思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

古代ギリシア人の自然観と「やまと言葉」

2008年12月27日 | ことば
 今日は、午前中に塩尻市と岡谷市の境にある塩嶺峠に行ってみました。眼下に諏訪湖が広がり左に八ヶ岳連峰、中央やや右に富士山が見えました。自然の雄大さを感じました。

 最近、哲学者の木田元先生の「新人生論ノート 集英社新書」を読んでみました。この本の「あとがき」を読んだところ精神科医小西聖子さんが「哲学者木田元」を精神分析し、その診断結果が書かれていました。

 その診断結果は、「日本人にはめずらしいほど自己中心的な人----利己的というのではなく、自分の内的な関心や嗜好にしか影響されない人----だ。」というものです。

 これを見て、木田先生についての精神分析を話題にしようとするものではないのですが、私にもそんなところがあるなあ思ったわけです。

 壮年期を通り過ぎようとしている自分自身、このようなブログを書いている自分。日常生活の内仕事を除けば、実に「内的な関心や嗜好」を中心に毎日を送っている、そんな気がします。今年も暮れようとしているのにのんびりと自分の世界に入っています。

 私の「内的な関心」事のひとつに、「やまと言葉の世界観」があります。古代人がどのように現前の事象をどのようにとらえていたか。こんなことを個人的に究明したくなるのです。

 究明というよりも、先人が考察してこられて文章に書かれたことを、自分のなりに「気持ちの落ち着くところにまとめている」ところです。

 木田先生の「新人生論ノート」の「自然について」の章に、西洋の「自然」という概念の初期の段階が書かれていました。それは次のとおりです。

 たとえば古代ギリシャの早い時代に、通常<ソクラテス以前の思想家たち>と呼ばれる人たちがいた。アナクシマンドロスとかヘラクレイトスとかパルメニデスといった人たちがそうである。この人たちについて、彼らは一様に『自然(フュシス)について』という同じ表題で本を書いたという言い伝えがある。むろんその本は残っておらず、そのなかの断片的な言葉がいくつか伝えられているだけなのだが。

 その表題で言われている<自然>でなにが考えられていたのかが問題なのである。永いあいだこれは存在者の特定領域としての<自然>を指していると考えられていた。したがって、ギリシャ初期のこの思想家たちは、人間の問題は無視して、幼稚な自然科学的研究をおこなっていたのだと見られてきた。

 だが、よく調べてみると、彼の言う<自然>はもっと古い意味で、万物(タ・パンタ)、つまりありとしてあらゆるものの真のあり方を指しているらしいということが分かってきた。つまり、彼らは人間や人間社会や神々をさえもふくめたすべてのものを<自然>と呼び、その真のあり方を問おうとしていたらしいのだ。

 しかも、この<自然>という言葉から、彼らが真のあり方をどんなふうに見ていたかもすいそくできるのである。というのも、この<自然>という名詞は<フェエスタイ>という動詞から派生したものであり、<フュエスタイ>は<生える><なる><生成する>といった、いわば植物的生成を表す動詞だからである。思想家たちにかぎらず、一般に早い時代のギリシア人は、万物はそれぞれが生命のような運動の原理を内臓していて、それによっておのずから生成し消滅するものだと見ていたらしい。<自然>はその運動(生成消滅)の原理を指すとともに、その原理によって生成し消滅するもののすべてをも意味していたことになる。

 ところがこれときわめてよく似た考え方が古代の日本人のもとにも認められるのである。『古事記』の冒頭部に<高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・神皇産霊神(かみむすひのかみ)>という神名が出てくるが、そこにふくまれている<ムスヒ>(漢字が当て字だから無視してよい)という言葉がギリシャ語の<フェシス>とほとんど同義なのだ。<ムスヒ>の<ムス>は<苔ムス・草ムス>の<ムス>、つあり植物的生成を表す動詞であり<ヒ>は原理を意味する。『古事記』の同じ箇所で、その植物的生成がもっとも具体的に「葦の如く萌え騰がる物に因りて成る」と言われている。葦の芽のようなものの成長を支配している原理が<ムスヒ>であり、それは植物だけでなく、人間や人間社会や神々をも含めたすべての存在者の生成の原理でもあるというのだ。

 万物を生きて生成する自然と見るこうした見方は、農耕民族のアニミスティックなものの見方の洗練されたものなのであろうが、それが古代のギリシャ人や古代の日本人のもとに典型的なかたちで現われたということであろう。しかし、自分たちをとりかこむものを、こんなふうにそれ自体生きて生成し、自分たちを包み育むもの、つまり<自然>としてみるということは、ギリシアや日本のようなかなり穏やかな気候風土に恵まれたところでしか起こりえなかったことだと思う。たとえば北方アジアの酷寒の地や苛烈な砂漠のただなかで生きる人びとのもとでは、こんな感じ方も、こんな言葉も生まれなかったであろう。
 
と書かれていました。木田先生は1928生まれの哲学者です。

 木田先生の言われるソクラテス以前のギリシャ人の自然という言葉の発想と、「やまと言葉」の<ムスヒ>から導き出される生成の原理

 自然という言葉がなかった古代日本の「やまと言葉」の「もの」という言葉が動詞的に森羅万象を表しているという万葉学者の中西進先生「1929年生まれ」の話に通じるところがあり、また、<ムスヒ>という「やまと言葉」は、以前ブログに書いた「『イカの哲学』と『結ぶ』という『やまと言葉』」で述べた「言語学者、文献学者の新村出京都大学教授・名誉教授の「うぶすな考」という論文」に通じるところがあると思いました。

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