思考の部屋

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民衆仏教

2010年05月21日 | 仏教

 仏教国タイのほとんど内戦のような状態を見ると、彼らは歴史の中で何を学んできたのか、何か愚かさが見えてならない。

 タイでは、死後の世界をとても気にし、また一度や二度の生まれ変わりでは、物欲的な幸せも含め思うような世界には行けないよう意識つけられているようです。

 従って現世意欲が強くなる、一面そのような心理的な面があり、行動に現われるように思います。

 前に若い親は子どもを叱る言葉を知らない。ということを書きました。最近悪事をはたらいた、少年にためしに聞いてみますと、この子は以前にも悪いことをしているのですが、親は「そんなことをしていると世間が相手にしなくなる」とか、またこの親は土建業を経営しているので「(この子が親からこの仕事を受け継いだとして)従業員もお前の言うことなんか聞かなくなる」としかるとのこと。

 「ご先祖さんに申し訳ない」「親に恥をかかせるな」と私は怒られました。何かが変だよ日本人。

 今朝も哲学者内山節先生の著書『清浄なる精神』(信濃毎日新聞社版)から、私としては違和感のないとても端的な日本の「民衆仏教」論を紹介したいと思います。

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民衆仏教

 日本に仏教が伝わったのは、公式には、500年代中頃のことであった。当時朝鮮半島にあった国である百済の聖明王が、大和政権に仏像とお経を送ったと伝えられる。

 といっても、その前から仏教的な考え方は、さまざまな民間ルートで日本に入っていたと考えた方が妥当だろう。中国や朝鮮半島からも、北方ルートや南方ルートからも、さまざまな人々が入ってきて形成されたのが日本の社会である。この人の動きのなかで、仏教的な考えも伝えられていたに違いない。
 
 公式に伝えられた仏教は、豪族や国家の手で、寺院や教義を教える「学校」をつくりだしていった。いまも奈良盆地に点在する古い寺々がそれにあたる。ところが、民間ルートで入ってきた仏教は、そのような道筋はたどらない。少しずつ人々の考え方のなかに浸透し、おそらく仏像もお経もなく、口伝えで教えられていったことだろう。しかもこの過程では、当時の民衆の考え方と結びつきながら、解釈されなおし、つくり変えられていくという一面もあったことだろう。

 私はこのことが、日本の仏教の性格をつくっていったような気がする。
 もしも日本は仏教徒が多い社会だと思って来日した外国人が、今の日本仏教の現実を調べたら、かなり驚くことになるだろう。確かに葬儀や法要の多くは僧侶を呼んでおこなわれているし、家に仏壇があったり、寺に墓があったりする。その意味では仏教徒は多いけれど、その「仏教徒」たちは、日々聖書のようにお経を読んだりしてはいない。そればかりか、仏教の基本的な考え方さえ知らなかったりする。このような側面からみれば、日本には仏教徒はほとんどいないとさえいえる。それなのに多くの寺があり、「我が家は何々宗」だとな言って暮らしているのである。この現実を知れば、日本は一体どうなっているのかと思うことだろう。
 
 だが私は、ここにこそ日本の民衆仏教の姿があるのだと思っている。
 もう一度古代に戻ろう。古代に公式に仏教が伝えられたとき、その仏教は儒教色の強い、国家を護持するための仏教であった。その仏教は土を耕したりしながら生きていた民衆には関係ない。民衆にとっての仏教は、いつの時代でも、日本の風土と調和し、自分たちの生きる世界を支えるものでなければならない。その自分たちの生きる世界とは、自然や「ご先祖様」によってつくられてきた世界である。だから自分たちを包み守っている自然に感謝し、この世界をつくってくれた「ご先祖様」に感謝する。そういう気持ちと結ばれている仏教でなければならないのである。あるいはそのような仏教を、民衆は仏教として受け入れた。

 だから民衆の仏教は自然信仰と結ばれ、「ご先祖様」信仰と結ばれたものでなければならなかった。そして仏教がそのようなかたちをもって現れたとき、民衆は仏教の言葉に真理を感じ、納得した。
 奈良や京都にそびえ立つ寺院でも、その寺院から発せられる教義でもなく、自分たちの生きる世界を支えてくれる仏教を、民衆は仏教として受け入れ、後に自分たちの地域にお堂を建て、仏像を置くようになった。
 
 日本の民衆は、はじめから、仏教教典を読み、それを理解して仏教徒になったわけではない。それは鎌倉以降の仏教が生まれてからも同じことで、教団の本山が何を言おうとも、それはさして重要なことではなかった。そして寺に住むようになった僧侶たちも、彼らは一応は本山との結びつきをもっているものの、自分の住む寺では地域の人々を支え、地域の人々の考え方と結ばれながら、
地域に暮らす僧侶として活動していった。

 今日の各地の寺をみると、どこかの時代で宗旨替えをしていることが少なくない。密教系の寺から禅宗系の寺になったり、あるいは浄土教系の寺になったりと、その変化は実にさまざまである。といっても、かつては、宗旨替えというようなことは、特別には意識されていなかったのではないかという気がする。なぜなら多くの地域の寺にとっては、本山との結びつきより、地域の人々との関係の方が重要だったからである。
 
 このようにして展開してきたのが、日本の民衆仏教だとするなら、「仏教徒」たちが、仏教教義を重視しなかったことも理解できる。そうではなく、自分たちの祈りや願いとともに仏教はあった。それが日本の民衆仏教史だと私は思っている。

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 人様をさしおいて幸せになんかなれるか、的な気概があったような気がします。運命共同体などとは云いませんが、最低限、常識的な家庭ではご先祖様に恥を欠かせないという怒り方ができていたように思います。

 事業仕分けで仕分けの対象になった副読本「心のノート」、ノートをつくって配布しても使わない教師が多い現実。

 災害が起こっても略奪や反対闘争でもう火炎瓶が飛ぶような愚行はないと思いますが、心配です。

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