4月4日から始まった「ハーバード白熱教室」も今日が最終回。
第12回 「善き生を追求する」
Lecture 23 同性結婚を議論する
Lecture 24 正義へのアプローチ
コミュニタリアニズムには、二つの考え方があります。
① 特定のコミュニティーおける考え方や価値観を正義としてみるもの。
② 特定のコミュニティーを超えた「善」を考えることが正義にとって重要である。
サンデル教授は、②の考え方に立ち、これまでの講義を続けてきました。
今日の社会は、権利や自由を中心とするリバタリアニズム的なものの考え方が中心になっています。市場の問題、戦争の問題を扱う場合に、生命の問題や「善」の問題を見失いがちです。
つまり相互間の道徳観や宗教的の違いからの争いは、よき生のために善(よい)はずはなく、サンデル教授は、「共通善」という等しく共有できる、共感思想を構築する考え方を持っておられます。
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今回は「同性婚」という問題を提起し、裁判における裁判官の意見等を参考に、正義における善の必要性を語っています。
今夜は、最も私が感銘を受けた、最後の講義部分を掲出し対と思います。
サンデル教授がどんな思いを学生に伝え、哲学することの意味も含まれています。
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サンデル教授
・・・・・・・・・・・・・同姓結婚への賛成でも反対でもない根底にある宗教的、道徳的な問題に中立な立場をとりながら同姓結婚を支持、あるいは否定できるという主張には反対だということだ。
このことは次のことを示している。私達の社会で、正義と権利をめぐって激しく争われている議論の幾つかにおいては、ただの同意と選択と自律の問題だから、われわれはどの立場もとらない、と言って中立であろうとしてもうまくいかないのだ。
道徳的、宗教的な論争では、中立でありたい裁判所でさえもそうはできないことが解かった。
では善の論じ方の問題は、どうだろうか。
正義と権利の議論において、善について論じることは、避けられないのなら、善を論じる方法はあるのだろうか。
善について論じることが、道徳性に関して意見の相違があるたびに照らし合わせる、よき生についての唯一の原理、あるいは規則を見つけなければならないことを意味するのだとしたら答えはNoだ。
ただ一つの原理、規則を持つことは、よき生や正義について論じる、唯一の方法でも最善の方法でもない。正義や権利について、そしてよき生について、私たちが、ここで議論してきたことを、思い出してみよう。
議論はどのように進んだろうか。それはアリストテレスが指摘した通りのやり方で進んできた。
つまり個々の事例、出来事、問題についての私達の判断は、行ったり来たりしていた。個々の事例や問題についての判断と、そこでそのような立場に立った理由を説明する、より一般的な原理の間で、行ったり来たりしていたのだ。
このような道徳的論法の弁証法的なやり方は、古代ギリシャの哲学者、プラトンやアリストテレスにまでさかのぼる。しかしそれは、彼らで終わることはなかった。
ジョン・ロールズが「正義論」を正当化する手法を説明をした際、彼は素晴らしい明晰さと説得力をもって、ソクラテス的、弁証法的な道徳的論法を擁護したからだ。
ロールズの論じたのは、無知のベールとその背後で選ばれる原理だけではない。彼は、反照的均衡という正義についての道徳的論法についても論じているのだ。
反照的均衡とは何だろうか、それは、
個々の事例について私たちが下した判断とそれらの判断の根拠となる一般的な原理との間を行ったり来たりすること
だ。だが私達の直観は間違っているかも知れないから、そこに止まるのではなく、その作業をした後に、個々の判断を原理に照らし合わせて見直すこともある。
原理を見直すこともあれば、個々の事例の判断と直観を見直すこともある。
ロールズによれば、その一般的な趣旨はこうだ。
正義の概念は、自明の前提からは、導き出され得ない。それは、多くの考慮事項が相互に支え合い、すべてが一つの首尾一貫した見方に整合することで、正当化される。(ジョン・ロールズ)
後に彼は『正義論』でこう書いている。
道徳哲学はソクラテス的である。私たちは、自分たちのさしあたりの判断も、一度それらを規制する原理が明るみに出れば、変えたくなるかもしれない。(ジョン・ロールズ『正義論』より)
ロールズがこのように考え、反照的均衡の考え方を進めるのなら、私たちに残された問題は、彼がそれを道徳性とよき生の問題ではなく、正義の問題に当てはめていること、そしてそれゆえ彼が、善よりも権利が優先するという考え方をとり続けているということだ。
ロールズは、反照的均衡の手法は、正義と権利については共有される判断を生み出すことができる、と考えている。それがよき生と包括的な道徳的、宗教的問題についてまで共有される判断を生み出すとは考えていない。
なぜなら彼は、現代社会には、善に対する考え方が多元的に存在すると考えるからだ。
論理的に考える良心的な人たちでさえ、よき生の問題、道徳性や宗教の問題について互いに意見が合わないことに気づくだろう。その点においてロールズは正しいと思われる。
彼は、多元的社会には、意見の相違があるという事実を語っているだけではない。よき生と道徳的、宗教的、問題の間には絶えず相異があることも示唆している。
しかしそれが真実だとすると、正義については同じことが言えないというさらなる主張は正しいといえるのだろうか。
私たちは実際のところ多元的社会において、正義についても合意しないのではないか。
そして少なくともそれらの意見の相異の幾つかは、道理に適った当然の不一致なのではないか。リバタリアンの正義論を指示する人もいれば、もっと平等主義的な正義論を好む人もいる。
自由放任主義的なリバタリアンの正義論からより平等主義なものまで、私達の社会には多元的な考え方がある。、
私たちが、正義や言論の自由の意味、宗教的自由の性質について、議論しているときに生じる。道徳的論法や意見の相違の間に何か原理上の違いはあるのだろうか。
最高裁判所の判の指名をめぐる議論について考えてみよう。正義と権利についての意見の相異ばかりだ。
道理に適った考え方が多元的に存在するという事実に、正義と権利の場合と道徳性と宗教の場合とでは、違いがあるだろうか。原理上、違いがあるとは思えない。
どちらの場合も、もし意見が合わなければ、われわれはこの講義を通じてやってきたように対話の相手と意見を交えることになる。そして個々の事例から生じた議論を検討し、自分たちを一つの方向に導いてくれる理由を発展させようとする。
他者の理由を聞き、時には自分の見解を見直すように説得される。
自分の見解を補強し強化するように挑まれることももある。
しかし、正義に関する道徳的な議論は、こうして進むのであり私には、よき生についての問題も同様であるようにも思われる。
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さて、さらなる懸念。リベラルな懸念が残っている。
私たちが、道徳性と宗教について意見が異なるのであれば、正義についても意見が異なるのは当然だと考えるようになったらどうだろうか。
どうしたら意見の合わない同胞市民を尊重することを認める社会にた、どり着くことができるだろうか。
それは、私たちがどのような尊重の観念を受け入れるかによると思う。リベラルな観念では、同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらを政治的目的のためにあえて無視することである。
そういった道徳的、宗教的な信念を脇においたまま、それらには触れずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。
しかしそれは民主的な生活に欠かせない相互尊重を議論に欠かせない唯一の方法でもなければ、おそらく最も妥当なやり方でもない。
私たちが、同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法は他にもある。それを無視するのではなく、それらに係わり、関心を向け、時には挑み、競い、時には耳を傾け、学ぶことだ。
道徳的、宗教的に配慮し、関与する政治が、いかなる場合にも合意につながるという保証はない。
それが他者の道徳的、宗教的信念を深く理解することにつながるという保証もない。
宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局さらに好きでなくなることも常にありえる。
しかし私には、他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切で相応しい理念のように思える。
私達の道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会のさまざまな善をより深く理解できるようになると思える。
講義の最初にこの場所に集まった時、私は政治哲学を称賛するとともにその危険性について話した。
つまり政治哲学がいかに私たちを慣れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにするか、という話だ。
私は、一度慣れ親しんだものが見慣れないものに変わると、それは二度と同じものになることはないと君たちに警告しようとした。
君たちが多少は、この不安を経験してくれていればいいと思う。なぜならこの不安は、批判的な考え方や政治的な介入、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。
私たちの議論は、ある意味では終わりに辿り着いたが、別の意味では続いている。私たちは、当初、なぜ永遠に解決できない質問を提起しながらも、これらの議論は続いていくのかと尋ねた。
その理由は、私たちは日々これらの質問に対する答えを生きているからだ。
私達の公共的な生活、私的な生活の中で、ときには答えなどないと思えても、
哲学は、避けることができないものだ。
私たちはカントの思想から始めた。
懐疑主義は人間の理性の休息所であり、そこは独善的なさ迷いを熟慮できるところだ。しかし永久に止まる場所ではない。
単に懐疑主義や自己満足に従っても、理性の不安を克服することは、決してできない。
カントはそう書いた。
この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかを見ることだった。われわれが少なくともそれを実行し、その不安がこの先何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、われわれは共に大きなことを成し遂げたということだ。
ありがとう。
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サンデル教授は最後に、カントの言葉を引用しています。実に戒め的に心に響きます。ハーバード白熱教室も昨日であった信大OBのように懐疑的に感じている人もいますが、私自身も「共通善」的な考え方を探求していたので非常に勉強になりました。
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テキストに起こしてくれて。
参考にさせてください。
コメントありがとうございます。
英語が得意ではありませんので、日本語だけが頼りです。
哲学が専門ではないため用語を理解し、頭の中で理解をしていくことは大変です。
参考書がきてからは、関係する箇所の用語表記に誤りの内容にしました。
なぜ、要約せずこのよう起こすかというと、自分でゆっくり理解していくためです。
若いときに集会や会議録を作成することをかなりこなしてきましたのでさほど、苦もないのですが時間がなく、音声翻訳機もないので全てを起こすことはできませんでした。
今回は「善き生」という言葉が出てきたり「善」という言葉が出てきます。時どき「よき生」とも表記していますが、直さずそのままにしてあります。
また、今回は出てきませんが、「意思・意志」という言葉があります。この言葉は今回の番組内で時どきでてきますが、回によってどちらかを使用しています。
カントのいろいろの書籍を読むと訳者によって区々です。
しかしあくまでも個人的に勉強ですから、その用語の違いも勉強のうちです。
「思考=言語」これは訳語によって、また個々の力量と、感性が大きく影響してきます。
したがって等式であるのか否かは、論議するまでもなく直観の世界だと私は思っています。
今後もよろしくお願いします。
ほんとに素晴らしい、と同時にありがとうございます。
お褒めのお言葉ありがとうございます。
時間があれば、完璧にすべてを起こしたかったのですが、歳のせいか果たせませんでした。