 ~国内

会社親睦会の会長がどうしても「天空の城」竹田城跡へ行きたいと

いうことで、ここを目玉に神戸、姫路方面へ社員旅行に行って来た。

2日間素晴らしい天候に恵まれて、中味の濃い印象深い旅であった。

バスの車中から国道越しに撮った竹田城跡のある山。

たまたま交通標識が邪魔してしまったが、この標識の上に

ちょこっと写っているのが、全国屈指の山城遺構、国史跡の竹田城跡だ。

ここ山城の郷は天空の城と呼ばれる竹田城跡への登城口として親しまれて、

自然豊かな山並みを展望できるくつろぎの施設です。

(兵庫県朝来市和田山町殿13-1)

ここでは食事処、売店があり、和牛の最高但馬牛のメニューや

但馬の地酒などの特産品が売られている。

ここは朝来市はもちろん、但馬全域の観光情報を発信する拠点となる

観光案内所もある。ここでは「竹田城跡雲海トリックアート」や甲冑の

試着体験コーナーなどくつろげる空間となっている。

竹田城跡へ行くにはここ山城の郷から竹田城跡登山道入口まで1.4㎞、

バスやタクシーで行ける。徒歩では20~30分位かかる。我々は団体の貸切りバスで

登山口まで行った。一般客用の天空バスにはこの様なマッピング絵が

描かれていて思わずシャッターを押してしまった。

中腹駐車場からは城跡までずーと登り坂を歩く。この地点は600m地点、

あと大手門までは残り200mの地点だ。この辺りに来ると呼吸が乱れ

自分との戦いが始まる。かなりきつい坂道であった。

 縄張り(平面構成)の規模は南北400m、東西100mに及び、

完存する石垣遺構としては全国屈指のもので、

平成18年には日本城郭協会により「日本100名城」に選定された。

今回大正解だったのは、こちらのガイドさんをお願いしたことだ。

城跡に行ってみたら、案内の表示が何もなく、ガイドさんの説明を聞かなかったら

その価値、その意味が何も分からずに唯見て回って終わってしまったはずだ。

ガイド費もたった2,000円とタダみたいだった。

ガイドさんと待ち合わせした所に石がゴロゴロ置いてあった。これはここにトイレを

造ろうと掘ったところ出てきた石で、城壁に使われている花崗岩と同じものだという。

実は竹田城跡が一躍全国的に有名になったのはこの一枚の写真からだ。

雲海に浮かぶ姿から、「天空の城」「日本のマチュピチュ」などとも形容され、

その風景は幻想的そのものだ。因みに竹田城の周辺は山あいの盆地で、

しかも円山川から立ち上る霧によって雲海がよく発生する。

秋口から初冬にかけてよく晴れた早朝には、城址の石垣を眼下に一面の雲海が広がる。

竹田城跡では、いくつかの映像作品でもロケ地として使用され

この城跡をさらに有名にさせている。その一つが高倉健主演の「あなたへ」(2012年)だ。

それ以外に黒沢明監督の「影武者」(1980年)

天と地と(1989年)春日山城として使用。

軍師官兵衛(2014年 石垣山城として)など。

ひたすら坂道を約20分かけてようやく城跡北千畳へ到着。

竹田城は播磨・丹波・但馬の交通上の要地に築城された。

築城当初の姿は不明な点が多いが、石垣遺構周辺に存在する

曲輪からすると現在の本丸・天守台の存在する

山頂部から三方に延びる屋根上に曲輪を連続的に配置し

堀切や竪堀で防御性を高めていたものと思われる。

石垣のたもとには照明用のライトが設置されて、夜はライトアップされ、

それは幻想的な姿になるらしい。一度は是非見てみたいものだ。

ガイドさんからこの石垣の所で城跡の石積の構造の話が詳しくあった。

竹田城の石垣は、安土城や姫路城と同じ「穴太(あのう)積み」で築かれている。

穴太積みとは、滋賀県大津市坂本町穴太に住む「穴太衆」という人々が

持つ石積み技法をいう。又、石垣をよく見ると幾ヶ所かに石割りの為の

くさびの跡が遺されているのがわかる。

石垣の積み方である算木積みとは石垣の出角部分において

長方体の石の長辺と短辺を交互に重ねて積んでく技法で、

これにより石垣の強度が増し崩れにくくなる。

表面が小さな石は奥まで石が入っており

隙間埋めには小さな石が置いてあるだけで敵が登ろうとすると

落ちる様にしてある。説明を聞いていると、戦の多い時代の城は

いかに敵にとって攻めずらくするかの知恵がこれでもかこれでもかと

活かしたつくりになっているのを痛感する。

城跡の所々には野生の藤が美しく花を咲かせていた。今回の旅では

色々な所でこの藤の花が咲いていたのが印象的であった。

城跡から見る景色は素晴らしい。眼下にはいくつかの集落が見えたが、

この街はガイドさんによると昔、西側にあったが、西方の敵が(毛利)攻めてくる

危険性があったので安全な東方のこの地に集団移転をしたらしい。

見学路は黒いフカフカしたラバーの様なものが敷かれていた。

おそらく城跡を傷めない為の工夫だと思う。疲れた足には負担が少なく歩き易い。

ここで城の歴史について触れてみよう。

嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱勃発後、山名氏と赤松氏の間に

深刻な対立が生じていた。竹田城はこの時、赤松氏に対する

山名氏方の最前線墓地のひとつとして築城された。

以後、太田垣氏7代にわたり城主となるが、

天正5年(1577年)、羽柴(豊臣)秀吉の但馬攻めにより

羽柴秀長が城代となった。これ以降、竹田城は

織豊方の拠点城郭として機能した。

播但自動車道の和田山JCTと和田山PAの間にある橋

「虎臥大橋」。通称めがね橋は竹田のまた隠れた魅力のひとつ。

橋長は402mあり、アーチ的デザインが素晴らしい橋だ。

その先には但馬牛の畜産研究所がある。ガイドさんの話では

但馬牛は、神戸牛、松坂牛などのブランド牛の全ての元の牛だと自慢していた。

城跡から遥か下に小さくスタート時点の山城の郷が見えた。昔の武士は

下から城へ登城する生活はさぞ大変だったことだろう。

この日は団体客は我々だけで観光客は本当に少なかった。

だから1人1人がゆったりと城跡を楽しむことができ、

悠久の時に浸ることができた。竹田城跡は先程紹介した

一枚の写真が公表される前は年間1万人程度の

観光客であったが、この写真でその存在が広く

知られてからはピークで年間50万人の観光客が殺到したとか。

現在はピークが過ぎ年間25万人程とガイドさんが言っていた。

ピーク時は通行路から人が溢れ、石垣の縁の草も踏まれ枯れ、

雨が浸透して崩れる危険が出てきた為、ロープを張って通行路を限定したと

ガイドさんが説明していた。関西人は初ものが好きで、何でも珍しいものを

見に来る傾向があってブームになったが、今は大分落ち着いたとか。

真ん中の大きな石はパワーストーンだとか。この説明を聞いた女子大生が

左上の方にハートの形の石を発見し、ラブストーンをみつけた

エピソードもガイドさんが語っていた。

南千畳から見た南二の丸、本丸方面の一枚。この角度から撮るのが

ベストポイントだとか。それにしてもこの急な山によくも石垣の石材や

城の建築資材を運搬したものだとその当時に思いを馳せてしまう。

ガイドさんが見せてくれた竹田城跡を使った映画の一夜城の一枚。

これはCGで作った為。数秒で出来た城だと言っていた。

さぁーいよいよ下山。来る時はこれだけに姫路から片道2時間程度時間をかけて

来るだけの価値があるのかと思っていたが、それだけの価値が充分あると納得。

爽やかな気持ちで浮世の世界へ戻った。

下山途中、朝来市の竹田城課のカラーコーンを発見。

今は観光交流課に変わったらしいが

その当時はガイドさんの言葉を借りれば数100年静かな眠りを解かれ、

黒船来襲の様に役所が対応したイメージが伝わって来た。

この山では野球のバットで利用されるアオダモが採れるとのこと。

アオダモの材には粘りがあるのでバットに向いているからとか。

最後に雲海の中で本丸から南千畳を望んだ竹田城跡の写真一枚を紹介したします。

ここは苦労して来るに充分値する素晴らしい所であった。

 

 


湯河原駅周辺光景

2018-03-07 06:22:08 | 旅 ~国内

奥湯河原温泉で開催された当社の協力会「スミ友会」

定時総会に出席の為、上野、東京ラインに乗って湯河原駅に来た。

約110分と時間はかかったが乗換え無しで来られるとは

本当に便利になった。湯河原駅は大正13年10月1日に開業だが、

昨年駅前広場の整備が完了した。設計、デザインは

新国立競技場も手がけた隈研吾建築都市設計事務所。

「木のぬくもりと湯けむりを感じる温かな広場」

「観光客も住民も気軽に触れ合えるコミュニティとしての駅前広場」

をコンセプトにしている。

改札正面にある大屋根広場。広場でも明るくあたたかみのある空間になっている。

庇が広くなったことで、雨に濡れずに、バス、タクシーに乗降できる。

新しく観光案内板も設置され、無料wi-fiスポットも整備された。

夏にはドライミストもでき、ベンチは木製の無垢の木が並べられている。

そしてなんといっても「ゆがわらの手湯(ハンドスパ)」が

アピールしている。やわらかな温泉の源泉掛け流しとなっている。

例年、2月上旬から3月中旬には湯河原梅林では山麓斜面に

約4000本の紅梅、白梅が梅のじゅうたんのごとく咲き誇るらしい。

今年の冬は寒いせいか、この日(2月25日)はまだ

五分咲きの標示が出ていた。

ゆがわらの手湯の所には、スマホカメラの為の自撮り用置台があった。

こんなのは初めて見て感心した。

駅のロータリー中に、ライオンズクラブが寄贈した案内標識があった。

奥湯河原温泉迄は5㎞。湯河原海岸へは1.5㎞、土肥氏の

居館があった城願寺までは0.5㎞だ。

土肥氏館跡の記念碑と土肥實平公と夫人の像。

土肥次郎實平は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で、

相模土肥氏の祖であり、小早川氏の祖でもあった。

湯河原駅から城願寺の辺りが居館であったという。

駅のすぐ隣りには干物屋さんがあった。この地域はアジの干物など

魚の干物が名産だ。そして駅前の昭和チックな商店街が続く。

いかにも昭和ロマンのかおりがする湯河原温泉へのゲート。

そこには「ようこそ 小京都 湯河原温泉」と書かれている。

門から階段を降りると湯河原の街並みが広がる。

湯河原の温泉は万葉集にも謳われた1300年の歴史ある温泉で、

中世から湯治場として親しまれ、江戸時代の温泉番付では

東の三役(小結)に位置付けられ、明治以降は様々な文人、

墨客にも愛され、東京の奥座敷と言われている。