思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

不汚染(ふぜんな)というあり方

2013年12月05日 | 仏教

 夏の講演会の延長で信州出身の評論家唐木順三さんの『日本人の心の歴史』(ちくま学芸文庫)をよんでいますが、その中に道元禅師の『正法眼蔵』第九十一巻の「唯仏与仏」に書かれている「不染汚・ふぜんな」に言及しているところがある、唐木さんは原文のままでは解しにくいので現代文にして、わかりやすく紹介しています。その冒頭部分です。

       
 「悟りの面目は『不染汚』といふことにある。不染汚とは、おのれの計らひによる趣向もなく、またみづからの判断や好悪による取捨もしないやうにとしひて工夫して、趣向をしてゐないと、ひとにつくろつたり、またかくしたりするといふ、さういふやうなこととは全く違ふ。初めから趣向などと緑のない、取捨などを離れた不染汚がある。即ちおのづからの、ありのままの、邪気も計らひも全くない不染汚がある。
 たとへば、ある人に会つたとき、その折の、その際の、その人の顔かたちをみて、これこれであつたと覚えこみ、そしてその上で、あの人はいつもかういふ顔かたちだと決めてしまつたりすることがある。また花や月も、状況によつてさまざまに違ふのに、その時みた花や月を、やがて花、月一般に及ぼして、花とはかういふもの、月とはしかじかと、自分の心でみた光色を加へて月の光、花の色を断定してしまふ。また、春はただ春ながらの心、秋の美しいのもまた美しからざるのもまた秋ながらのおのづからのあらはれで、それはそれぞれいたしかたのないものである。春、秋の景色を己れとは関係のないものだと判断するのはむづかしいことではあるが、然し、たとへば自分自身の姿恰好のことを考へてみればわかることである。自分自身にも、逃れようとしても逃れられない何物かがある。さて、この春の声、秋の声が、己れと関係があるのか、それとも無関係なものなのか、よくよく考へてみるべきである。春、秋の表情は己れの心につもりにつもつて固定してしまつた観念でもない。またいま自分の心に抱いてゐるイメージでもない。
 右のことをおしひろめていへば、いまの四大五蕗、地水火風も、色受想行識も、そのおのおのを、我とすべきにもあらず、また誰とたどるべきにあらず、といふことになる。だから、花や月のもよほす心の色もまた我とすべきではない道理であるのに、それを我と思つてしまふ。われにあらぬを、われと思ふも、それは『さもあらばあれ』、詮かたない。だが、顔をそむけるやうな嫌ひな色も捨てようとしても捨てられず、また好んでそれに近寄りたいと思ふ色もまた長くとどまらない。さういふ取捨選択を離れ、自分のすききらひを超えて、花、月を見るのが、不汚染の面目である。」

「唯仏与仏」をこのように現代文入して紹介されていた(『日本人の心の歴史(上)』ちくま学芸文庫・p184~)。

 唐木さんは、不汚染を無頓着としてこの本では語られていますが、最近の身の上に起きた出来事から「先入観」による災いを感じています。

 自己のはからいがありのままを、そのままにしておれば余計な気をもむこともなかったのですが、報告書一つにしても、すっかり常識的な解釈で先読みをしてしまいます。

 見て読んで理解はしているのですが、思い込みで読んでいる。ある出来事があって対処すべき時にその時点で、常識的に報告すべきところに報告している・・・と勝手に思い、報告者が「問題無し、参考話」という措置欄に書いた書き込みだけで無意識で納得しまう。

 その後その内容が報告すべきところにまったく報告されていないことがわかり、非常に私自身の自覚なさを痛感されました。

 何ごとにもありのままに「不汚染」でありたいと実感したわけです。

 丸い石もあるのだ。

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