思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

カントの「もの自体」と禅的な悟り

2010年05月20日 | 仏教

 5月9日付の”プラトンの「第七書簡」のもつ意味”で、カントの「もの自体」以前に、プラトンがこの「第七書簡」内で既に言及している、という他ブログに書かれていたことから、感想抜きにこの書簡の多分該当部分と思われる箇所を掲出しました。

 最近「ハーバード白熱教室」でカントの講義を聞く機会があり、厳格な道徳哲学者カントをより深く勉強をする機会を得たわけですが、カント哲学は、日本の教育家に影響を与えています。

 教育基本法の第一条は、次のように書かれています。

第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 この文面から明らかなように、個人の立場が前提になっています。育成される個人は、国家、社会の形成者として自律的な意志をもった個人でならなければなりません。・・・・・・カント的なのです。

 安倍能成、天野貞祐、田中耕太郎の3者はカント哲学では有名な先生方です。この先生方が、この教育基本法に深くかかわっているのは周知の事実です。

 この教育基本法第一条の理念を深く理解し教育に当ることを強く主張していた教育者に京都大学名誉教授片岡仁志先生がおられました。

 片岡先生も深くカントに影響された方で、また敬虔な仏教徒でもありました。
 
 今朝は、片岡先生がカントの「もの自体」と仏教的な「悟り」との関係についてその著書に書かれているので紹介したいと思います。

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 カント哲学をお読みになると、ディング・アン・ジッヒ、もの自体ということが出てきます。ものそのものは、我々の認識能力では認識できない。我々の普通の認識、科学的認識というものは、皆現象をとおして、現象を媒介にして、そこから判断し、推理し、いろいろ検討して、ものの本質を認識するわけですが、もの自体というものは、我々の感覚に現われない前のものである。

 ものそのものというものは、カントに言わせますと、これは、認識できないものである。それを認識するには、必ず何らか、感覚的現象として現われてこなければ、その現われたものをとおしてでないと、認識できない。ところが我々自身は、我々自己自身というものは、やはり一種のものそのものです。自己というそのもので、これは、普通の人間の持っている認識能力では認識のできないものなんです。ですからカントは、そういう人格性というものを自己そのものと呼び、また、見ることのできない自己と、そういう言葉でも言っています。

 しかもそれは、カントに一言わせると、ただ一箇所、実践理性批判のいちばん最後の結語のところで初めてはっきりと言っていますが、見ることのできない自己、即ち、ペルゼンリヒカイト(人格性)と言っています。こういうふうに、人格というものは見ることのできない自己であって、その見ることのできない自己、感覚やなんぞでは、到底見ることのできない自己、そこに人格というものが考えられると、こういうふうにカントは考えております。そういう畏敬の念を起こす主人公、主体が人格なんです。

 そういうわげで、ものそのものの認識は、我々の普通の認識では認識には入ってこないのです。だから、本当は、直観と言わなげればならないところです。そういう、ものそのもの、自己そのもの、あなた方でも、何のたれがしという人その人自身、こういうものを直観しようとしたって、普通の認識では、直観できないのです。こういう行ないもし、ああいうことをするから、あの人の本心は、こういうものだろうというふうに、判断し推理するより外にないので、その人自身というものを直接見ることはできないわげですね。

 その点において、自分自身もまた、自分自身をそういう普通の認識の仕方では知ることができない。ただ、我々の良心作用という、そして、そういう畏敬の感情というものがあふれ出てくる、そういう感情の湧き出てくる源に、人格性の根源というものを認め、認識できないはずの自己自体、自分自身という自分自身の人格性というようなものが、畏敬の感情を媒介にして考えられ、認識できると、こういうふうにカントは言うのです。ところがです。カントが言うような、ものそのもの、他人なら他人そのもの、私なら私そのもの、普通の認識の仕方で認識できないものが、東洋の、殊に仏教などで言いますと、それが直観できるものになるのです。

 カントの場合は、直観というものを人間は持っていないということをきめてかかっていますが、そのカントがさきほど話したようなことを言っているのですら、カント自身は、直観しているはずなのです。自分自身の人格性というようたものをです。けれどもそういう特別な人格性を直観する能力というものは、神にはあるかも知れないが、人間には認められないというのが、カントの哲学の立場です。ところが、東洋の仏教などでは、その不可思議不可称量、考え得ないもの、知識では絶対届かないもの、これをつかむことができるという。ここは、大変東洋と西洋哲学の違うところです。

 西洋哲学は、どこまでも理論の上から、理論からちょっとでもはずれるならば許されないのですが、東洋の方では、そんなものは考えれば当然つかむことはできないものだが、それを体験的につかむことができる。またそれをつかまねばたらぬという。これを仏性というのです。仏教では、どんな人でもみな仏性を持っている、仏とたる、仏たるの本筋、立派な人間、人格たり得る能力を備えている。これは、人格性を持っているというのと同じ意味です。どんな人でも皆、仏になり得る本性というものがある。それを体験的に直観する。これが東洋の、古代仏教の哲学などの西洋哲学と非常に違うところでもあり、また、ここに東洋哲学と西洋哲学との違いを認めながら、それを融和統合させていく道がある。

 今日、西洋哲学は相当いきづまっていると言われていますが、こういういきづまった理論だけの哲学を越え、理論を越えた世界へ突入する、そういう世界を明らかにする、そういう東洋の哲学の立場というものが、そこにあると思います。有名な歴史家のトインビーという人がいましたが、鈴木大拙さんが禅の道を外国へ紹介されたので、トインビーもそれに大変打たれていたようです。

 彼は、現代の歴史的特色を指摘するとすれば、東洋と西洋とが一つにつながることのできた時代だと、将来の歴史家は指摘するだろうというような意味のことを言っています。私ども、東洋には、そういう、理論の上では届かないけれども、それを乗り越えてつかむ立場、これを普通、哲学の方から言うと、神秘主義と一言います。神秘主義というのは、何か不思議な神秘ではなく、誰もが体験的に直観することのできるものです。

 これをいちばん代表するのが今日の禅の道だと思うのです。禅というのは、自己自身の、本心、本性、それが如何なるものかということを自分が自分に汰りきることによって、その状態、そのものになって直観できるという、これが悟りということなんです。
(『禅と教育』片岡仁志の世界 燈影舎P15~P18から)

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 もの自体(物自体)という言葉の概念から理解し難いのですが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、次のように解説されています。

物自体(ものじたい、[独]Ding an sich)は、ドイツの哲学者、カントがその哲学の中心概念としたもの。英語圏ではギリシア語に由来するnoumenon(nous「精神」の意)を用いる。大陸の観念論とイギリスの経験論の哲学を綜合したといわれるカントがその著書『純粋理性批判』の中で、経験そのものを批判した際、経験の背後にあり、経験を成立させるために必要な条件として要請したものが、物自体である。

「感覚によって経験されたもの以外は、何も知ることはできない」というヒュームの主張を受けて、カントは「経験を生み出す何か」「物自体」は前提されなければならないが、そうした「物自体」は経験することができない、と考えた。物自体は認識できず、存在するにあたって、我々の主観に依存しない。因果律に従うこともない。

カントに拠れば、物自体の世界が存在するといういかなる証拠もない。「物自体」のような知的な秩序があるかどうかわからないが、その後の経験によって正当化されるであろう。

超越論的自由とは「物自体」として要請されたものである。というのも、「行為」の結果は知ることができるが、その行為を起こした「自由意志」は現象界に属するものではない。しかし、因果律によって存在が証明できない、この「自由意志」が要請されることによって、その行為に対する道徳的責任を問うことができる。ゆえに「自由」の存在は正当化されるのである。

カント以後のドイツ哲学者では、ヘーゲルやフィヒテにみられるように「物自体」という概念を斥け自我や主観のみが実在するという独我論に近い立場をとる。ただ、ショーペンハウアーは「物自体」を「意志」と同一視し、その道徳観の基礎としている。意志の優越を説く教説がニーチェやベルグソン、ウィリアム・ジェームズ、デューイらに主張されていることを合わせ考えると、経験によって与えられず認識されもしない「物自体」の世界が自由意志の根拠として20世紀の哲学者に残されたともいえる。

理解できるかどうかは、個人の力量です。私自身もよくわかりません。カント哲学の中ではその意味を、他の物と意味を同じに共有でき言葉とそうでない言葉があります。

 一方の悟りという言葉も全く同じで、仏教用語も互いの同じような概念で共有できる場合もあれば全く違うと思われる場合もあります。

 個人の感覚でしか語り得ないもの、を語ろうとしているときに、それが全く学問上別な領域と重ねられて語られているのをみると、この人はいったいどちらを理解していると言えるのか、と問いたくなりますが、この人はそのように理解しているその事実は動かしがたいことで否定の使用がありません。

 私自身はこのような語り口、対比の表現が好きのほうです。直感の世界はそう思う時があり、学問とはそのように止揚されていくようにも思います。

 上記の片岡先生の理解は、あくまでも私見、わたしはカントの「もの自体」糊化意に興味をもちました。

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