思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

ニーチェの超人と末人について

2012年12月29日 | 哲学

[思考] ブログ村キーワード

 さすがに仕事納めの28日でした。忙しさのなかに終始した一日、最後は今年二回目の積雪を体験することになりました。帰宅したころには本格的な降雪になり、家にたどり着けばすでに20センチほどの積雪になっていました。

 仕事での場所移動の車の運転は部下に任せますが、運転手付きの生活をしているわけでもないので帰宅はマイカーになります。永遠回帰する季節のなかで経験することとはいえ、注意深い運転はいつもその新鮮さを失わないものでないと大きな失敗を起します。

 人間はどうしても比較の存在です。己を他人よりも劣った者と見たり、反対に「どうだだ凄いだろう」という驕りの心に揺り動かされる存在です。降雪時の車両の運転は、時間的余裕、スピード、車間距離なキーワードであることは、雪国信州の自動車学校では必ず教えられる、生きる上の智慧ともいえる安全運転の基本的な心構えです。

 したがって降雪道路上の追い越しは絶対にしない、が基本ですが、いつの世も、どこにも、いるのが「驕(おご)りの戯(たわ)けもの」です。直線道路になるや否や追突されるのではないかと恐れていた車間距離から離脱するが如くに一気に追い越して行くのです。

 「呪いの言葉」を書けたくなるのですが、幸いなるかな、不思議にこう言う車は事故を起さないのです。たぶんこの先のカーブで路外へ逸脱するだろうと思っても(期待しても)そういうことが現実に起こったためしがない、目撃した経験はないのです。

 それよりも安全運転に徹し、渋滞道路を前方の車両との車間距離を注意しながら運転している人の方が、二三秒の気のゆるみ、短時間の前方不注視が追突につながることは多々多いのです。世の中不思議です。

 不思議という言葉を書きましたが、大いなる働きのうちにある不思議、必然性もその否定でもある偶然性の不思議であるということです。

 ここにどんな理性心を持って行動しているのかは皆目知れるわけではありませんが、生きるとは不思議と出逢うことでもあります。

 「呪いの言葉」もあれば「賞賛の言葉」もある。「ある」とは持ち得る私がそこにいるということで、現象を解釈する私がそこにいる、ただそれだけ。

 そんな哲学をしながら二回目の大雪の中注意深く、事故なく帰宅しました。

 この程度の文章でブログを閉じればよいのですが、文頭の方で「永遠回帰」という言葉を書きました。わが人生ニーチェと共にあるのでそうなるのです。だからと言ってにニーチェのように生きたいという話ではなく、過去に書きましたがニーチェの発想能力、フランクルの推奨する観点の転回能力が人一倍長けた人だからです。

 <愛もあこがれも創造も知らず、健康に気を配り、労働も慰(なぐさ)みの程度に必要とし、平等で貧しくも富んでもおらず、わずらわしいことはすべて避ける。安楽を唯一の価値とする人間たち。ひょっとするとそういう人間たちが、人類の歴史が生み出す「最後の人間」なのかもしれない。しかしツァラトゥストラ=ニーチェにとって、それはもっとも恐るべき事態です。だからこそ、ニヒリズムから本人に至るコースに変わって、人類の新たな目標としての「超人」を掲げようとするのです。>

 この前半部分の恐るべき事態の主人公が「末人(まつじん)」であることはニーチェ好きな人ならばわかると思います。上記の<>の文章は100分de名著ニーチェの『ツァラトゥストラ』のブックス版p055に書かれた哲学者の西研先生のニーチェ解釈からの「超人」の説明で、また「末人」についてです。

 「超人の反対は末人である。私は末人を前者と同時に創造した。」

という言葉がニーチェの遺稿集にあるようです(『ニヒリズムの論理 ニーチェの哲学』矢島羊吉著 福村出版p180)。

「ちゃんと労働をしなくてはいけない。なぜなら、そうしないとよく眠れないから」

「人に嘘をついては。なぜなら、胸にしこりが残るとよく眠れないから」

「あなたは日に十回は自分を顧みて自分の悪いところをのり越えなくてはいけない。なぜなら、そうしないとよく眠れないから」

西研先生は末人の例を示し、次のように説明されています。

 <これを聞いたツァラトゥストラは「彼はどうみてもアホだ」と断定します。この賢者にとって最終価値は「よく眠ること」であって、生きていくなかで何かを創造しようとする意志をまったくもっていないからです。これもまた末人の姿です>(上記ブックス版p056から>

 「創造しようとする意志をまったくもっていないから」

こういう言葉に私の場合は直ぐフランクルの創造価値が浮かんできます。

 人生必然もあれば偶然もある、またそんなものも無いとニヒリズムに徹しいわゆる日本的ニヒリズム「人生というものは不安や絶望に満ちた意味のないものである」という考えもあるでしょう。そして人生とは無常である。人生とは無情である。

 ニーチェの言う「超人」とは弱いであろうか。

 精神的無意識からの呼びかけに、呼応する創造価値豊かな存在に見えます。

 最後に次のニーチェの言葉を紹介します。

『権力への意志』(ニーチェ全集13下p27 ちくま学芸文庫)から

四八一(903)
 現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろらう。

「すべてのものは主観的である」と君たちは言う。しかしこのことがすでに解釈なのである。「主観」は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。---解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか? すでにこのことが、仮構であり、仮説である。

 総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義。」

以上。

※100分de名著ニーチェの『ツァラトゥストラ』ブックス版を参照しましたが、定価1000円、テキスト共に座右の書にお薦めです。

   人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。