唐突に禅宗の話です。
五祖大師(弘忍)が神秀に次のように話す。
「無上の悟りは、言下に自分の本心を識り、自分の本性が不生不滅であることを見なければならなぬ。一切時中に、念々に自らに見て、すべての存在に滞ることなく、一真一切真で、すべての境に処して自然にあるがままである。このあるがままの心のこそ、真実なのだ。もしそのように見えたら、それが無上の悟りの自己の本性というものだ。」
こう言われた神秀は「心中恍惚として、神思安からず、なお夢中の如くにして行坐楽まず。(精神安からず、まるで夢のように、行住坐臥に心が楽しまなかった。)」という精神状態に陥ったとのことです。
そして神秀は仏教学を勉強尽くすほどの優秀な僧侶であり自負もあったでしょうが、結局は南にあって「水を担い、柴を運ぶ」慧能が六祖となりました。
南岳懐譲という僧侶は、この六祖に「什麼物恁麼に来た。(何ものが何に来た。)」と問われ行き詰まり、8年間の修行に身をおく。そして忽然と悟り、あおの有名な「説似一物即不中(説いて一物に似たるも即ちあたらず」を示します。
禅問答などというものは頭の運動である内は何か当ったように思う境地も、本来あるべき自分にはほど遠く、お師匠は突き放します。
「本来あるべき自分」
それは、目的物ではなく「今在る場所」、「大切にしまって保管すべき場所」にあるから応えられるもので、南岳懐譲の「説似一物即不中」はその身の内から現れた応えでした。
そもそも六祖壇経で語られる話は、「神秀と慧能との法の優劣を説くところ、南北両宗の宗我があまりにも露骨で、とうてい祖師慧能のその人の言とは見がたい。」というのが一般的で、作り話に違いありません。
道元さんの話に「夢中説夢(むちゅうせつむ)」があります。
これを「所詮こ世は夢のようなもの」「夢のようにはかないものだ」と語るものだなどと安直に応えると一笑に付されるわけで、「この夢のような世界こそ、まさに現実でありこの現実の世界のほかに仏道を行じて行く道はない。」という話です。
「本来あるべき自分」は現実世界を離れてはなく、凡夫にとっては迷いの世界であり、仏にとっては涅槃なのだとというわけです。悟りの世界とはこの迷いの世界から抜け出すことをいい、迷いの世界の自分(此岸)から涅槃の本来あるべき自分(彼岸)に「うつす」ことのように思います。私というものを大切に保管すべき場所に「うつす」わけですが、自分という唯一の存在がなくなるわけではなく常に同一です。此処を離れてはいません。
本質的には変わりませんが、此岸と彼岸が限りなく微分され隔たりがなくなれば、「夢中説夢は諸仏なり」と言う道元さんの言葉に、森羅万象に仏があることを知り、「諸仏は風水火なり。」が「わかる」ことなります。
何が本当であり何が嘘か。
嘘も本当もあったものではない。
「説いて一物に似たるも即ちあたらず」
「夢中説夢は諸仏なり」
凡夫はそこで迷う。
問答なんていうものは、もともと何も語ってはいない。
語る身の内の保管場所が大事なのだと思う。そのために苦悩し参究することになる。