思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

国家に統合されない人間

2008年12月22日 | 哲学

 きのうが冬至で今日から徐々に日が長くなっていきます。残念なことに今日は朝から雨です。写真は3日前の写真です。通勤時間帯の午前6時55分の風景で、前方右側に見える山並みが八ヶ岳、左側が高ボッチの山並みです。高ボッチは、塩尻市の北東に位置し、秋には山頂で草競馬が開催されます。無線中継の鉄塔などがあり山頂は高原になっています。
 「ボッチ」という名がついているのですが、アイヌ語から来ているともいわれています。

 きのうは、18年ほど前の映画「月光の夏」をビデオで観ました。知覧基地から飛び立った特攻隊員と小学校のグランドピアノの話です。

 「近代社会の内部には、つねにナショナリズムが台頭してくる基盤がある。」「たえずその芽が発生しながらも何とかくいとめられた要因のひとつは、戦後社会に定着した戦争への反省であった。」「連載を開始した頃。私はその足音が近づいてきているように感じていた。世界はこれから混乱の時代に向かっていくだろう。その混乱が国家対立を顕在化させていくかもしれない。」「それぞれの国で『自国社会の防衛』が急務になれば、自己中心主義の雰囲気は高まる。」「国民国家、個人の社会、資本主義が相互的に結び合いながら生まれた近代的な政治・社会・経済システムそのものを批判的に考察しないかぎり、歴史はこれからも悲劇をくり返すことになる。私たちがみつけださなければいけないのは、ナショナリズムを生みださない社会観、人間観であり、国家に統合されない人間の生き方である。」

という言葉が、哲学者内山節さんの連載中の新聞信濃毎日のコラム「風土と哲学」20日(土)「国家に統合せれぬために」の中にありました。

  つづいて「国家に統合されない人間の生き方である。」という問題意識をもつとき、新しい思想の創造のヒントが視野に入ってくるといっています。それは何か、「日本の伝統的な民衆思想のかたちが視野に入ってくる。それは自然とともに生きた人々の思想であり、地域の自治とともに生きた人々の思想」とさらにもうひとつ伝統思想、それは「国家を形成しながら生きた支配者たちの伝統思想」であるということです。


 さらに「国家を形成しながら生きた支配者たちの伝統思想」においては、「たえず日本が意識され、国家の手で社会を統合していこうとする意志が働いていた。」といいます。
 要するに日本の伝統思想は、「それぞれの地域風土とともに暮らした民衆の無事を願う思想」「国を基盤にして発想をたてる思想」とが並列する形で展開してきたというのである。そしてこのような並列状態を解消し国家に統合しようとしたのが日本の近代化で、明治以降の歴史であるということです。

 学徒動員で音楽大学の学生2名が特攻隊員となった。出撃前にピアノ専攻の1名がピアノをこの世の最後に弾きたいということで、グランドピアノがあるという小学校を訪れベートーベンの「月光」を力いっぱい弾く。傍らに立つ若き小学校女教諭。戦後60年ほど経ってこのピアノも古くなり廃棄処分なることが決まり、それを聞いた老女(その時の女教諭)、ピアノの思い出を話す。
 そこからこの「月光の夏」の物語が始まります。

 長野県の上田市塩田地籍には「無言館」があり、そこには芸術を目指していた学徒兵の絵画が展示されています。
 当時をナショナリズム(民族主義)の日本であったと定義するならば、その犠牲者の物語であり、絵画です。

 現代日本にはたして現実的な国家レベルでの危機感を実感するものがいるだろうか、あくまでも個々の経済的危機であり、個々の危機実感であるような気がします。
 組合加入率の低下の現況の中、組合活動を強固に展開しようとしても現実は厳しい。
 外国人派遣労働者や派遣労働の身を置くことを決断した日本人、企業の経済的危機からの首切り犠牲者の正社員。これらの人々を救う術は何処にあるのでしょうか。
 「国家に統合される危機感」が形而上化され、絶対的真理とされることの方が怖い気がします。

 極端な話ですが、「私たち以外は皆戦争が好きだ。」という集団が存在したとするした場合、「私たち」と「皆」の相対的な関係差別は、強烈な画一された統合集団の存在を前提とした論理でありこれほど怖いものはないと思います。

 哲学は、老荘思想が「無為自然」を語るも「その体得にはどうすべきか」を語らずに似ている。
 涙する哲学はないのでしょうか。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。