思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

鋼鉄のような志操堅固者・ギュゲスの指輪

2010年03月26日 | 哲学

     (中央公論社 世界の名著『プラトンⅡ』から)

 連日民主党関係者の行いを見ていると「鋼鉄のような志操堅固者」を思ってしまいます。

 それが正義に向けられているのなら話題にもならないのですが、どうも不道徳の世界で語られているように、思うのですがそうでもないというのが世の流れのようです。

 親方が不正義だと、不道徳な子分が次から次へと出てくるものです。

 今朝は、古代ギリシャの哲人、プラトンの「ギュゲスの指輪」という話をアップしようかと思います。

 自分が透明人間になれたなら「鋼鉄のような志操堅固者」、あくまでも道徳的でいられるか、時には考えてみることも面白いものです。

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<中央公論社 世界の名著 『プラトンⅡ』「国家」から>

第2巻3章から「ギュゲスの指輪」

 「つぎに、<正義>をまもっている人たちは、自分が<不正>をたはらくだけの能力がないため、しぶしぶそうしているのだという点ですが、これは、つぎのような思考実験をしてみれぼ一番よくわかりましょう。

 つまり、<正しい人>、<不正の人>のそれぞれに、何でも望むがままのことができる自由を与えてやる。そのうえで二人のあとをつけて行って、それぞれが欲望によってどこへ導かれてゆくかを観察してみる。

 そうすると、<正しい人>が、欲心(分を犯すこと)に駆られて、まさに<不正>の人の赴くところと同じところへ赴いて行く現場がはっきり見られましょう。すべて自然状態にあるものは、この欲心をこそ<善きもの>として追求するのが本来のあり方なのであって、ただそれが、法の力でむりやりに、<平等>の尊重へとふり向けられているにすぎないわけです。

 わたしが言うような、何でもしたい放題にする自由というのは、むかしリュディアの人ギュゲスの先祖(同名のギュゲス)が授かったと伝えられるような力が、彼ら<正しい人>、<不正の人>にも与えられたと想像してみれぼ、一番よくわかりましょう。
 
 ギュゲスは、羊飼いとして当時のリュディア王に仕えていたが、ある日のこと、大雨が降り、地震が起こって、大地が裂け、羊たちに草を食わせていたあたりにぽっかりと穴があいた。これを見て彼は驚き、穴のなかに入っていった。

 そしてそこに、いろいろと不思議なもを見た、----と物語は、それらのものについて語っていますが、なかでも目についたのは青銅製の馬でして、これは、中が空洞になっていて、小さな窓がついていた。彼は身をかがめてその窓からのぞきこんで見ると、中には、等身大以上の屍体(したい)らしきものがある。それは、何も身に着けていなかったが、ただ指に黄金の指輸をはめていたので、彼はそれを抜きとって、穴の外に出た。
 
 さて、毎月羊たちの様子を王に報告するためにおこなわれる羊飼いたちの恒例の集りがあったときのこと、そこにギュゲスも、例の指輪をはめて出席した。そうして、ほかの羊飼いたちといっしょに坐っていたとき、ふと何気なしに、指輪の玉受けを自分のほうに、手の内側に、回してみた。するとたちまち自分の姿が、かたわらに坐っていた人たちの目に見えなくなってしまい、彼らは、ギュゲスがどこかへ行ってしまったなどと、自分のことを話しあっているではないか!彼はびっくりして、もう一度手さぐりで指輪にさわり、その玉受けを外側に回してみた。すると、彼の姿が見えるようになった。

 このことに気づいた彼は、その指輪にほんとうにそういう力があるのかどうかためしてみたが、結果は同じこと、玉受げを回して、内側に向げると、姿が見えなくたり、外側に向げると、見えるようにたる。これを知ってギュゲスは、さっそく、王のもとへ報告に行く使者の一人に自分が加わるように取り計らい、そこに赴いて、まず王の妃(きさき)と通じたのち、妃と共謀して王を襲い、殺してしまう。こうして、王権をわがものとした……。
 
 ところで、かりにこういう指輪が二つあって、その一つを<正しい人>が、他の一つを<不正の人>が、はめてみたとしましょう。それでもなお、<正義>のうちにとどまって、あくまで他人のものに手をつげずに控えているほど、鋼鉄のように志操堅固な者など、一人もいまいと思われましょう。
 
 市場からだって何でも好きなものを、何おそれることもなく取ってこられるし、家々に入りこんで、誰とでも好ぎな者と交われるし、これと思う者を殺したり、縛めから解き放ったりもでぎるし、その他何ごとにつけても、人間たちのなかで、神さまみたいに振舞えるというのに! こういう行ないにかけては、<正しい人>のすることも、<不正の人>のすることと何ら異なるところがなく、どちらも、まったく同じところへと赴くでしょう。
 
 で、このことこそは、……と人は言うでしょう、何人(なんびと)も自発的に<正しい人>である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、つまり<正義>が当人にとって個人的には<善きもの>ではないと考えられていることの、動かぬ証拠ではないかと。現に誰だって、自分に<不正>をはたらける力があると思えぱ、きっと<不正>をはたらくのだからと。
 
 これはつまり、誰しも、個人的には<不正>のほうが<正義>よりもずっと得になるにのだと、そう考えているからにほかならず、そしてこういう考えは正しいのだと、この説の提唱者は主張します。

 事実、誰にせよ、さきのように何でもしたい倣題にする自由を手中に収めていながら、何ひとつ悪事をなすことも他人のものに手をつけることもしないようた者がいるとしたら、そこに気づいている人たちから彼は、なんと世にも哀れなやつ、大ばかものと思われましょう。もっともそういう人たちは、おたがいの面前では、彼のことを賞讃するでしょうが、これは、自分にも<不正>をはたらかれるのがこわさに、たがいに欺(あざむ)きあっていればこそなのです。
 まあ、この点については、これくらいにしておきます。

<以上p110~p112>

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 透明人間はある種、何でもできる権力者なのかもしれません。権力者の場合は、他人でもわかる中で不正を行う、それができるのはその場の関係者が、不正も正義もまったく関係のない世界にあるからで、仲間内での出来事だからです。

 関係外のものから「それは不正なことだよ」と指摘されても何のことか皆目わからない。

 鋼鉄のような「志操堅固」な者。
 
 逆説的に連日語られる民主党議員の「志操堅固」な姿、凄まじい不道徳の世界なのに!、と、語る私を善人のようにしてしまう。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ヘロドトスはギュゲスが王殺害を強要されたとする (maharao)
2012-04-29 19:18:11
>王の妃(きさき)と通じたのち、妃と共謀して王を襲い、殺してしまう。こうして、王権をわがものとした

この話がヘロドトスにかかると、王が妃の裸を臣下に覗き見させ王妃に敵を取られたという話になります。ギュゲスは王妃の命で自らの命か王の命かいずれかが喪われるよう強いられます。ギュゲスの王に対する忠誠心が優れば違った展開になりました。ここで選択は正義か生命かでした。生命の維持は生き物にとって至上命題であり,命を取ったギュゲスの選択は自然なものですが、逆に命に代えて守る価値のあることを示唆する挿話でもあるでしょう。
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コメントに感謝 (管理人)
2012-05-03 07:49:58
>匿名様
 すっかり忘れていました。歳ですね~。
 最近文芸評論家の小林秀雄先生の講演CDを図書館から借り通勤時間帯に聞いていてそこに神話の話があり共時的なものを感じました。

ということで、当該コメントを使わせていただきました。
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