スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

北信濃 小菅の里と北竜湖

2018-09-06 06:25:41 | 旅 ~国内

出会い、ふれあい、巡り会い、それが小菅の里。

私にとっても52年前、数ヶ年過ごした思い出の地、この地で

青春の一時を過ごした懐かしい場所だ。小菅集落は

古くから小菅山元隆寺を中心に修験の霊場として繁栄した。

元隆寺の坊院群の地割は、現在も石垣等で区画され、

住居地や耕作地として継承されている。

こんな小菅の文化的景観は今回再訪するまでは知らなかった。

半世紀前は素朴な自然の中で、青春を謳歌できた地、それだけで充分であった。

ここ小菅神社の里宮は、万治3年(1660年)、飯山城主松平忠倶が

改修したという記録がある。里社本殿のほか神楽殿、神輿殿などがある。

神楽殿は寛保3年(1743年)再建であり、神輿殿は大正10年(1921年)

建立された。なお神輿は宝暦6年(1756年)に再造されたもの。

昔の記憶では里宮の参道はもっと鬱蒼とした杉並木であったが、

随分古木の杉が減った様な気がした。勉強に疲れると

よく小菅神社に来たものだ。超懐かし~い!!

小菅神社鳥居の横にある火の見櫓を見た瞬間半世紀前の記憶が蘇ってきた。

確かにここに火の見櫓があったナー。つまらないものでも

人の目を通すと特別なものになる。

伽藍守護の神で、両脇に一対の半裸形の金剛力士を安置した

社寺の門「仁王門」。道路改良に伴い、左右両側に

道路が造られるまでは、この門が小菅の入口であった。

幾度も小菅のダラダラ坂を歩いて登ったのに

なぜかこの仁王門だけは記憶に残っていない。

学生時代、長野駅から長野電鉄に乗り換えて木島駅で下車。

そこからバスに乗って関沢というバス停で降りて、

この田んぼの中を荷物を持って登ったものだ。

途中疲れて後を振り返ると、千曲川の水がキラキラ光り、

遠く妙高山をはじめ北信五岳のシルエットが、

瞼に焼き付いている。ここは日本の里山の原風景が

半世紀を過ぎてもほとんど変わっていなかった。

唯、道は砂利道から舗装され、すっかり整備されていた。

ここの田んぼの稲は現在コシヒカリの原苗を生産しているそうだ。

ウットリするような棚田だ。

小菅の道の正面に茜色に染まった妙高の雄姿は私にとっては

10代の原風景に成っている。今回、修験僧に聞いた話では

妙高山を奈良時代より霊山と仰ぎ、参道を妙高に向かって

真っ直ぐにして小菅神社を修験道の道場としたとか。

この道が宗教的意義が込められていたとは学生時代は露知らなかった。

今回宿泊した七星庵には、各種のアクティビティのコーディネートがあって、

その1つのふるさと案内人による奥社登拝ガイドや集落ガイトをお願いした。

この方が当日案内してくれたガイドさんで、小菅集落に

生まれ育った長老。現役時代はアルペンスキー選手で

長野オリンピックの時は大会運営の役員をされていたとか。

その当時の数々のエピソードを聞き大変興味深く拝聴した。

この方は3日間お世話に成った七星庵のチーフディレクターのS氏。

実はS氏とは3日間という短い時間の中で、よっぽどの縁を

感じる間柄に成った。氏は若い時代、都内で芸能人の

マネージャーになったり、有名な歌手、俳優のマッサージ師などを

していた。こんな人生に疑問を感じていた時、ここ小菅に

田植えのボランティアで来て、小菅の魅力に憑りつかれてしまった。

そしてとうとう修験道の世界へ入ってしまった。

このブログがアップしている頃は彼は出羽三山の一つ、

羽黒山の山中で修験僧として修業に入っているはずだ。

小菅神社里宮の隣にある講堂。寛保元年(1714年)に再建されたと

言われている。内部に安置されている阿弥陀如来像は

享保17年(1732年)、京都の大仏師奥田杢之丞の作だ。

祭り資料館も併設され3年に1度行われる「柱松柴灯神事」

(国重要無形民俗文化財)の概要が分かるようになっている。

今年の盆休みは快晴の日が少なくこの写真が一番はっきりと

撮れた妙高山。それにしても生活の為とはいえ、

日本の電柱、電線は風景を壊している。

ここが学生時代、学生村としてお世話に成った中根荘。

その時代は一般家庭ではまだクーラーが無く、

長野県などの避暑地では学生村と称して多くの民宿へ夏

学生は勉強合宿に行った。中根荘の母屋は建替えられていたが

私が宿泊した蔵はそのまま残っていた。近所で民宿をやっている方に

聞いた所、大変お世話に成った中根荘のオヤジさんは

今年の2月、92才で亡くなったとの事。たまたまその当時中学生だった

息子さんが新盆で居るとの事で、御線香をあげに訪ねて

昔話に花が咲いた。霊前に手を合わせ冥福を祈った。

本尊馬頭観音を祀っている観音堂。信濃三十三番観音霊場

巡りの第19番札所となっており、訪れる人も多い。

かつては小菅山の中腹にあったが、明治27年に現在の場所に

移転された。お堂の中に入ってみると、壁じゅうに落書きがあり

中には女性のマンガみたいなものもあった。年号を見ると

江戸時代のもので、その当時の時代が脳裏に浮かんできた。

小菅神社奥社本殿へ通じる三の鳥居と杉並木が約600M、

180本程続いていて神秘的な空気が漂っていた。

樹齢は約300年。国の重要文化財の小菅神社奥社本殿は

来由記によると白鳳8年(680年)修験道の祖、役小角の創建となっている。

小菅山(1047M)山頂近くの標高900M付近にあり、

岩壁を背にした懸造りの入母屋。本殿と附属宮殿は室町時代中期のもの。

上杉謙信が川中島出兵の折、必勝祈願の願文を捧げており、

新潟県にも崇拝者が多い。三の鳥居から徒歩60分程だそうだが

途中登山的になっていてかなり大変だそうだ。

急な石段を1/5位の所でギブアップ。しばし杉並木から木漏れ日を

感じながらガイドさん、S氏との会話を楽しんだ。

寛延3年(1750年)に再興された護摩堂。ここの境内は

小菅山元興寺別当大聖院の跡地。3年に1度の松子の神事では

ここが行列の出発点となる。信州大学の先生の研究では

これ程大きい護摩を焚く寺は全国でも珍しいとの事。

大聖院は小菅山元隆寺の別当職の寺院であった。明治2年に

廃仏毀釈により廃絶となり、昭和の時代に取り壊された。

長く連なる梅鉢積みの石垣は往時の隆盛を彷彿とさせるものがある。

もう1つの思い出の地「北竜湖」へ早朝から歩いて行ってみた。

朝もやがかかる山道を記憶をたどりながら歩いた。

歩いて途中からどうも記憶と違う。帰路に分かったことだが

帰路が50年前によく往復した道。ではこの道は何?

この疑問は今も記憶と一致していない。

早朝、朝もやがたなびく幻想的でメルヘンチックな北竜湖。

この風景をじっと見つめていると東山魁夷の絵を思い出した。

白馬が一頭現れたらまさにそのもの。北竜湖はハート型の形をしており

恋愛成就パワースポットとして知る人ぞ知る可愛らしい湖だ。

ここは長野の自然百選にも選ばれ、商業化の波からも外れて

本当に50年前と変わっていなかった。早朝から数人釣りを

している人がおり、ブラックバスを釣っているそうだ。

他にもここではカヌーやSUPなどの水上アクティビティはもちろん、

深林セラピー、ヨガ、マインドフルネス、グリーンツーリズムなど

心身を整える時間を過ごすことができる。

こちらはいいやま北竜温泉のある文化北竜館。

運営は学校法人文化学園が行なっており、2005年にリニューアルした。

体育館や多目的ホールなどの施設があり、合宿や会議に最適だ。

この施設は昭和39年に北竜湖荘として創設された。

私が行ったのはその数年後。今でもはっきりと記憶に残っている。

さすがファッション関係の施設だけにエントランスの所に

前衛的な彫刻作品が飾ってあった。上の作品は

「布を掛けた椅子」イタリア人作家リヴィオ・デ・マルキ作。

1本の木で彫り上げている。下の作品は「絵の具の筆」。同じ作者だ。

文化北竜館のすぐかたわらに広がるゲレンデは

北竜温泉ファミリースキー場。このスキ―場にも学生時代に来たが

ゲレンデのスタートラインに立ってみると、その当時と

同じ風景が出てきた。最近は一つ入ると一つ忘れてしまう

脳状態だが若い頃の記憶はたいしたものだと改めて

感心してしまった。尚このスキー場は昨年閉鎖したそうだ。

江戸時代後期建造の飯山の旧家を移築した北竜湖資料館。

全国の郷土玩具、民具類を常設展示している。

改めて、日本の里山の原風景。青春時代の思い出の地の

風景をアップして、かなり感傷的になった「小菅の里と

北竜湖」のブログを閉じます。


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