思考の部屋

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静かなる細い声

2014年12月24日 | 哲学

 師走の選挙がおわり、ペシミスティックな言葉が多く聞かれる。このままだと「あぶない」という叫びが巷を覆うが、鶴見俊輔氏が語るような「転向」が人々におとずれ過去に起きた国家存亡の危機を再度体験することになるのだろうか。

 だからといって「あぶない」コールの人々が政権を奪取したならば、消費税は撤廃され、生活が楽になり、安全で安心な生活が保障される世の中が実現するのか、というと大いなる懐疑があるところで、選挙結果の物語るのはそこなのかも知れない。これはまた既に「転向」を意味しているのかも知れない。

 3年ほど前に「ニヒリズム(虚無主義)が蔓延している」と時代を語った人がいたが、改善されることなくさらにその深度は深まるばかりに思える。

 一昨日のニュースに、「全国の警察が今年1~11月に把握した特殊詐欺の被害総額は約498億7343万円で 、過去最悪だった昨年1年間の約489億円を上回ったことが22日、警察庁のまとめで 分かった。」という記事を見る。

 騙しの手練を駆使して悪者はどこまでも走り続ける。人ならば懺悔道に身を置くべき時の声を聞く機会が生ずるであろうが、・・・人にあらずである。

 超高齢化時代に入り、これからは退職年齢も延長になり、いつまでも労働という言葉に付きまとわれる時代になる。世の流れの先が読めないというよりも、自分の将来を描きだせない、そんな現実がある。私だけではないだろうが、「ニヒリズム(虚無主義)が蔓延している」はさらなる悪化をともない継続しているようだ。

 このような世の中の動きの方がよほど「あぶない」わけで、根源的なメタモルフォーゼをしない限りみごとな「転向」に陥ることになるだろう。

 どうすればよいのか。人それぞれに将来に向けての目的意識や努力をしない限り将来は無いと考えた方がよいだろう。歴史は常にくり返すで、そのたびごとに世の中は荒れる。

そして歴史のうちに大きな空虚が現われ、現実に現われている。

 人間の存在そのものに目標を与え、いかに生きるべきかという方向を示すもの、存在するということの意味がどこにあるかを教えるようなもの、すなわち一言でいって人間存在の根柢にかかわる形而上的なものであるならば、そういう拠り所の喪失は、歴史の底に、そしてまた歴史に生きる人間の底に、虚無の深淵を開いてくる。そしてそういう虚無のうちにおいて、存在というものがそれ自身問題化してくる。それまでは人間存在は、確かな永遠的な意味をもつもの、生きるべき道をもつものであった。そしてその道に従うか或いは免れるかは、ただ彼自身の意志だけにかかわる問題であった。しかるに今や存在は、そういう意味を剥奪される。いわば裸にされた存在として、虚無の前に置かれ、それ自身にとって一つの疑問符となる。人間の存在がその人間自身にとって一つの問いと化するのである。しかもその際、世界そのものも同時に一つの問に化する。歴史のうちに底のない溝が開かれ、我々の生きている「世界」の深淵が、その溝から覗いて来る。自己自身の底から世界と自己とが一つに問いとなるのである。その場合かかる問いは、歴史的と同時に形而上学的な問いである。それは現実の歴史的境位の底から、また歴史的世界の底から起ると同時に、その世界にある人間の存在そのものの底から起る。そしてその問いは、現実の歴史の根柢へと同時に、人間存在そのものの根柢へ向けられた問いである。つまり現実の歴史とそのうちに生きる人間とが、一つなる問いのうちで同時にその根拠を問われるのである。(西谷啓治『ニヒリズム』創文堂・p9-p10から)

これは昭和の大戦後の世の現れからの啓示であるが、先の「ニヒリズム(虚無主義)が蔓延している」という言葉に、古さを感じない。より一層その意味の自覚を問われているように思える。

 Eテレの心の時代で、内村鑑三の「道をひらく」が放送されているが、前回の「静かなる細い声」はある意味啓示でもるように思える。

 内村鑑三の『代表的日本人』に書かれている西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、二宮尊徳、日蓮らの聞いた「声」が紹介されていた。

 時代にどのような言葉を聞いたのか。

 敬天の声を聞いた西郷隆盛

 天意を聞いた上杉鷹山

 農民聖者の二宮尊徳は天からの誠意の声を聞いた。

 中江藤樹は天の法、日蓮は法を聞いた。

そこには普遍的な理や超越性の求め、さらに人格性が語られる。

普遍的超越的そして人格性

という言葉をどのように理解し身に修めて行くべきか。

西谷啓治先生の「根源的主体性の哲学」は大いなる学びの学のように思える。


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2 コメント

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ありがとうございます (管理人)
2014-12-26 05:05:35
>八咫鴉様
 文才無き我がブログを読んでいただきありがとうございます。今月は例年にない忙しさで書きたい意欲は大いにあるのですが、深みのないないようで終始しています。

 私もニーチェが好きで、訳本や解説書などを読み理解を重ねつつあります。さて西谷先生の引用文とニーチェの思想の重なりですが、『ニヒリズム』も『根源的主体性の哲学』もニーチェの名が織り込まれて語られています。

 後者の『根源的主体性の哲学』は、西谷啓治著作集第一巻『根源的主体性の哲学・正』(創文社)を読むことになるのですが、その著の「第一部 宗教と文化」は、「ニイチェのツァラツストラとマイスター・エックハルト」です。

 さらにその文頭は「一 ニイチェに於ける生の根源性」で「ツァラツストラが昧爽の山上で登り来る太陽に語りかけた後、・・・・」という文章から始まります。

「昧爽」(まいそう)という言葉、初め読めなくて意味するところが曙色(あけぼのいろ)、東雲色(しののめいろ)で感動しました。

 言葉の始まりが、思想の始まりが、まるで夜明け前の厳かな時の流れを感じます。

 西谷先生の引用文章は、『根源的主体性の哲学』の曙色であって、句読点でセンテンスごとに分解し、それぞれの自分なりに解釈してゆくと実に実存がよく見えてきます。

 個人的に実存的虚無感、実存的真空に陥っているわけでもありませんが、哲学の根底、宗教の根柢、生の根柢等が私に何かを語ってくれるように思います。

 何を求めているのか、何を語ろうとしているのか。

 どちらにしろ「根源的主体性」という問いはニーチェに重なります。

 政治問題、実に個人的に今避けています。あと4ヶ月ほどしたら自由に語りたいと思います。

 「八咫鴉」さんの「罪深き鴉のブログ(改訂版)~ニーチェに魅せられし阿呆の葛藤~」ブログ、しっかりPC、スマートホン、タブレットに登録しました。今後もよろしくお願いします。
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ニヒリズムについては・・・・ (八咫鴉)
2014-12-25 06:52:24
しばらくぶりですm(_)m。

現代は閉塞感・虚無に汚染されているとはよく耳にします。
最近「この問題をなんとかしたい」と思うインテリ層が、ニーチェの解説書を出しているケースが多いです。
ここ数年では「超訳・ニーチェの言葉」が爆発的に売れました(個人的に、あの本はニーチェをわかった気にさせてしまう危険をはらんでいる気がします)。
上記は「現代が閉塞感に悩まされている・虚無的である」ひとつの証拠でありましょう。

わたしは個人的にニーチェを勉強中で、作家を目指しています。
わたしにとって唯一、生きることの素晴らしさ・真剣に生と対峙することを教えてくれた哲人です。
やるからにはもちろん面白い本を書きたい。
ただ、今という時代を「転換」させるための本も書きたいと思っています。
哲学だけでも勉強しなければならぬことが多いので正直キツイところです。

管理人さんが青字で強調した部分とよく似た示唆は、ニーチェ「道徳の系譜」の最後(28節)にもありました。
ニヒリズムという言葉を19世紀に強調したのはニーチェです。
現代がニヒリズムに汚染されているというのならば、それは「現代はニーチェを未だ克服できないままである」ことも意味するのではないでしょうか。

今回の選挙は「行かない」ひとがとても多かった。
しかし、行く人でも「なぜ、なんのために、どうしてこの人に」投票するのかを厳密に決めている人は少ないです。
根拠なく、なんとなく行動することも「ニヒリズムに侵されている」ことになると思います。

虚無主義者は、自分の行動や社会の将来に対し責任を放棄している傾向が見られます。
今時の20代以下がよく発言する「とりあえず今さえよければいい」という台詞はその証拠でしょう。
若者だけじゃなく、近頃は年配者にも同じ傾向があるとも・・・・・・・。
個人的に気持ち悪さを感じ得ません。

わたしは一応今回の選挙に対し「自分なりの根拠をもって」真摯に投票しました。
1票を入れる行為をする時点でわたしも「政治家」です(ヴェーバーの定義によると「臨時」」政治家になる)。
票を入れたことで政治への責任倫理を意識しなければなりません。
普段から政治に対し不平不満を言う人は多いです。
しかし、かれらは選挙に対し「真剣に」臨んだのか?
ものすごく懐疑してしまいます。

われわれ大衆が末人の塊だからこそ、政治に活気がなくなっているのではないか?
われわれ一人一人がもっと気合入れて生きなければならないと思うのです。
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