Eテレの100分de名著の放送が毎週月曜日になりました。今月4月の名著は浄土真宗の親鸞聖人の語録『歎異抄』、著者は弟子の唯円という方です。
ブログの中で自分の考えを語る中で、親鸞さんの歎異抄の引用はかなり多くあります。 改めてこの歎異抄を再考する機会を与えられることに縁を感じます。
西田幾多郎先生の『善の研究』の中に、
「一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう」
という言葉があります。西田先生は、「自分は『臨済録』と『歎異抄』さえあれば生きていける」周囲の方に語っていたそうですが、上記の「一たび」のことばは、だからこそ救われるという親鸞の教えにつながるところがあります。
悪人であるがこそ
我の自戒においてかかる苦悩がある。
歎異抄9章
「なごりおしくおもえども 娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土(ど)へはまいりたきこころなきものを ことあわれみたもうなり」
道元禅師の言葉『正法眼蔵』には、
ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれて仏となる たれの人か、こころにとどこほるべき
という言葉があります。
「至心に廻向(えこう)したまえり」が仏の意向。
人は人になるために生まれ、本当の人になるために生かされている。そのために第二の誕生をむかえ永遠の命の人間となる。
4月の『歎異抄』の放送、それも月曜日に・・・。