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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「情動」と「感情」という言葉に思う

2018年10月26日 | 哲学

 「情動」について信原幸弘著『情動の哲学入門~価値・道徳・生きる意味』(勁草書房)を参考にブログにアップしましたが、個人的にこの言葉を使うことのなかったことから類似する言葉として普通に使われる「感情」との相違を考えていました。

 疑問に思う時はネット検索で、案の定YAHOO知恵袋に「情動と感情てどう違うのですか?」という質問が掲載されベストアンサーも出ていました。

●情動(emotion)
・感情のうち、急速にひき起こされ、その過程が一時的で急激なもの。怒り・恐れ・喜び・悲しみといった意識状態と同時に、顔色が変わる、呼吸や脈搏が変化する、などの生理的な変化が伴う。

・情動には、感情に加えて、胸がどきどきする、手に汗を握る、 鳥肌が立つ、涙が流れる、 破顔一笑する、真っ青な顔になる、 肩が凝る、尿意を催す、青筋を立てるなどの、 「身体の変化」を伴っている。

・〈情緒〉とも言う。感情の一種。
 急激に発生しおおむね短時間で消滅すること,またきわめて激しい心身の変化を伴うことによって, 継続的かつ微弱な感情である気分とは区別される。

ということです。

 情動は「一時的」「急激」「身体の変化を伴う」
という点で感情とは違うようです。

<以上>

このような回答で「感情」の内の「一時的」「急激」「身体の変化を伴う」ものが「情動」ということになるようです。

 従って、怒りの感情、恐れの感情、喜び・悲しみの感情が、顔色が変わる、呼吸や脈搏が変化する、などの生理的な変化が伴った時は情動と言う、となります。

 感情の高ぶりが身体の変化を伴うことは確かなことで、あえて情動と解する必要がないように思われるのですが、上記書の中に「有名な情動のジェームズ=ランゲ説」と外国の研究者の名が出ており、その他にも外国の「情動」研究者の名が出てきます。

 結局日本語の中に感情の「一時的」「急激」「身体の変化を伴う」ものを意味内容の範疇として「情動」という一語に収斂されたということになったように思われます。

以下は上記書の最初章「立ち現れる価値的世界」に記載されている文章です。

 魅惑感や渇望感などを情動に含めるためには、情動の範囲をかなり広く理解することが必要である。しかし、快感や苦痛、嫌悪感などを情動に含める場合のように、情動を広く理解することもしばしば行われる。ここでは、情動の範囲を広げて、事物の価値的性質を「感じる」という仕方で捉える心の状態をすべて「情動」と呼ぶことにしたい。このように広く理解すれば、価値性質はすべて情動によって「感じる」という仕方で捉えることになる。

 情動は事物の価値的性質を「感じる」という仕方で捉える。

ということで、次の二つの価値的性質が書かれています。

 怖いという価値的性質(=危険だという性質)
 
 喜ばしいという価値的性質(=大事なものが実現したという性質)


 ここに説明される「危険だという性質」とはイヌとの出会いでイヌに危険を感じる場合、「大事なものが実現したという性質」とはオリンピックでの日本選手の活躍に喜びを覚える時などで、「怖いという価値的性質」「喜ばしいという価値的性質」はそういうことです。

 話は戻りますが「感情」と「情動」を比べれば、強い高ぶりをイメージします。日常使われることのない言葉でも、いつの間にかそのように意味を感じるようになっている、ということでしょうか。

 著書名は『情動の哲学入門』で「感情の哲学」ではありません。信原さんは次のように「情動」「感情」の違いについて語っています。(同書p5)

 本書では基本的に「感情」という言葉ではなく、「情動」という言葉を用いる。「情動」という言葉より「感情」という言葉の方が言葉の方が日常的におそらく親しみがあるだろう。しかし、あえて「情動」という言葉を選んだのは、無数の名もなき情動たちをそこに含めたかったからである。「感情」という言葉を用いれば、「情動」という言葉を用いるよりもさらにいっそう、意識的に心に感じる状況(日常的な名前をもつ顕著で典型的な状態)だけを意味するように思われがちである。そのような危険性をできるだけ回避して、世界の価値的なあり方を身体的に感じ取る心の状態をすべて包摂するために、あえて多少親しみの薄い「情動」という言葉を用いることにした。(同書pはじめにXI))

 そう考えていると「感情移入(かんじょういにゅう)」という言葉が浮かびました。何も考えることなくその意味するところがわかります。

【ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説】
感情移入(empathy; Einfuhlung; objectivation du moi)
 他人の身振りや表情,あるいは芸術作品などの人間の諸表出や自然対象を把握するとき,自己の内的感情を対象の側に移入し,それが対象に帰属するものとして体験する場合の心的活動をいう。この活動が最も純粋で完全な形で行われるのは美的感情移入であり,ドイツの T.リップス,J.フォルケルトらはこの概念を中心にして感情移入美学を樹立した。フォルケルトは,感情移入は移入する対象の違いによって区別され,人間の諸表出に対する感情移入が本来的感情移入であり,非人間的な形態に対する場合が象徴感情移入であるとした。

【デジタル大辞泉の解説】
かんじょう‐いにゅう〔カンジヤウイニフ〕【感情移入】
 自分の感情や精神を他の人や自然、芸術作品などに投射することで、それらと自分との融合を感じる意識作用。

【世界大百科事典 第2版の解説】
かんじょういにゅう【感情移入】
 他人や芸術作品や自然と向かいあうとき,これら対象に自分自身の感情を投射し,しかも,この感情を対象に属するものとして体験する作用をいう。ドイツ語Einfuhlungの訳語であるが,この心理学用語は英語圏ではempathy(共感)と訳されて定着し,独自の展開をみせている。目に見るものを通じてその心に触れるという体験はどのようにして成立するのか。その根拠をT.リップスやフォルケルトは,経験による類推とか連想の作用でなく,いっそう根源的で直接的な作用である感情移入にあるとした。

 この言葉も明治維新後の学問移入ととともに成立してきた言葉のようです。当然古典に出てくることもなく古語辞典にもありません。

 感情移入の意味を理解できるのは何故かを理解できるのか。学習したことが過去にあるからで私の場合いつとも特定できないある日の出来事だったのでしょう。

 古語辞典を見ていると感情移入ではありませんが次の言葉を見つけました。

 「こころづき」【心付き】という言葉で、気持ちが相手とぴったりと付き、離れない状態になることで共感すること、気に入ることを表す。

という言葉です。「移入」ではありませんが、「気持ちが相手とぴったり」というところが感覚的に似ているように思えます。

 「感情」という言葉も古語ではありませんが、古語類語辞典(三省堂)に「心(こころ)・情(じょう)」とありました。

 ふと、こころ模様という言葉が浮かびます。

 思いつき、思索を重ね、知ろうと心は動きます。「情動」と「感情」という似たような言葉を頭の中で転がします。だからといって結論があるわけでもなく、どこまでもどこまでも思考の世界に迷い込みます。


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