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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

山形 酒田の街

2018-10-04 05:57:54 | 旅 ~国内

ある会の打ち上げで、一度は行ってみたかった庄内地方へ

旅してきました。一路山形新幹線「つばさ」で終点新庄駅へ。

2枚目の写真を見れば新庄駅が終点駅だということがよく分かる。

JR東日本新庄駅は明治36年開業。平成11年新幹線開通に

ともなって現在の駅舎が完成した。乗車人員は1448人/日 

2017年(降車客含まず)。発車メロディは新庄まつり囃子を採用している。

又、当駅と一体して最上地方各市町村の共同出資の

交流拠点となもなっている「ゆめりあ」がある。

この愛称は夢とエリアを組み合わせた造語だ。

館内には案内所、物産館、イベントスペースなどが備えられている。

新庄まつりは日本が世界に誇る山・鉾・屋台行事として

ユネスコ無形文化遺産に決定してる。新庄まつりの山車は

歌舞伎の名場面や歴史上の物語の決定的瞬間を再現したもの。

新庄囃子は京都の祇園囃子の流れを引く哀愁を帯びた悠長な曲だ。

新庄から酒田へ向かう途中には多くの風力発電があった。

世界の風力発電の実情は電気需要の4%を占め、なお急激に増加している。

しかし日本では欧米諸国に比べて普及が進んでいないのが実態だ。理由として

耐えうる風車を施設する欧米と比較してコストが上がることや

大量の風車を設置できるだけの平地の確保が困難な事。

そして元々日本ではクリーンエネルギーとして太陽光発電を

重視してきた歴史があることがある。

1つの都府県のみを流域とする河川としては国内最長の最上川。

酒田市で日本海に注ぐ日本三大急流の1つだ。

上流の米沢盆地、中流の山形盆地、下流の庄内平野など

流域に有数の穀倉地帯を抱えている。

酒田市の観光案内図。酒田市は湾岸都市で歴史的に経済都市。

先日、NHKのブラタモリの番組で酒田市を放映していたが背景がよく分かった。

後日訪れる鶴岡市は城下町で政治都市。

お互いライバル意識が強く、埼玉県の旧浦和市と旧大宮市、

群馬県の前橋市と高崎市の関係に似ている。

 

1974年に酒田市初の名誉市民の称号を授与された土門挙(1909―1990)は

日本を代表する写真家の1人で、顕彰式において

「僕の全作品を酒田市に寄贈したい」と述べ、当、土門挙記念館ができた。

建物の設計は土門と親交が深かった谷口吉郎の子息である

谷口吉生が手掛け、昭和58年に開館した。

記念館には約7万点が収蔵され、ライフワークであった

「古寺巡礼」をはじめ「室生寺」「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」

「文楽」「風貎」などの作品を順次公開している。

今回は時間の関係上、訪問することが出来なかったが、

機会があったら是非行きたい記念館の1つだ。

http://www.domonken-kinenkan.jp/

平成16年に完成した酒田市民会館 希望ホール。

ガイドさんの話によると、酒田市出身のシャンソン、

カンツォーネ歌手の岸洋子(57歳没)とかかわりがあるホールらしい。

岸洋子のヒット曲は「希望」「恋心」「夜明けのうた」。


富山・砺波地方

2018-09-24 05:50:28 | 旅 ~国内

足が丈夫な内に、どうしても「越中八尾おわら風の盆」が

見たくて9月1日、2日に富山に行って来た。

北陸新幹線開通に伴って2015年に完成した富山駅新駅舎

(JR西日本・あい風とやま鉄道駅舎。)富山駅の開業は明治32年に遡る。

乗車人員は1日7843人(降車客含まず―2016年)だ。

駅構内におもしろいエレベーターを発見した。

普通はロープで上下するが、ここのは油圧式で迫力満点、とても目立った。

平成18年開業した富山ライトレール線の富山駅北停留場。

日本初の本格的LRTとなる富山ライナーレールは公共交通活性化を

軸としたコンパクトで持続可能な街づくりに貢献し、全国地方都市の

先駆的モデルとなっている。又、グッドデザイン賞金賞(建築、環境デザイン部門)を

受賞している注目LRTだ。

中核市である富山市は人口416,498人(2018年4月1日推定)。

平成17年の合併により、全国の県庁所在地の中で2番目に広い

総面積を持つようになった。(因みに1位は静岡市)富山市市街地の道路は総じて広い。

これは昭和20年8月1日、2日の富山大空襲によって、市街地の

99.5%が焼失し、城下町としての入り組んだ町並みや面影は破壊された為か?

そして戦後近代都市計画が推し進められたからだ。

この空襲は地方都市へのものとしては最も被害が大きく、

現在も批判の声が根強い空襲の1つだ。

富山城は築城1543年(天文12年)、築城主は神保長職、水越勝重。

廃城は1871年(明治4年)。昭和29年富山産業

大博覧会開催を機に再建された。神通川(現在の松川)の流れを

城の防御に利用したので水に浮いた様に見えた為、浮城、安住城とも言われた。

又、滝廉太郎の「荒城の月」の着想の元になった城の1つとも言われている。

富山県にある信号機はよく見ると横並びではなく縦になっている。

これは雪が積もって見づらくならない様に縦にしたとか。

お国お国の違いがこんな所にも表現されているとはおもしろい。

旅ならではの発見だ。

富山市街地の西側には神通川が流れている。かつては富山の街の

東側を大きく蛇行していた。戦国時代には川のすぐ脇に

富山城が築城され、天然の堀として利用された。

富山市の西隣の砺波市は約人口48,000人(2018年4月1日現在)

散居とチューリップの街だ。

宿泊ホテルはここ砺波にあるホテル。まだチェックインまで

時間があった為、道の駅に立ち寄った。入口の所には

砺波市特産のチューリップ、40種類もの球根が売られていた。

砺波市ではチューリップの栽培面積が日本一を誇り、

年間600万球以上を生産している。富山県でのチューリップ栽培は

大正7年に東砺波郡庄下村から始まった。ここはチューリップの生育に

適した気温、日照時間、肥沃な土地、豊富で良質な

水などの自然の恵みがあり普及してきた。

他に富山米トップバッター富山生まれの新品種「てんたかく」の

新米が売られていた。この新品種は福井県生まれの「ハナエチゼン」と

宮城県生まれの「ひとめぼれ」を掛け合わせたもの。

一等小麦を名水庄川の清らかな水でこね合わせ細く長く伸ばしていくので

コシが強く歯触り良くとてもおいしい、大門素麺。

農家が田園に点々と散在する散居村の砺波平野の美しい風景。

広大な耕地の中に民家(孤立荘宅)が散らばって点在する

集落形態で一般的には散村と呼ばれている。日本国内最大とされる

砺波平野には現在およそ220㎞2に7000戸程度が散在している。

カイニョ(屋敷村)に囲まれた散居村の家々は中世まで遡りうるが

一般的には治安が安定し、為政者にとっても、農民にとっても都合が良かった。

生産性向上への関心が高まる近世期以降に形成又は

拡大したと考えられる。カイニョは防風効果もあり、燃料となり

建築用材になる杉が多い。

うまさ一番の富山のさかな10種

ホタルイカ 3月~6月 春を告げる富山湾の神秘

シロエビ 4月~11月 富山湾の宝石

バイガイ 通年 うまさ倍しあわせの倍の縁起物

アユ 6月~11月 夏を彩る清流の女王

紅ズワイガニ 9月~5月 富山湾の秋の使者

ケンゲ 9月~5月 コラーゲンたっぷり富山湾の珍味

クフラギ 8月~1月 王者を目指す秋の定番

ブリ 10月~2月 富山湾の王者

ウマヅラハギ 9月~3月 愛嬌あふれる冬の味覚

甘エビ 通年 富山湾のルビー

富山湾は天然の生簀と言われ魚の宝庫だ。


一茶記念館

2018-09-14 05:27:36 | 旅 ~国内

記念館は1960年小林一茶旧宅の史跡指定記念事業により開館し、

一茶の生涯と文学・一茶のふるさとのくらし、一茶顕彰活動などを紹介している。

http://www.issakinenkan.com/

小林一茶は江戸時代後期の1763年(宝暦13年)、信州柏原に生まれた。

本名は弥太郎といった。15才で江戸に修業に行き、

その後俳人と成って全国を行脚した。江戸を中心に活躍したが

晩年ふるさとに帰って北信濃に多くの俳人を育てた。

「おらが春」「七番日記」などをあらわし、生涯に2万もの俳句を残した。

1827年(文政10年)65才で没。

一茶記念館に隣接して民俗資料館がある。この建物は柏原宿の

町屋を移築したもので雪国のくらしを伝える多数の民具を展示している。

入口を入ると常設展示場になっている。

(一茶の俳句集) 

めでたさも 中位なり おらが春

われと来て 遊べや親の ない雀

雀の子 そこのけそこのめ お馬が通る

やせ蛙 まけるな一茶 これにあり

やれ打つな 蠅が手をする 足をする

名月を とってくれろと 泣く子かな

ともかくも あなたまかせの 年の暮れ

文化・文政期の柏原宿の復元模型。屋根は皆萱葺き屋根だ。

北国街道は中山道追分宿から新潟県出雲崎にいたる街道で

佐渡の御金荷や、加賀藩などの参勤交代が通行した。

信濃町には野尻・柏原・古間の三宿があった。「御本陣」「金沢藩・

富山藩・大聖寺藩御用」などの貴重な看板が展示されてある。

あいにく雨が降ってきた為、史跡小林一茶旧宅には行けなかった。この写真でご勘弁を。

このポスター、シンプルでいいですネ。気に入ったぞ!


高野辰之記念館

2018-09-13 05:49:22 | 旅 ~国内

 http://www.city.nakano.nagano.jp/tatsuyuki/index.htm

「故郷」「紅葉」「朧月夜」など、日本の心のふるさとを歌う

文部省唱歌を作詞、国語・国文学者として大きな功績を

残した高野辰之博士の記念館。この記念館はかつて高野辰之が学び、

教鞭を取った永江学校、永田尋常小の後身の永田小学校の

跡地(中野市内)にあり、平成3年4月にオープンした。

年間1万人の人が訪れているそうだ。

記念館の前に立つ高野辰之の銅像。記念館はふるさとの

温もりを感じさせる純日本の木造建築。

入口正面のふるさとホールを挟んで右側は商家風2階建てで、

生涯学習活動の場である。右側は平家、2棟の土蔵造りになっている。

高野辰之は明治9年この地に農家の長男として生まれた。

厳しい父の下で育てられ、農業の手伝いをするかたわら

土蔵に隠れて本をむさぼり読む少年だったそうだ。

26歳の時、上田万年文学博士(円地文子の父)を頼って上京。

国語国文学の研究に没頭し、やがて「文部省国語教科書遍纂委員」に

選ばれた。国が初めて発行した国定音楽教科書

「尋常小学唱歌」を遍纂する中で、「春が来た」「紅葉」「朧月夜」などの唱歌、

又全国100余校の校歌を作詞した。校歌の中には

専修大、松商学園、なぜか越谷高校(埼玉県)などがある。

大正14年に東京帝国大学文学博士の学位。昭和3年帝国学士院賞を受賞。

昭和22年没。号は斑山(はんざん)。

特筆しない限り、「故郷」など高野辰之と一緒に唱歌の作曲をした

岡野貞一。(明治10年~昭和16年 63才、鳥取出身)。

岡野も160校を超える校歌を作曲した。目に付いた学校として

今年夏の高校野球で準優勝した金足農高。

女子の有名私立校、女子学院、銀座近くの泰明小。

そしてなんとロータリーの歌「我等の生業」がある。

辰之は美しいふるさとの風景を綴り、書き上げた。唱歌「故郷」に

出てくる兎追いは自然豊かな山村の冬期間の子供達も

加わった村総出の行事だとの事。

高野辰之の実筆の原稿用紙。肉筆の字はやはり

私達に伝えてくる力を感じる。

この窓の左方向に「故郷」で歌われた「かの山」が見える。

辰之の少年の日に友人と野山を遊んだ情景を懐かしんで作った

唱歌が「故郷―ふるさと」だ。「故郷」は日本人の心、

日本人の原点になっている日本人の宝の歌だ

それがこの地で生まれたことは知らなった。


野沢温泉

2018-09-11 05:44:49 | 旅 ~国内

小菅の里から一尾根北へ超えるとそこは温泉とスキーで

有名な野沢温泉村。さらにもうちょっと行くとそこは新潟県だ。

野沢温泉街の道は狭く曲がりくねっている。又坂が多いのが特徴だ。

野沢温泉の名物は何と言っても有名な野沢菜だ。

蕪菜の一種で伸びた茎と葉を漬物にして食べる。

温泉街の北にある曹洞宗健命寺の住職が江戸時代、

大阪にある四天王寺から持ち帰った天王寺蕪の種が

元祖と言われているが定かではない。

温泉街の中心にある野沢温泉のシンボル「大湯」。

野沢温泉には13軒の共同浴場(外湯)がある。

他の外湯はいかにも質素で地元の人との会話がある。

泉質は硫黄泉で全体的に源泉温度は高い。

野沢温泉の源泉の1つ、天然記念物、麻釜熱湯湧泉。

野沢温泉の歴史は奈良時代に行基によって発見されたと言われている。

江戸時代には飯山藩主の湯治場が設けられた。

麻釜からは100℃近い温泉のお湯が湧出。

昔はこの高温湯を利用して麻を茹でて皮を剥ぎ

繊維を取っていた。現在は野菜や卵を茹でるなど

食べ物の用途に使われる場合がほとんどだそうだ。

麻釜の隣りには温泉神ユノカミの釜神を祀っている。

ミニ温泉広場湯らり。ここには足湯がある.湯らりの字の湯をよく見ると画家岡本太郎の字だ。

野沢温泉は様々な所で岡本太郎の文字を街起こしに作っていた。

地元の人に共同浴場(外湯)で一番人気のあるオススメの

所はどこか聞いたら、麻釜温泉公園に最近オープンした

「ふるさとの湯」を勧められた。湯屋建築の趣きある建物の中には

あつ湯とぬる湯そして露天風呂を備えているとの事。

しかしこの日は残念なことに定休日で入浴することはできなかった。

この地は唱歌「朧月夜」「故郷」などの作詞で知られる

高野辰之博士が晩年暮らした別荘「対雲山荘」の跡地だそうだ。


北信濃 小菅の里と北竜湖

2018-09-06 06:25:41 | 旅 ~国内

出会い、ふれあい、巡り会い、それが小菅の里。

私にとっても52年前、数ヶ年過ごした思い出の地、この地で

青春の一時を過ごした懐かしい場所だ。小菅集落は

古くから小菅山元隆寺を中心に修験の霊場として繁栄した。

元隆寺の坊院群の地割は、現在も石垣等で区画され、

住居地や耕作地として継承されている。

こんな小菅の文化的景観は今回再訪するまでは知らなかった。

半世紀前は素朴な自然の中で、青春を謳歌できた地、それだけで充分であった。

ここ小菅神社の里宮は、万治3年(1660年)、飯山城主松平忠倶が

改修したという記録がある。里社本殿のほか神楽殿、神輿殿などがある。

神楽殿は寛保3年(1743年)再建であり、神輿殿は大正10年(1921年)

建立された。なお神輿は宝暦6年(1756年)に再造されたもの。

昔の記憶では里宮の参道はもっと鬱蒼とした杉並木であったが、

随分古木の杉が減った様な気がした。勉強に疲れると

よく小菅神社に来たものだ。超懐かし~い!!

小菅神社鳥居の横にある火の見櫓を見た瞬間半世紀前の記憶が蘇ってきた。

確かにここに火の見櫓があったナー。つまらないものでも

人の目を通すと特別なものになる。

伽藍守護の神で、両脇に一対の半裸形の金剛力士を安置した

社寺の門「仁王門」。道路改良に伴い、左右両側に

道路が造られるまでは、この門が小菅の入口であった。

幾度も小菅のダラダラ坂を歩いて登ったのに

なぜかこの仁王門だけは記憶に残っていない。

学生時代、長野駅から長野電鉄に乗り換えて木島駅で下車。

そこからバスに乗って関沢というバス停で降りて、

この田んぼの中を荷物を持って登ったものだ。

途中疲れて後を振り返ると、千曲川の水がキラキラ光り、

遠く妙高山をはじめ北信五岳のシルエットが、

瞼に焼き付いている。ここは日本の里山の原風景が

半世紀を過ぎてもほとんど変わっていなかった。

唯、道は砂利道から舗装され、すっかり整備されていた。

ここの田んぼの稲は現在コシヒカリの原苗を生産しているそうだ。

ウットリするような棚田だ。

小菅の道の正面に茜色に染まった妙高の雄姿は私にとっては

10代の原風景に成っている。今回、修験僧に聞いた話では

妙高山を奈良時代より霊山と仰ぎ、参道を妙高に向かって

真っ直ぐにして小菅神社を修験道の道場としたとか。

この道が宗教的意義が込められていたとは学生時代は露知らなかった。

今回宿泊した七星庵には、各種のアクティビティのコーディネートがあって、

その1つのふるさと案内人による奥社登拝ガイドや集落ガイトをお願いした。

この方が当日案内してくれたガイドさんで、小菅集落に

生まれ育った長老。現役時代はアルペンスキー選手で

長野オリンピックの時は大会運営の役員をされていたとか。

その当時の数々のエピソードを聞き大変興味深く拝聴した。

この方は3日間お世話に成った七星庵のチーフディレクターのS氏。

実はS氏とは3日間という短い時間の中で、よっぽどの縁を

感じる間柄に成った。氏は若い時代、都内で芸能人の

マネージャーになったり、有名な歌手、俳優のマッサージ師などを

していた。こんな人生に疑問を感じていた時、ここ小菅に

田植えのボランティアで来て、小菅の魅力に憑りつかれてしまった。

そしてとうとう修験道の世界へ入ってしまった。

このブログがアップしている頃は彼は出羽三山の一つ、

羽黒山の山中で修験僧として修業に入っているはずだ。

小菅神社里宮の隣にある講堂。寛保元年(1714年)に再建されたと

言われている。内部に安置されている阿弥陀如来像は

享保17年(1732年)、京都の大仏師奥田杢之丞の作だ。

祭り資料館も併設され3年に1度行われる「柱松柴灯神事」

(国重要無形民俗文化財)の概要が分かるようになっている。

今年の盆休みは快晴の日が少なくこの写真が一番はっきりと

撮れた妙高山。それにしても生活の為とはいえ、

日本の電柱、電線は風景を壊している。

ここが学生時代、学生村としてお世話に成った中根荘。

その時代は一般家庭ではまだクーラーが無く、

長野県などの避暑地では学生村と称して多くの民宿へ夏

学生は勉強合宿に行った。中根荘の母屋は建替えられていたが

私が宿泊した蔵はそのまま残っていた。近所で民宿をやっている方に

聞いた所、大変お世話に成った中根荘のオヤジさんは

今年の2月、92才で亡くなったとの事。たまたまその当時中学生だった

息子さんが新盆で居るとの事で、御線香をあげに訪ねて

昔話に花が咲いた。霊前に手を合わせ冥福を祈った。

本尊馬頭観音を祀っている観音堂。信濃三十三番観音霊場

巡りの第19番札所となっており、訪れる人も多い。

かつては小菅山の中腹にあったが、明治27年に現在の場所に

移転された。お堂の中に入ってみると、壁じゅうに落書きがあり

中には女性のマンガみたいなものもあった。年号を見ると

江戸時代のもので、その当時の時代が脳裏に浮かんできた。

小菅神社奥社本殿へ通じる三の鳥居と杉並木が約600M、

180本程続いていて神秘的な空気が漂っていた。

樹齢は約300年。国の重要文化財の小菅神社奥社本殿は

来由記によると白鳳8年(680年)修験道の祖、役小角の創建となっている。

小菅山(1047M)山頂近くの標高900M付近にあり、

岩壁を背にした懸造りの入母屋。本殿と附属宮殿は室町時代中期のもの。

上杉謙信が川中島出兵の折、必勝祈願の願文を捧げており、

新潟県にも崇拝者が多い。三の鳥居から徒歩60分程だそうだが

途中登山的になっていてかなり大変だそうだ。

急な石段を1/5位の所でギブアップ。しばし杉並木から木漏れ日を

感じながらガイドさん、S氏との会話を楽しんだ。

寛延3年(1750年)に再興された護摩堂。ここの境内は

小菅山元興寺別当大聖院の跡地。3年に1度の松子の神事では

ここが行列の出発点となる。信州大学の先生の研究では

これ程大きい護摩を焚く寺は全国でも珍しいとの事。

大聖院は小菅山元隆寺の別当職の寺院であった。明治2年に

廃仏毀釈により廃絶となり、昭和の時代に取り壊された。

長く連なる梅鉢積みの石垣は往時の隆盛を彷彿とさせるものがある。

もう1つの思い出の地「北竜湖」へ早朝から歩いて行ってみた。

朝もやがかかる山道を記憶をたどりながら歩いた。

歩いて途中からどうも記憶と違う。帰路に分かったことだが

帰路が50年前によく往復した道。ではこの道は何?

この疑問は今も記憶と一致していない。

早朝、朝もやがたなびく幻想的でメルヘンチックな北竜湖。

この風景をじっと見つめていると東山魁夷の絵を思い出した。

白馬が一頭現れたらまさにそのもの。北竜湖はハート型の形をしており

恋愛成就パワースポットとして知る人ぞ知る可愛らしい湖だ。

ここは長野の自然百選にも選ばれ、商業化の波からも外れて

本当に50年前と変わっていなかった。早朝から数人釣りを

している人がおり、ブラックバスを釣っているそうだ。

他にもここではカヌーやSUPなどの水上アクティビティはもちろん、

深林セラピー、ヨガ、マインドフルネス、グリーンツーリズムなど

心身を整える時間を過ごすことができる。

こちらはいいやま北竜温泉のある文化北竜館。

運営は学校法人文化学園が行なっており、2005年にリニューアルした。

体育館や多目的ホールなどの施設があり、合宿や会議に最適だ。

この施設は昭和39年に北竜湖荘として創設された。

私が行ったのはその数年後。今でもはっきりと記憶に残っている。

さすがファッション関係の施設だけにエントランスの所に

前衛的な彫刻作品が飾ってあった。上の作品は

「布を掛けた椅子」イタリア人作家リヴィオ・デ・マルキ作。

1本の木で彫り上げている。下の作品は「絵の具の筆」。同じ作者だ。

文化北竜館のすぐかたわらに広がるゲレンデは

北竜温泉ファミリースキー場。このスキ―場にも学生時代に来たが

ゲレンデのスタートラインに立ってみると、その当時と

同じ風景が出てきた。最近は一つ入ると一つ忘れてしまう

脳状態だが若い頃の記憶はたいしたものだと改めて

感心してしまった。尚このスキー場は昨年閉鎖したそうだ。

江戸時代後期建造の飯山の旧家を移築した北竜湖資料館。

全国の郷土玩具、民具類を常設展示している。

改めて、日本の里山の原風景。青春時代の思い出の地の

風景をアップして、かなり感傷的になった「小菅の里と

北竜湖」のブログを閉じます。


野尻湖マウマンゾウ博物館

2018-09-05 05:33:05 | 旅 ~国内

長野県信濃町、野尻湖の近くに1984年(昭和39年)

7月1日にオープンした博物館。野尻湖の発掘調査は

1926年(昭和37年)から始まり50年以上も続けられている。

その成果を中心に約5万年の昔から現在に至るまでの野尻湖と

周辺の自然環境を研究展示しているのが当博物館だ。

2階常設展示場に入ると目の前に実物大のナウマンゾウの

復元像がこちらに向かってくるポーズで展示してあり、

とても迫力がある。これは発掘で得られた科学的データを

基にして芸術家が造ったものだ。

ナウマンゾウの名は日本のゾウの化石を初めて研究した

エドムント・ナウマン(1854年~1927年ドイツ地質学者)の名を取った。

ナウマンゾウは約40万年前から生息し、約2万年前に衰滅したと言われている。

ナウマンゾウの化石が発掘された場所は、日本と中国の一部

約180箇所以上の所。野尻湖底には、ナウマンゾウの歯の

化石だけで約40頭分が発見されている。

当館は骨器石器の資料が豊富で主要な化石、

遺物だけで約1000点が展示されている。

野尻湖人と呼んでいる旧石器人類の石器や骨器もあり、

野尻湖のまわりをゾウやシカが闊歩していた

太古の世界に想いをはせることができる。

これは、実際の野尻湖発掘からはぎとってきた本物の地層だ。

たくさんのしま模様が見えるが当然、上の方が新しく

下へ行く程古い時代になる。黒姫火山や妙高火山の

火山灰層がはさまっていてその年代が詳しくわかっている。

この地層の中からナウマンゾウの化石が見つかっている。

1962年(昭和37年)から始まった発掘調査は

現在まで続き、今年も第22次発掘が行われ、

ナウマンゾウの臼歯と肋骨群が発見された。

その年度互に参加した人数と化石の数が標記されている。

この一覧表を見ると大変な発掘事業だという事が分かる。

3階は特別展示室と研究資料の保存をしている研究室がある。

特別展示室ではヤベオオツノジカとヘラジカの特別展が行なわれていた。


関川の関所と蕎麦

2018-09-04 06:02:24 | 旅 ~国内

関川の関所は北国街道の信越国境(信濃と越後の境)に

設けられた関所で、江戸幕府が全国に設置した53箇所の

関所の中でも、特に厳しい取り調べが行なわれた重き関所に数えられていた。

関川関所は江戸時代初期に設置されたと言われている。

もとは高田藩の口留番所でしたが、元禄10年(1697年)に

幕府の重き関所の1つに位置付けられ、高田藩が管理することになった。

一般に関所の取締は「入り鉄砲に出女」と言われ、

江戸へ入ろうとする武器と、江戸から逃れようとする女性

(大名の妻子など)が主な対象とされたが、関川関所では

武器は扱わず、出女の取り調べを重点的に行なった。

高田藩では、関川関所に常勤の藩士(上番)2名を派遣し、

その下に足軽(下番)や人見女などを置いた。

又、大規模な大名行列などに備えて、近隣村々の

百姓10名を御足軽に任命して職務に当たらせた。

関所は朝六つ(午前6時頃)~暮六つ(午後6時頃)まで開門し、

通行する人々を検査した。信濃から越後へと向かう

女性は出女に当たるため、男性は往来手形で済むところ、

女性はそれに加えて幕府が身元を確認して

発行した関所手形(女手形)が必要とされた。

女性の取り調べは「人見女」と呼ばれる地元の老女が担当した。

男性に変装した疑いのある女性や手形に書かれた

容姿と人相が異なる女性が見つかると、番所の奥で人見女が衣服や髪を改めた。

関所破りを犯したものや不審者を捕えるための3道具。

刺股、袖溺、突棒。

関川の関所の隣りには需要な文献資料やジオラマを展示した

「道の歴史館」がある。道と関所の担ってきた役割や

人と物の交流の歴史をたどる情報いっぱいのミュージアムだ。

迫力ある135インチマルチビジョンによる街道シアターで

北国街道歴史紀行などを上映していた。

この映画がまた分かり易く、地元の人を俳優に使って

おもしろい作成内容になっていた。

旅人の服装、カブト等々様々な資料を展示してあるコーナー。

江戸時代の交通手段は徒歩のみであったため、

携帯品はできるだけ少なくするよう工夫していた。

いんろう(薬入れ)、大財布と巾着、旅行用心集,提灯と

ろうそく入れ、矢立、キセルとたばこ,行季、付け木、

道中枕、わらじ(履き替えよう)

展示されていた資料の中に大変興味あるものがあった。

それは加賀藩参勤交代泊付表と大名行列皮算用。

参勤交代が制度となった寛永12年(1635年)から

文久2年(1862年)の廃止まで、加賀藩の大名行列は

この街道をなんと181回通っている。金沢―江戸間の距離は

約480㎞で、その所要日数は12泊13日が普通であった。

行列の人数は2000人と馬200疋程度だった。

江戸中期から後期の片道費用は約5000両。

これは現在のお金で3億~4億円。武蔵国(埼玉県)に入ると

宿場は桶川から板橋まで。浦和宿で泊まりとなっている。

これを見ると、浦和区岸町は岸村になっている。

歴史館から関所に行く途中に記念写真コーナーがある。

男女それぞれその当時の衣装に変え駕籠に乗ってパチリ。

足軽の絵の上に顔を出してパチリ。

平成10年春、関川改修、橋の架け替えがあり

橋の名称を「長寿橋」と名付け、きんさん、ぎんさんを呼んで

除幕式を行なった。その当時の106才の手形。

この関所の跡にあるベンチをよく見ると妙高高原ロータリークラブが寄贈していた。

各地方のロータリークラブの名を見るのは嬉しいものだ。

地元の人に昼のオススメの店を聞いた所、ここ「御宿せきがわ」を

紹介された。TEL 0255-86-3285

早速行ってみると満席。しかもそばが売り切れて、

打ち直すのに最低30分はかかると言う。

丁度隣りが関川の関所だったのでここを見学して時間調整をした。

田舎の古民家をそば処にしたみたいで中はかなり広い。

雰囲気は良いが、サービスが悪く待つこと1時間、ようやくそばが出てきた。

当店一番人気の天ざるそば1200円。天ぷらの食材は

地元のものを使って旨かったが、なにぶん、こんなにも待たされると

じっくり味わう気持ちも薄れ、どうでもよくなってしまう。

田舎のテンポは都会とはこんなにも違うのか。

1時間待たせて、お待たせしてすみませんの一言も無かった。


柳生博の八ケ岳倶楽部

2018-08-12 05:03:35 | 旅 ~国内

俳優の柳生博と御子息が経営している八ヶ岳倶楽部へ向かう途中、

車窓から見えた八ヶ岳と南アルプス。とっても気持ちイイ景色が続く。

到着すると、早速バスの中に若い元気な女性が

八ヶ岳倶楽部の説明に来てくれた。

彼女は柳生博さんのお孫さんだそうで

本人はまだ寝ているとジョークを言っていた。

自然愛好家の柳生博一家は1976年に八ヶ岳のある

山梨県北杜市に移住し、ここを拠点に活動するようになった。

1984年頃から荒れ果てた雑木林を柳生博さんとその家族が

手を入れて現在のような美しい雑木林に生まれ変わった。

そして1989年八ヶ岳倶楽部オープン。

この地で栽培している野菜の年間工程表が分かり易く

しかもコメント付きで表示されてあった。4月スーパーフルーツトマト。

セリ、クレソンから始まって、アスパラガス、行者ニンイク、

グリーンボール、ブロッコリー、スナップエンドウ、モロッコインゲン、

ガブリエル、けいこ南瓜、ケルシー、NYマスカット、

山ブドウ、生落花生、紅玉、ジコボウ、マルロメ山ゴボウ

松本一本葱、大和芋11月下旬~12月中旬迄。

このミツバチはTVに出演してとても有名らいし。

店の人がそんな説明をしてくれた。

雑木林の入口で銅製の手作りロボットとフクロウが迎えてくれた。

ここに入ると全く空気が変わって、木陰の下はヒンヤリする

嘘の様な涼しさ。実に快適でもうここから出たくないという気持ちに成った。

このステージの建物では河合悌市の愉快な銅具展特別企画展が

行なわれていた。先程のロボット、フクロウのオブジェも

この展覧会の作品にちがいない。

皆さん、このラフなベンチの写真すごく良いと感じませんか?

撮ったあと見たら自分でも感動してしまいました。

自然の木漏れ日があたるベンチの光と影。

ベンチの上に犬か猫でも居たらもっと空間が引き締まったかも。

高原の爽やかな風が頬を伝う。なんて気持ちがいいのだろう。

「人と自然の仲のいい風景。それは雑木林。・・・と思います。

どうぞ八ヶ岳倶楽部の雑木林へ遊びに来てください。 柳生博」

このネービーブルーの標識に手書きで書いた文字が

「雑木林が一番のごちそう」といった思いを伝えてくる。

中庭とギャラリー。大きな白いパラソルととんがり帽子の

建物に射す光。そして雑木林の影。納得の2枚です。

柳生博と妻柳生直子のナレーションで送る森の音声ガイド。

NHK「生き物地球紀行」のナレーションを彷彿とさせる

柳生博の撮り下ろし音声を楽しめる。尚柳生博は

日本野鳥の会、コウノトリファンクラブの会長を務め

自然との共生をテーマに様々な活動に尽力している。

ギャラリー店内には家具や雑貨、中庭では苗などを販売している。

オーナーが大好きな作家さんを紹介する為に

作ったギャラリーではこの日も趣味の良い手作り品が多く

並べられ、ちと高価だが目移りしてしまう程だ。

八ヶ岳倶楽部は現在、全国各地に多くのファンを持つ店として知られている。

そして柳生博の自然への想いを受け継いだ

スタッフが全国から来ているという。

レストラン喫茶お食事処のテラスと店内。ここでも光と影が

素晴らしい効果を発揮している。柳生の奥さんは

この倶楽部の為か、一念発起して喫茶の専門学校に通い

そして誰も真似できないフルーツティを創り上げた。

四季折々の雑木林を眺めながらおすすめのフルーツティを飲む。

一杯ごとに味が変わる八ヶ岳倶楽部オープン以来の自慢の味だそうだ。

ここはペットなど動物とも共生している。「これはワンちゃん用の水です。

ご自由にお使い下さい。」本当に日本人は優しい。

ギャラリーでも作家の名前は忘れてしまったが

バッグなどの手作り作品を展示販売していた。

この作家が使っている素材は柔道着、剣道着などのものを

デザイン化したもので気に入った。

このガラスの瓶も置き場所がフラットでなくとも置ける造りで

目にとまってパチリ。

八ヶ岳倶楽部を両親とともに創ってきた柳生博の長男のコーナーを見つけた。

氏は園芸家で、NHK「趣味の園芸」の講師などとして

知られていたが、47才の若さでガンで亡くなってしまった。

枕木のような広々した木道を歩き帰路へ。

ここは時間の制限がないフリーの状態の時来るべきで

今回ももっとゆっくりしていたかったが、残念ながら

駆け足の八ヶ岳倶楽部体験となってしまった。


香取神社(小さな旅)

2018-07-17 08:47:25 | 旅 ~国内

歓迎 香取神社と書かれた立派な燈籠。

参道脇にはお食事処や土産屋さんがならんでいる。

ここは関東地方中心に全国に約400社ある総本社の香取神社。

下総国(千葉県北部)経津主神を祭神としている。

香取神社は茨城県の鹿島神宮、息栖神社と合せて

「東国三社」と呼ばれている。因みに江戸川沿いを中心に香取神社は分布し、

南の荒川沿いには氷川神社、それらに挟まらえて

元荒川沿いに久伊豆神社が分布している。

5~6m程もある幅広い参道。参道の両脇には大きな石灯籠が

建ち並び、厳やかな空気が広がっている。

大きな石鳥居をくぐると朱塗りの総門、楼門が登場。

青空と朱色の鮮やかなコントラストは訪れる人を魅了する。

特に楼門は徳川5代将軍綱吉によって、本殿と共に

元禄13年(1700年)に造営された重要文化財だ。

楼上の額は明治の軍人東郷平八郎の筆になる。

楼門を抜け、見えてきたのは本殿、拝殿。本殿はやはり

5代将軍徳川綱吉によって造営されこれも重要文化財。

経津主大神の和御魂(にぎみたま)を祀っている。

拝殿上部には色鮮やかで見事な装飾が施され、

黒漆塗りがより色彩を映えさせている。

香取神社は勝運、交通、災難除けなどにご利益があると言われ、

近年では関東屈指のパワースポットとして注目されている。

これが香取神社の鳥瞰図。豊かな自然に囲まれた香取神社は

パワーをもられるのはもちろん、ただ境内を歩いているだけでも

自然からあふれるマイナスイオンを受けて清々しい気持ちになれる神社だ。