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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

秋の津和野

2018-12-20 06:40:13 | 旅 ~国内

2017-2-17付ブログ(山陰の小京都 津和野)参照して下さい。

殿町通りに沿って流れる白壁に面した用水。そして真黄色に色ずいたいちょう並木。

山陰の小京都と言われる静かな津和野の秋がここにあった。

津和野は通りの堀割に錦鯉が泳ぐ城下町として有名だ。

鯉の数は1000匹以上、観光客がエサをやるせいか、

皆丸々と太っていて、狭い堀割の中を泳いでる。街並みとマッチして本当に美しい。

庭園の池で泳ぐ錦鯉とは全く違った良さを見ることが出来る。

なんとなく物思いにふけっているように見える支店長と女子行員さん。

実はエサを食べている鯉を見ているだけなのかもしれない。

2人の背中にちょとしたポエムを感じた一枚です。

それにしてもこの赤いハッピはすごく目立った。

平成6年11月3日に建立された国指定重要無形民俗文化財の

「鷺舞の像」。古式豊かな鷺舞は神事舞として京都より山口を

経過して天文11年(1542年)津和野城主吉見11代大蔵正頼が

五穀豊穣、災厄防除の為、移したことに起源する。

その後、坂崎出羽守の時代に中絶したが、二代藩主亀井茲政に至り

寛永20年(1643年)京都より伝授され復興し、弥栄神社の例祭に

供奉今日に致たる。ここでの紅葉したもみじのグラデーションが美しい。

津和野川にかかる大橋と赤と黄に紅葉したもみじ。心和む風情があった。

標高367Mの霊亀山に1295年(永仁3年)築城された山城の津和野城。

三本松城もしくは一本松城と呼ばれている。

主な城主は吉見氏(築城主は吉見頼行)坂崎氏、亀井氏と続き

明治4年廃城に成った。城跡は国の史跡となっており、

平成18年日本100名城(66番)に選定された。

藩主座敷は現在県立津和野高校に成っている。

城下町の趣きをさらに高めているなまこ壁の堀。

なまこ壁、生子壁、海鼠壁とは土蔵などに用いられる日本伝統の

壁塗りの様式の一つ。壁面に平瓦を並べて貼り、

瓦の目地に漆喰を蒲鉾形に盛り付けて塗る工法で目地の

盛り上がった形がナマコに似ていることからその名がある。

堀割の所に咲いていた「つわぶき」(石蕗)の花。

10~12月に咲き、キャラブキや九州名産佃煮キャラブキは

このつわぶきの葉っぱで作られている。

津和野は「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツに持つと言われている。

遠い昔、山紫水明のこの地に住みついた人々は、群生する

「つわぶき」の可憐な花に目をとどめ、その清楚で高雅な風情に魅せられ

自分たちの住む里を「つわぶきの野」・・・「つわの」と

呼ぶようになったという伝説がある。

旧津和野藩家老多湖家表門(重要文化財)をじっと見つめている一人の旅人。

津和野は明治の文豪、軍医であった森鴎外(1862年(文久2年~

1922年(大正11年)の誕生地である。

本名林太郎は幼少期を津和野で過ごし途中藩校養老館に学んだ。

旧宅に隣接した記念館では遺品や直筆原稿などを見ることが出来る。

森鴎外は亡くなる時、石見の森林太郎として臨終を迎えたいと

伝えたそうだ。尚親戚に日本初の西洋哲学者西周がいる。


瑠璃光寺

2018-12-18 06:20:55 | 旅 ~国内

曹洞宗瑠璃光寺は陶6代弘房の菩薩寺で本尊は薬師如来

(瑠璃光如来とも言う。)陶弘房は(大内氏第一の重臣)応仁2年(1468年)

応仁の乱で京都の相国寺で戦死したので、その夫人

「妙栄大姉」が夫の菩堤を弔うため弘房念持佛の薬師如来をもって

本尊とし、山口の奥地仁保に文明3年(1471年)に瑠璃光寺を建立した。

当寺は福井の永平寺と横浜鶴見の総持寺が本山です。

開山は石屋門派の知恵大庵須益大和尚、中国の三山の一つと言われ

江戸末期まで僧禄司の要職を務め、常恒会16ヶ寺の中に入る格式を

与えられた、1586年(天正14年)毛利元就次男

吉川元春(岩国城主)が小倉で逝去した時、瑠璃光寺11代

華翁和尚が、その導師となり寺を霊牌所とした。

のち藩の了解を得、瑠璃光寺に復号した。

現在末寺県内22ヶ寺、県外11ヶ寺ある。

国宝五重塔は足利義満と戦った応仁の乱で戦死した大内義弘の

霊を弔うために、地元を護っていた。26代大内盛見が建てた。

故に塔は一種のお墓なのだ。創建は嘉吉2年(1442年)、

今から570年以上も前のもの。関ヶ原の戦いで、毛利輝元が破れ、

この時、五重塔も解体されそうになったので山口町民が

奉公所に嘆願書を提出、これが了承さえ、塔は残された。

塔の高さは31.2mで中心柱が五層目まで届いている。

ここの五重塔は全国で10番目に古く、国宝だ。

国宝の五重塔は9基あり、奈良の法隆寺と京都の醍醐寺と

瑠璃光寺の塔が日本三名塔と言われている。

この塔の屋根は桧皮葦で屋根が滑らかに葺かれ美しいと

言われている。五重塔が桧皮葦は奈良の室生寺・長谷寺・

宮島の厳島神社の4基で後はほとんど瓦葺だ。

一層の屋根と五層の屋根の低減は70%で塔の姿を美しく見せている。

勾欄が二層目しかないのはここの塔の特色だ。

五重塔は地震台風に強い柔構造建築になっていて

今日の高層ビル建築と同じ手法と言われ

改めて古い時代の技術には驚かされる。

大内氏24代弘世像 山口開府の祖、弘世は防長二州を制して

1360年頃あこがれの京都を模して都市計画をした人だ。

五重塔の前の広々した芝生の緑地にまるでまんまるな

ゴルフのバンカーの様なものがある。これが満月の庭だ。

本堂、そして薬師如来が本尊で拝み方は「オンコロコロ

センダリ マトウギ ソワカ」を3度唱えるとの事。

境内には多くのものが祀られて信仰を集めている。

びんずる尊者、一畑薬師山口分院、金毘羅様長寿薬師如来、

慈母観音、身代わり地蔵、佛足石 等々。

山口市指定文化財の梵鐘。この梵鐘は中世の防長の歴史、

金工資料として貴重なものだ。

ぼけない五ヶ条なるものを発見。写真を撮った後よく見ると

「撮影はご遠慮ください」と小さくステッカーが張ってあった。

外部の廊下にあって、誰でも撮ってしまいそうなもの。

撮影禁止の理由がいまいち理解できない。

司馬遼太郎の代表作「街道をゆく」の長州路から五重塔を見た

感想の一節が次のように刻まれている。

「長州は、いい塔をもっていると、惚れ惚れする思いであった。

長州人の優しさというものは(中略)

大内文化を知らねば分からないような気がする。」

瑠璃光寺を取り囲むような山並。本当に自然豊かで、静寂の中に佇んでいた。

駐車場、お土産物屋さんの前に気に成るお店が。

「西京山口の味 全国唯一のそば寿し 長州生蕎麦 東京庵」

「山口市は明治維新策源地」ののぼり

今年は明治維新150年の年の為、ここ長州では色々なイベントが行われていた。

この策源地とはどんな意か?

山口市は山口県の県庁所在地。行政の中心地が緑の多くの中に

ポツンポツンとあり、とても印象深い街になっている。

下の写真が県庁なんて!


毛利博物館

2018-12-17 06:28:41 | 旅 ~国内

http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/

防府市にある毛利博物館(旧毛利家本邸、毛利氏庭園)は

大正5年に完成した。旧長州藩主、毛利氏の本邸を博物館として

公開したもので、明治・大正期の建築技術の粋を集めた日本建築だ。

表門からしばらく整備された玉砂利の道を歩いて行くと

パーと広く開放的な空間に出る。そこに本邸(博物館の入口)がある。

これが全体の園内図。とにかく広大な敷地の中に建物が点在し

庭園の奥にはひょうたん池という池がある。

この塀の門が国指定名勝の毛利氏庭園の入口。

そして重要文化財旧毛利家本邸の2階から見た毛利氏庭園。

丘あり、滝あり、せせらぎあり、起伏に富んだ25000坪の

広大な庭園は代表的な近代日本庭園として高い評価を得ている。

風光明媚な瀬戸内海の借景に加え、サクラ・サツキ・紅葉など

四季折々のあざやかさは見る人を飽きさせない。

庭園内でひときわ目立つ1200坪の豪邸は、明治25年に着工し

大正5年完成の公爵毛利邸だ。部屋数も60部屋もあり

壮大華麗なものだ。この毛利邸は明治維新後、

旧長洲藩主毛利家の本居にふさわしいところとして、

維新の元勲井上馨公の本葬によりこの地が選定されたものである。

書院造を踏襲した和風建築の広間の天井は格天井。

畳の縁は柄がずれてなく職人の技が至る所に発揮されている。

後に見える多々良山の南麓に敷地面積が約53000㎡、

10棟の邸宅の甍が連なり、総工費は当時で約38万円

(現在価格で150億円程度)とされている。

玄関を入った所に昭和、大正の香りがする事務所があった。

さいしん旅の生きがいツアーには、皆当館の学芸員の案内が付き、

事細かに説明をしてもらった。我々の班は終盤の班で

ここの学芸員はもとより、各地の案内担当者は大分慣れてきて

話のウケるツボを心得え、素晴らしいガイドが続いた。

毛利家、長州藩の家紋は「一文字に三ツ星」。ここで毛利家の歴史を

綴ってみましょう。鎌倉幕府創設の功労者大江広元を租とする

毛利氏はその子季光が本拠相模国(現在の神奈川県)毛利荘にちなんで

毛利氏を名乗り、時親の代に安芸国(現在の広島県)吉田荘に移住した。

その後、元就により西国最大の戦国大名へ飛躍した毛利氏は

輝元時代に長門国(現在の山口県)萩へ移り、

その子秀就が初代長州県藩主となった。

歴代藩主の努力で力を備えた長州藩は明治維新を実現し

功に寄り最後の藩主元徳は公爵となった。

基本的には撮影禁止の毛利博物館。毛利家には雪舟筆の名宝

「四季山水図(山水長巻)」など国宝4点、三本の矢の伝説の

もととなった毛利元就自筆の「三子教訓状」など重要文化財が

約9千点など毛利家の栄誉を今に伝える歴史資料

合せて2万点が遺されている。ここは西日本有数の博物館として知られている。


神戸の街あれこれ PARTⅡ

2018-11-21 05:20:02 | 旅 ~国内

今まであまり縁の無かった神戸の街へ今年は2回も行ってしまった。

そこで神戸の街あれこれと称してPARTⅡをアップしてみました。

(PART 1  2018-5-9 ~2018-5-14 ブログ参照)

新幹線「新神戸駅」に直結し、神戸の絶景を誇る37階建ての

高層ランドマークのシティホテル「ANA クラウンプラザホテル神戸」。

六甲山に連なる山の手に位置し、平成16年2月27日開業した。

客室からは1000万ドルと言われる日本屈指の夜景をパノラマビューで楽しめる。

異人館の入口、パールストリートに位置するイスラム教の寺院

「神戸ムスリムモスク」。昭和10年、神戸在住のトルコ人、カタール人、

インド人貿易商らの寄付、出資によって竣工した。

昭和20年の神戸大空襲や平成7年の神戸・淡路大震災でも倒壊しなかった。

日本で最初のモスクで歴史的価値が高い建造物だ。

北野町にある異人館の旧シャープ住宅。「萌黄の館」で知られていて

昭和55年12月18日に国の重要文化財に指定受けた。

軽快な典型的コロニアル様式の2階建ての木造西洋館で

明治36年に建てられた。裏の庭園で撮影会をやっていたので

思わず割り込みでパチリ。失礼いたしました。

北野町の通りの建設現場で関東ではあまり見ないタイプの

建築業者の看板シートを発見。「企業に倫理を 職場に心を 家庭に愛を」

この仕事をしている身としてはものすごいインパクトを感じた。

ある意味ここの社長はすごい社長だ。

南京町広場には13体の石像が置かれ異国情緒が漂っている。

中国風東屋を囲むように平成元年に完成した干支の石像がずらり。

本場中国製の十二支石像だが、亥の代わりにパンダが加わり

後に猪も復活したので現在十三支になっている。

猿の前で少年がゲームに夢中になっているのをジーと見ているようだ。

南京広場の前の中華屋さんの店頭にあった大きな豚の人形。

やはり少年が豚と戯れているのがかわいらしい。

PARTⅠにも載せた大正4年創業の有名店「老祥記」さん。相変わらず長蛇の列で

肉まんを買いに来ている。当店は豚まんの発祥の店だ。

六甲ケーブルの駅の上にある展望台、「展望台」から見た神戸の街並み。

これを見て分かる様に神戸は六甲山、摩耶山の山並みと

すぐ近くの海の間のわずかな陸地に広がっている。その為埋立地が

重要な役割を果たしている。夜に成れば、

ここから見た1000万ドルの夜景は感動ものだろう。

ゴルフの歴史に詳しい方なら写真の神戸ゴルフクラブが

どんな価値があるか分かるでしょう。神戸ゴルフクラブは

明治36年5月に9ホールでオープンした日本最古のゴルフ場だ。

昭和32年5月21日に営業を開始し、多くの来場者で賑わった

回る十国展望台の写真。ゲートの真ん中にロータリーマークが

下がっているのを発見したのでアップしてみました。

天覧台展望台の隣の小高い山の頂上に目立った工作物があったので

バスガイドさんに聞いたらこれも六甲枝垂れ展望台だとか。

他にも六甲ガーデンテラスという展望台もあるとか。

神戸市役所2号館。阪神・淡路大震災で6階部分がペシャンコに

崩壊した映像を見てショックを受けたがその後5階以上を

撤去して再整備し、使用再開したのがこの建物。

前回(2018-5-14付)は夜のホテルオークラ神戸と

神戸海洋博物館(カワサキワールド)だったが、今回は日中の写真。

比較して見ると随分雰囲気が変わって見えるものだ。

メリケンパークから撮った1枚。天井と地面の影に挟まって

船と人がおもしろい構図で撮れた自己納得の1枚。

これも昼間の神戸ポートタワー。(2018-5-14付ブログ参照)。

1階~3階には展望エレベーターの乗降場以外にお土産店、

レストランがあり、展望室にはスカイウォーク、スカイラウンジ、季節の星座がある。

 

たまたま行った頃はハローウィーの時期でエレベーターガールも

ハローウィーンモード。色々な所にハローウィーンの飾り付けがされていた。

この時期日本中がハローウィーン一色に染まっていて

昔に比べてすっかり定着した感がある。

1階の壁には全日本タワー協議会加盟タワーの写真が

貼りだされていた。この写真だけでも20塔もある。

日本人はひょっとしてタワーが好きな国民かもしれないネ。

高層ビルの間に見えた神戸市の市章マーク。

街並に迫った六甲山があるからこその風景だ。

ホテルオークラ神戸の向こうには、フェリー、大型クルーズ客船が

停泊できる第一突堤から第四突堤が見える。

さらにはるか遠くにぼんやり見えるのは大阪の街並みだろう。

メリケンパーク広場にはイカリのマークが。おそらく地上では

大きすぎて何がデザインされているのかわからないのでは?

ポツンとした人の大きさでその大きさが分かる。

神戸のポートタワーの反対側には神戸淡路大震災の

メモリアルパークが保存されてある。地震によって破壊された

港の堤防がその当時のままに残されている。

ビル全面に張られたミラーガラスに映った神戸の街並み。

印象的な光景だったので思わずパチリ。

この写真は新神戸駅方向を撮ったもの。左に見える超高層ビルが

1枚目に紹介した「ANAクラウンプラザホテル神戸」のビル。

ボートタワー内にあったハートのフォトスポット。仲の良いカップルは

きっとここで記念写真を撮っているはずだ。

真下から撮ったポートタワー。アングルを変えると面白い写真になるものだ。

街の所々にはJ1ヴィッセル神戸のフラッグがはためいていた。

Jリーグのホームタウンに行くと必ず、そのチームのものを

撮ることにしているが、今年のヴィッセル神戸はなんと言っても

FCバルセロナから移籍してきたアンドリュー・イニエスタの話題だ。

先日の浦和レッズ戦でも埼スタを満員にさせてしまう程の動員力。

その日はケガということで出場しないでファン、サポーターを

ガッカリさせたが、Jリーグのイニエスタのファンタジックなプレーを是非見たいものだ。

最後に神戸に来たら、お土産としてFrantz(フランツ)のスイーツを

お勧めします。市内だけで3店舗あり「神戸魔法の壺プリン」

「神戸苺トリュフ」「神戸半熟チーズケーキ」は評判が良い。

買ってきたチョコレートも最高に旨かった。

この写真の真っ赤な店は北野工房のお店です。


塩屋崎灯台と美空ひばり

2018-10-27 06:03:03 | 旅 ~国内

塩屋崎灯台は福島県いわき市簿磯に立つ大型灯台で

立地と白亜の美しい外観から「日本の灯台50選」にも選ばれている。

地元では「豊間の灯台」とも呼ばれている。この一帯は潮の流れが

激しく暗礁も多い、海上交通の難所として古くから知られていて、

この為江戸時代から狼煙台が造られた。明治32年に煉瓦石造りで

建てられ初点灯した。昭和15年にRC造に改築したが、

昭和20年太平洋戦争末期に度々米軍の標的となり、

飛行機潜水艦からの攻撃を受けて破壊され機能を喪失した。

昭和32年、映画「喜びも悲しみも幾歳月」(木下恵介監督)が

公開され、主題歌共々全国的にヒット。

塩屋崎灯台もロケーションで登場した。管轄は海上保安庁だ。

ここには「いわき市と美空ひばりさんの縁り」と称して

美空ひばりのカラー写真と年表が書かれた大きな看板が建っていた。

広い海と岬の自然そのものの場所で美空ひばりの

4枚のカラー写真は一際、異彩を放っていたのが印象的だった。

灯台の近くには美空ひばりのヒット曲「みだれ髪」を歌う歌碑と

遺影碑が建っている。この哀愁深いヒット曲は作詞星野哲郎

(2017-3-1付ブログ参照)作曲船村徹で昭和62年夏

ひばりが退院して復帰第一作の作品だ。ひばり自身は

「春は二重に巻いた帯、三重に巻いても余る秋」という

くだりがお気に入りと言っていた。又当初、星野が書いた

「祈る女の性かなし」は消そうとされたものの、ひばりが星野に

「今の私は「祈る」という言葉を大事にしたい」と申し出たことにより

そのまま2番の歌詞に採用されたというエピソードも残されている。

「みだれ髪」の記念碑の200Mほど北には「永遠のひばり像」も

平成14年5月に建立された。永遠に太平洋に向かって

世界に歌い続ける姿を残したいという趣旨で建てらえた。

このエリアも東日本大震災で大きな被害を受けた。この建物は

復興公営マンションと復興の公営戸建住宅。

まだ真新しいがなんとなく痛々しく見えてしまう。


庄内映画村とオープンセット

2018-10-15 06:32:57 | 旅 ~国内

http://www.s-eigamura.jp/

築約150年。庄内藩主が刀を鋤に持ち替え切り拓いた日本遺産

「松ヶ岡開墾場」の中にある、なつかシネマミュージアム「庄内映画村資料館」。

明治9年創建の日本一大きな木造蚕室を舞台に

庄内で撮影された映画の室内セットや衣装・小道具、

邦画・洋画の歴史を振り返るポスター等、総展示数1000点を超える

資料が展示してある。正にここは脳が喜ぶ遊園地、

遊び心をくすぐる映画のパラダイスだ。

日本遺産、国指定史跡 松ヶ岡開墾場の案内図。日本最大の木造蚕室群

(カイコを飼育した建物)5棟の内5番蚕室が庄内映画村資料館だ。

入口受付を入ると所狭しとばかり立看・大判ポスター

貸衣装コーナーそして御所車がデンを展示してある。

古い木造蚕室を利用しての資料館ということもあって

全体的に薄暗く、不気味な雰囲気が漂っている。

2011年公開された「デンデラ」で使われた衣装が展示されてあった。

手前から草笛光子、浅丘ルリ子、山本陽子、倍賞美津子が着た衣装。

1階奥の展示コーナー。このエリアは2007年撮影

2008年公開の「おくりびと」、2009年撮影、2011年公開の

「座頭市 THE LAST」の資料が展示してあった。

日本初の米アカデミー外国語映画賞受賞「おくりびと」の資料。

絵コンテを見る機会はなかなかない貴重な資料だ。

劇中使用の棺桶も展示してあり、誰でも入って記念写真が撮れる。

2階に上がると2013年撮影公開された「おしん」のコーナーが。

おしんが脱走兵・俊作兄ちゃんや炭焼き爺とひと冬を過ごした

山小屋室内セットが移築して展示してあった。

それ以外にも「必死剣鳥刺」「ICHI」「山桜」「スノープリンス」

「うるう剣心」「超高速!参勤交代」「スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ」

「山形スクリーン」「十三人の刺客」などの資料が展示してあった。

松ヶ岡開墾場の三番蚕室はおカイコさまの蔵6月・9月に

飼育風景を一般公開しているとか。そして酒井家蚕室(女工宿舎)はくらふと

松ヶ岡こぅでらいねとして使われている。

この中でも一段と目立った四番蚕室は庄内農具館として使用されている。

庄内映画村資料館から車でかなり山奥に入った所にある

広大なスタジオセディック庄内オープンセット。ここで数々の映画や

ドラマが撮影された。その受付入場口と御土産屋がある建物。

これがオープンセットの案内図。全長は2㎞あり、見学時間は約1時間半から

約2時間程度要する。この広大な敷地は6つのエリアで分かれている。

戦国大手門エリア、宿場町エリア、山間集落エリア、農村エリア間の

移動は周遊バスに乗ることができる。7ヶ所のバス停を約15分~20分間隔で

運行しており、500円で終日乗り放題だ。案内板の下には

ここで撮影された8本の映画ポスターが貼られてある。

この入口を入る手前に1つだけポツンと古い2階屋があった。

この建物は「おくりびと」で銭湯として使われたもので

2010年5月に鶴岡市民に親しまれていた銭湯鶴乃湯をここに移築し保存している。

旅の疲れ、猛暑のあって周遊バスに乗ったが、このバスがまたすごい。

数十年前に使われていたバスの払い下げみたいでクーラーは無く、

小さな扇風機がいくつも付いている。道は舗装されていない土の道の為

バス内はホコリだらけ。窓ガラスも拭かれていない為

土埃で外がよく見えない。こんなおんぼろバス、最近乗った記憶はない。

「しゃれこ~べ」撮影された映画の写真パネルが展示されている。

一番奥にある山間集落エリア。周囲の自然に溶け込んだ民家や

水車小屋などが再現されている。ここでは「殿利息でござる!」「スノープリンス」

「おしん」など数々の映画やドラマで使用されてきた。

山の緩斜面に2本の通りを挟み旅籠、商家、飯屋など約30軒の

町屋が約200Mに並ぶ宿場町エリア。ここでは「殿利息でござる!」

「彼岸島デラックス」「るおうに剣心・京都大火編」「十三の刺客」などが撮影されている。

いかにも表側はそれ様に造ってあるが裏側はベニア板まるだし。

映画のセットとはこれでいいのだ。

ここでは映画「十三人の刺客」が撮られた。因みに松方弘樹さんの

最後の撮影シーンはここのオープンセットでのものになった。

映画「十三人の刺客」のポスター用写真等に使用されたもの。

宿場町エリア入口付近でとられた。豪華キャスト陣は長い庄内での

撮影の中、夜、庶民的な居酒屋でみかけることもしばしばだったとか。

バスでエリア内を移動中、突然変な人達と遭遇。

コスプレをセット内で楽しんでいる人だそうだ。こんな人が

よく来るとバスの運転手さんが言っていた。

農村エリアにある神社。映画「必死剣鳥刺し」で切ないラストシーンに登場。

かつて本当の神社だった資料を使って建てたとか。

ここは農村エリアのおしんの生家がある所。撮影の為に作られた

棚田の田園風景が広がり、百姓の家が点在している。

毎年ロケーションの為だけに田植え、稲刈りが行なわれている。

農村のセットがあるのは日本中でここだけだ。

ここで「超高速!参勤交代」「信長協奏曲」そして「おしん」の

ロケが行われた。おしんの雪の中でのロケは本当に大変だったろう。

棚田セットの道の中を一組の若い家族が歩いてきた。なにか映画のワンシーンを

見ているような錯覚に陥ってしまった。それ程ここは雰囲気がある。

ここから漁村エリアと風のエリアになる。まるで海に続くかのような気配。

エリア内にある漁具は昔、庄内浜で使用されていた物。

園内最大級セット「商家屋敷」があり、中庭まで丁寧に造り込まれている。

それにしてもそれなりの街並み、建物がありながら人気が無いというのは

とても不自然な感じで変な気持ちに成った。やはり街と人は一体で生きるものだと思った。

「殿利息でござる!」で伝馬屋敷が登場。多くのエキストラの皆さんが

登場したということだが、是非一度ロケ現場を見てみたかったものだ。


山形・鶴岡の街

2018-10-13 05:39:56 | 旅 ~国内

今年3月に何かと話題の中オープンした鶴岡市文化会館

(愛称は荘銀タクト鶴岡)。この会館の設計はプロポーザル方式で

公募され審査の結果、妹島和世建築設計事務所と地元JVに決定した。

因みに当設計事務所はブログで紹介した金沢市の

21世紀美術館、両国のすみだ北斎美術館などの作品を手掛けた。

話題とは当初計画の総事業費予算の2倍、96億7600万円もかかってしまった事。

鶴ヶ岡城の本丸跡(鶴岡公園)にある明治10年に創建された

「庄内藩主酒井家の4人の先祖を御祭神として祀った庄内神社。

境内の入口には「庄内藩創立400年まであと4年、変わらない

歴史がここに」という看板が立っていて印象深かった。

庄内神社の隣りには鶴岡が生んだ作家、藤沢周平記念館がある。

館内の構成は第一部藤沢文学と鶴岡・庄内、第二部藤沢文学のすべて

第三部作家藤沢周平の軌跡となっている。

又東京の自宅仕事部屋で実際に使っていた机や愛用品などを

展示してある書斎がコンパクトに復元してある。

行った時は藤沢周平誕生90年特別企画展「半生の記をたどる」が

公開されていた。藤沢周平(本名小菅留治)は昭和2年、

現鶴岡市高坂に生まれた。山形師範学校卒業後、教師となったが結核で休職。

その後東京の業界新聞社に勤め、その傍ら小説を執筆。

昭和48年「暗殺の年輪」で直木賞を受賞した。

代表作としては「蝉しぐれ」「たそがれ清兵衛」「用心棒日月抄」

「橋ものがたり」などがある。平成9年逝去。

エントランスホールやサロンでは、藤沢周平関連の各種情報検索や

読書が楽しめる。藤沢周平曰く「生まれ育った土地の風景が

今も私の中に生き続けている」。

国指定史跡、庄内藩校、致道館。ここは庄内藩酒井家9代忠徳が退廃した

土風を刷新して藩政の振興を図るために文化2年(1805)に

創設した学校だ。明治6年に廃校に到るまでのおよそ70年間

致道館は荻生徂徠の学風を伝承し、且つ孝悌忠信を重んじて

武士道を体得し、お互いに切磋琢磨して多くの人材を輩出した。

今回の旅の一番の目的は鶴岡西RCの例会に

メイクアップすることです。当クラブには国際ロータリーの現役理事の

メンバーの方がいらっしゃって、熱烈歓迎を受けた。

道路の右側には雪国特有の防雪棚が続いていた。

この吹き払い式防雪棚は、角度のついた棚が道路に風が

吹きつけ吹き溜まりを防ぐ為に設置しているもの。

これによって地吹雪(じふぶき)を防止することができる。


致道博物館

2018-10-12 06:23:48 | 旅 ~国内

鶴岡市は江戸時代に城下町として発達した町。ここは鶴ヶ岡城

(現在鶴岡公園)の三の丸にあたり、庄内藩の御用屋敷となっていた所です。

庄内藩は徳川四天王の1人酒井忠次を祖とし、

三代忠勝が元和8年(1622年)信州松代から14万石で

移封となってから明治まで酒井氏が治めていた。

明治後も酒井氏は鶴岡にとどまり昭和25年(1950年)

郷土文化向上のために旧藩校致道館資料及び

土地建物を寄付し、博物館が発足した。

明治14年(1881年)に建てられた擬洋風建築で

明治天皇が東北御巡幸のおりは鶴岡の行在所となった

由緒ある建物の旧西田川郡役所。重要文化財で昭和47年にここに移築した。

又二階の釣り階段は鹿鳴館時代を偲ぶことができる興味深いものである。

ここは大昔の人々の生活を考えるための考古学資料と

明治時代の資料、そして兄弟都市を結んでいる

鹿児島との関係資料などを展示している。

明治17年(1884年)に鶴岡、馬場町に建てられたもので、

新しい洋風工法に在来の手法を加えて作られた

擬洋風建築として優れた旧鶴岡警察署庁舎。

やはり重要文化財で昭和32年に移築された。

尚、棟梁は西田川郡役所と同じ当時の名匠高橋兼吉だ。

又、最後の1枚は警察の取調室。取調室は2部屋あるが

身分などによって違う扱いをしたのか2部屋は天井の色が異なっている。

旧鶴岡警察署の2階バルコニーから旧西田川郡役所に向かって

致道博物館全体を見渡した1枚。これを見ても

地方都市にも素晴らしい文化が花開いていたことが分かる。

ここの土地は酒井氏入国当時(元和8年・1622年)から

藩の御用屋敷で、慶安年間(1648~1651)には

三代酒井忠勝の二男忠俊の住居があった。

現存する建物は、幕末の文久3年(1863)十一代忠発の時に

藩主の隠居所(御隠殿)として建てられたもので

江戸屋敷から移築したものと伝えれらえる。

大名屋敷の広壮な面影を偲ぶことができる建物の中では

種々の展示がされてある。立派な鶴ヶ岡城の復元模型もあった。

そして、これが鶴ヶ岡城の貴重な写真。これを見ると

鶴ヶ岡城は平城なのが写真と模型でわかる。

旧庄内藩主酒井家に伝わる甲冑などの美術工芸品や

歴史資料、旧藩主の書画や「庄内竿」などを展示している。

その中で興味あるものが、よく見る「徳川十六将図。

徳川家康を上部中央に配し、左上筆頭に庄内藩酒井家初代の

酒井忠次が描かられている。各武将16人の名前は

記されていないが、鎧の胸にそれぞれ家紋が描かれているため

それぞれの武将名を知ることができる。

酒井忠次は「酢漿草紋」だ。

重要文化財、田麦俣の民家 昭和40年移築山村豪雪地域の

多層民家。兜造りと呼ばれる美しい萱葺き屋根の民家だ。

庄内でめぐる幕末・明治(明治150年)の展覧会の

会場に当到道博物館も成っている。

ここでは「明治維新150年西郷隆盛と庄内」展が行なわれていた。

その会場の一部。尚「致道」という名は庄内藩校「致道館」によるもので

その出典は中国の古典「論語」の一節「君子学んで以って其の道を致す」にある。


本間家旧本邸と美術館

2018-10-08 05:35:54 | 旅 ~国内

「酒田に本間家あり」と言われ、後に歌で「本間様には及びもせぬが

せめてなりたや殿様に」とうたわれるにまでなった

酒田の豪商、本間家。やがて日本一の大地主と称されるほどの

甚大な財力を築いた。二千石旗本屋敷の格式を備えた長屋門の

表面で日常閉門されている。片や日常くぐり戸だけを使用していた裏門。

それぞれをつなぐ漆喰の白壁が武家屋敷の風格を物語っている。

本間家旧本邸は、三代光丘が幕府巡見使一行の本陣宿として

明和5年(1768年)新築し、庄内藩主酒井家に献上し、その後拝領した。

この建物は母屋桁行33.6M梁間16.5Mの棧瓦葺平屋書院造りの

武家屋敷と商家造りが一体となる珍しい建築様式。

商家造りの方では昭和20年春まで生活をしていた。

本間家三代当主光丘は本間家中輿の祖として知られている。

多くの公共事業を通じて酒田のまちの発展に尽くした。

飛砂の害から民を守るため行った砂防林の植林事業のみならず

財政が切迫していた東北諸藩への資金援助や財政再建

藩内の飢餓に備えて備荒籾を献上、更に藩主や農民へ

低利の資金融資を行い、窮民の救済にも努めた。

本間家は武士の身分を許されていたため、土間ではなく板張りの台所となっている。

欄間に金箔の家紋をはめ込み、扉の周囲には本朱が塗られている御仏間。

200年以上経った今も、昔のままの色をとどめている。

屋根の瓦にも本間家の家紋が使われている。この紋は表紋・家紋・

屋別などあらゆるものに使用されている。他に龍胆車(りんどうぐるま)の裏紋もある。

昭和22年、戦後の荒廃した人々の心を励まし芸術文化の

同上に資することを目的にこの本間美術館は創立された。

これは全国初の私立美術館で、市民に開放され、

市民が一流の芸術文化にふれる機会を創出してきた。

本間家に伝わる庄内藩主酒井家・米沢藩主上杉家など

諸藩からの拝領品を中心に展示活動をしている。

又古美術から現代美術の展覧会なども行なわれている。

期せずして、今回訪れた酒田・鶴岡では明治150年を記念して

「庄内でめぐる幕末・明治」の企画展を、本間家旧本邸では

戌辰資料展、当美術館では西郷隆盛と志士たち。

そして鶴岡の致道博物館では西郷隆盛と庄内について開催していた。

NHK大河ドラマ「西郷どん」にもチラッと出て来たが

西郷隆盛と庄内藩とは因縁の関係がある。

橋本左内(1834~1859)筆 「聖得知」 (聖を知り得る)

徳川斉昭(1800~1860)筆 「徳潤」 (儒学の教え)

佐久間象山(1811~1864)筆 「七言律詩」 「桜詩」

西郷隆盛・号南洲(1828~1877)七言絶句「世間多少」

西郷隆盛と庄内のゆかりは以下の通りだ。慶応4年(明治元年)

庄内藩は新政府軍と戦い、帰順降伏した、しかし庄内藩に下された処置は

寛大なものでした。旧庄内藩中老菅実秀は寛大な処置を

指示したのが西郷隆盛だと知り、深い感銘を受けた。

明治3年~8年にかけ旧庄内藩主をはじめ多くの旧庄内藩士たちが

鹿児島を訪れ、西郷の学びを得た。この親交は後に

「徳の交わり」と呼ばれた。旧庄内藩主たちは南洲翁の真精神を

伝えるために「南洲翁遺訓」を編さんし、明治23年に発刊。

全国を行脚しながら人々に配布した。昭和51年には

南洲翁の遺徳をたたえ、南洲神社を酒田市に創建した。

そして今なお敬愛の精神が受け継がれている。

藩主酒井候が領内巡視する際の休憩所として文化10年(1813年)

つくられた清遠閣。大正14年には東宮殿下(昭和天皇)が

ご宿泊されるなど、酒田の迎賓館としても使用されてきた。

京風な精緻な造りと、大正ロマンを偲ばせるモダンな調度が心地よい建築だ。

文化10年(1813年)第4代本間光道が築造した鳥海山を

借景とする池泉回遊式庭園。国指定名勝となっている。

池の中島に鶴が舞い降りたことから、「鶴舞園」と名付けられた。

庭園の整備は冬期間に港で働く人々の失業対策事業として実施された。


山居倉庫

2018-10-06 06:21:15 | 旅 ~国内

この写真を見た人は多いことでしょう。

ここは米どころ庄内のシンボル山居倉庫(さんきょそうこ)だ。

明治26年(1893年)に旧荘内藩主酒井家が、

米の保存と集配を目的に酒田米穀取引所の附属倉庫として建造したもの。

現在12棟ある内の10棟は現役で農業倉庫として使われている。

JR東日本の「大人の休日倶楽部」のPRポスターにも

この山居倉庫が使われている。キャッチコピーは

「旅先の歴史を知るいちばんの近道は寄り道かもしれませんね。」

残念ながら、モデルの吉永小百合の顔が光線の関係で

写りが悪くなってしまった。

今回山居倉庫を案内してくれた酒田市観光ガイド協会の

ベテランガイドさん。この方はとてもソフトで人当りが良くて、

時に山形弁を使い、年齢を超えてチャーミングなボランティアガイドさんでした。

この米穀倉庫の造りは、屋根は断熱を考慮した二重構造(置屋根)

内部の土間はにがりを用いて練り固めた上に塩を敷き、

倉庫内の温度・湿度を一定に保つ技術が用いられている。

倉庫の西側には、日本海からの強風と夏の直射の日光をさえぎり、

倉庫内の温度変化を少なくする目的で、41本の﨔が植えられた。

その内、樹齢150年以上と言われる﨔が36本もある。

山居倉庫の隣りにある三居稲荷神社。明治26年旧藩主酒井家と

徳川家に勤請して従来の山居稲荷と合祀した。

この神社は倉庫鎮守の神だ。

こちらが倉庫の表側。2号棟から10号棟は現役倉庫だ。

現在はJA全農山形が所轄している。

一番北側の1号棟は庄内米の歴史を紹介している

「庄内米歴史資料館」に成っている。

ここでは米に関する資料以外に農具なども保存展示されている。

新井田川に架かる山居橋。今日本の観光地はどんどん観光資源の

復元が進んでいるような気がする。この橋もその当時の

面影を出すよう復元されたのだろう。

東宮殿下行啓記念館と書かれてあるが、どの東宮殿下か分からない。

戦後まもない頃の雰囲気がして懐かしさを感じる建物だ。

川に面して船着き場も設けられており、最上川舟運の拠点のひとつであった。

明治に入ってからはこの小鵜飼舟が使われ、復元された船が敷地内に保管されていた。

山居倉庫11号棟、12号棟を改良した酒田の観光物産館。

「酒田夢の倶楽」館内には酒田のお土産品が勢揃いている。

ミュージアムでは酒田の歴史を紹介するコーナーや

酒田の豪商本間家が江戸時代に作らせた亀笠鉾が展示されている。

 

 

ここでNHK連続テレビ小説「おしん」のエピソードを紹介します。

ある時、「おしん」の脚本を手掛けた橋田須賀子とNHKスタッフは

シナリオハンティングを目的に酒田を訪ねた。

その折に橋田は偶然に、山居倉庫の存在を知り、米どころの

シンボルとも言える倉庫を見た瞬間、これでドラマができると確信。

貧しい農家に生まれた「おしん」が米一俵で身売りされ、酒田に奉公に出される。

そして、その地で倉庫に続々と運び込まれる米俵を見て、

驚きのあまり、言葉を失う。のプロットの着想を得た。