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第2回100分de名著親鸞聖人の『歎異抄』は「悪人正機説」から始まりました。歎異抄でもっとも有名な言葉で過去ブログで感動の内に書いたことがあります。まもなく62歳になろうとする年齢の中でこの言葉に出会う機会が今回私に起こりました。
仏教を学ぼうという心が個人的にあるわけでブログのカテゴリーの中にも「仏教」を掲げています。善人になろうと学びの心が起こっているわけではなく、なぜ仏教はこの世にあるのかというその意味理解が己の根底から湧いてくるからです。
湧いてくるこの私をさらに問うならば、煩悩の塊の中にもがき苦しむ私があることに気づきます。
仏の心は慈悲のこころ
「ココロ」という言葉を文字にすると漢字やひらがなやカタカナでここに記すことができます。
ひらがなで「こころ」と書くと「心」のイメージが溶かされるように柔らかく響いてきます。今日もこれから職場に向かい精神的に苦しみの中に飛びこみます。時々職場で出会う一人の老人の話を書きますが、どうしても同僚でもあるこの方の存在が精神的な圧迫に襲われます。
あと一か月半ほどで退職する人物ですが、そう考えたところで心は軽くなりません。
こういう人がいなければどんなに楽しいだろうか。
と思ってしまいますが、果たしてそうなのだろうか。
62歳その中で自覚的に生きてきた過程の中でどれほどの楽しみがあっただろうか、と思う。苦楽とは瞬間に生まれ瞬間に失せます。
ときどきに試されるがごとくに壁が現れそんな連続であったように思います。
善し悪しの分別の中にある煩悩の塊
それが私である。こういう悪人はいつまでも「救われたい」がおとずれる。
拝む自分がそこにあり、拝まれる<わたし>がそこにあります。
「ナムアミダブツ」
他力、自力も霧散して生(あ)ることの意味深さに身を任すしかありません。
私の舟はいつまでもそこに穴が開き水が湧き出してきます。水をかき出すことに必死であるが大海に沈む宿命ならば、かき出す努力は無我的になすでありましょうが大海に沈むこそが救いなのかもしれません。
「ナムアミダブツ」
ときどきこの念仏が出てきます。それでいいのでしょう。
今週もよい機会がありました。
いざいざ出陣いざ出陣、新しき草鞋を履き出かけることにしよう。