Sightsong

自縄自縛日記

北井一夫『ドイツ表現派1920年代の旅』

2008-07-12 23:11:57 | 写真

勝手に敬愛している写真家、北井一夫さんの写真展『ドイツ表現派1920年代の旅』(ギャラリー冬青)に足を運んだ。トークショーをやるというので、それにあわせたのだ。相変わらず、大写真家なのにまったく偉ぶらない北井さんがいた。

この写真群は、『アサヒカメラ』において、1979年に連載されたものの、読者からの不評により中断、その後ほぼ封印されていたものだ。三里塚や農村の人々を撮っていた北井一夫がなぜ建築を、というギャップが主な理由だった、と今では分析されている。北井さん自身も、これは中途半端な建築写真なのかスナップなのか、などと問われて答えることができなかったという。

いまの目で見ると、どれも紛うことなき北井一夫の写真だ。合計4ヶ月の旅の間使っていたのはライカM4とM5、レンズは50mmと35mmのズミルックス、ただしほとんどはM5と35mmの組み合わせだったそうだ(本人に訊くと、「面倒くさいから」ということだが)。あまり人物を撮っているわけではないので、開放付近よりは絞っているはずで、そのためかズミルックス独特の靄がかかったような雰囲気はない。そういえば、一昨年『フナバシストーリー』の写真展のとき、持参したM3を見せたらそれで私を撮ってくれたり、北井さんのM5をいきなり手渡して触らせてくれたりしたことを思い出した。その、「偉大なM5」がどんな感触だったか、舞い上がったのでぜんぜん覚えていない。

「ドイツ表現派の建築」という概念は曖昧で、必ずしもそれとわかる様式があるわけではないという。しかし、2つの世界大戦の間にあって、またナチス支配前夜にあって、花開いていた「わけのわからない個性」のある建築はとても魅力的である。

この撮影には、すべて、当時ウィーン在住だった田中長徳さんが案内役と通訳を兼ねて同行していたそうで、聴客のはずがトークショーにも急遽引っぱり込まれていた。楽しかったがひどい貧乏旅行だったこと(北井さんは毛布のようなコートに軍手といういでたちで、わんさといる娼婦が一度も声をかけなかったとか、一度などダブルベッドに2人で寝たとか)、東欧の凄まじい監視体制、北井さんのアナーキーな撮影のエネルギー(監視されているかもしれないのにアポなしで団地の他人の部屋を訪れ、撮影させてもらったとか、ここは東ドイツだぞ怖くないのか、と言われて平然としていた、とか)、最初はすべて夜の光景にしようとしたが寒くて断念したこと、など、面白すぎる話がぽんぽん出てくる。

同時に発売された写真集を買った。印刷は相当に贅沢をしたということで、オリジナルプリントと比べるものではないが、確かに素晴らしい。デジタルとはまったく異なる情報量が豊富であり、凝視を続けたくなるものなのだ。

米国では、大学紛争を撮った『抵抗』の写真集出版が進んでいるようだ。理由はというと、『Provoke』以前にブレ・ボケ・アレを前面に出していることを評価している、ということだ。ここにきて、北井一夫の再評価の機運か、と思わせるものがある。

せっかくなので、1978年に浦安町(当時)の依頼で撮られ、全戸に無料配布された『境川の人々』に署名をいただいた。田中長徳さんが寄ってきて、表紙の黄ばみ具合が良いですねなどと笑っていた。私の近所とはいえ、配布当時には住んでいなかった。浦安のうどん屋さんなど、持っている人に譲ってくれと頼んだが願い叶わず、結局古本市場で入手したものだ。

この写真群も、35mmズミルックスを使って撮られている。小さく完結しない空間の切り取り、光の滲みと共鳴する優しさのようなものがあって、また見覚えのある風景だということもあって、もっとも愛着のある写真集だ。次はこれを、現在の印刷技術で再版してほしいとおもう。

ところで、『抵抗』と『ドイツ表現派』が北井さんにとっての鬼子的な存在であったとして、作品集のDVDに収録されていない『英雄伝説 アントニオ猪木』はどうなのかと訊いてみると、もちろん自信のある作品だとおもっているが、肖像権だとか面倒くさいからほっといているということだった。

『境川の人々』のオリジナルプリントは、8月3日~10日、浦安フラワー通りのギャラリー「どんぐりころころ」で展示される予定であり、実物を目にするのが楽しみだ。(>> リンク


『境川の人々』より

●参考 団地の写真 (北井一夫『80年代フナバシストーリー』のこと)


ふいご

2008-07-11 23:51:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

古池寿浩(tb)、中尾勘二(ss、cl)、関島岳郎(tuba)からなるユニット、「ふいご」のライヴを観て帰った。ディスクユニオンのインストアライヴなので無料。

リーダーが故・篠田昌已になれば「コンポステラ」。「ふいご」の持つ音のコンター図のような雰囲気は、「コンポステラ」と違うが、ときに似ている。コードに加え、笛を吹くというところからくる哀しいムードは共通している。海の中とすれば、大きな海流がチューバ、場所により異なる定常的な流れや乱流や渦がトロンボーン、それからソプラノサックス・クラリネットはイソギンチャクといったところだ。


理系的にすっきり 本川達雄『サンゴとサンゴ礁のはなし』

2008-07-10 23:59:22 | 環境・自然

動物のサイズと時間の流れ方との関係を描いた『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄、中公新書、1992年)は見事だった。原理や法則を、多様な自然界に適用する見せ方が鮮やかなのである。

同じ著者による最新刊『サンゴとサンゴ礁のはなし』(本川達雄、中公新書、2008年)も、激しく面白い。よく理解しておらず頭のなかで適当に処理していたことが、次々に解きほぐされていく。

美しく透明度の高い海、それは有機物という栄養が少ないことを意味する。ここでサンゴという、動物でありながら礁をもつくり、生態系の多様さを体現するような存在が成立するのは何故なのか。登場するキーワードは「共生」である。

すなわち、褐虫藻という植物プランクトンがサンゴの細胞中に棲み、光合成によるエネルギーをサンゴに与えつつ、自らは安全な場所にいてサンゴの排泄物をもらうといったエネルギー収支が見事になりたっている。共生はその関係だけではない。カニや魚と、それぞれの持つ得意技を生かしながら支えあっているメカニズムには、文字通り圧倒される。

ここでどうしようもなく明らかになるのが、人間との共生だけがいびつになっているということだ。それが、例えば白化などの形となって目に見えるようになる。

本書が扱っているのはサンゴだけでない。例えばサンゴと同様に、体内に褐虫藻をすまわせている動物として、貝や有孔虫やウミウシの一部を紹介する。有孔虫の殻の代表的なものが、「星の砂」なのだが、他にも「銭石」というものも存在する。沖縄であれば、例えば大宜味村の塩屋湾で浜を凝視すれば結構見つかる。本書を読んで、この銭石が海外では「人魚の銅貨」とも呼ばれていることを知った。

何が理系的にすっきりするかと言えば、現象だけをスポット的に説明するのではなく、体系のうえで、必然は必然として、不思議は不思議として扱うところだ。

●参考 星の砂だけじゃない (※塩屋湾の銭石のこと)


これからの備忘録

2008-07-10 06:00:45 | もろもろ

●ふいご インストア・ライヴ @ディスクユニオン新宿ジャズ館 7/11 21:00- >>リンク >>感想
「コンポステラ」の故・篠田昌已を除く2人が参加。

●「森口カフェ」Vol.3 @neoneo坐 7/14 18:30- >>リンク >>感想
森口豁さんの沖縄に関するドキュ上映。

●「けーし風」読者の集い @神保町区民館 7/26 14:00-
まだ今号を読んでいないのだけど。特集はなんだろう。

●エミリー・ウングワレー @国立新美術館 5/28-7/28 >>リンク >>感想
まだ足を運んでいないが、パースで3点観た(>> 感想)。アボリジニの生活領域には「中心がない」という目で見ようかとおもっている。

●青春のロシア・アヴァンギャルド @ザ・ミュージアム 6/21-8/17 >>リンク
亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書、1996年)を読んでから気になる存在だったフィローノフの作品も含まれている。

●北井一夫 『ドイツ表現派1920年代の旅』 @ギャラリー冬青 7/1-31 >>リンク >>感想
三里塚のあとで当時評判が芳しくなかったそうだが、奇妙な建築の写真群はいいと思う(DVD『北井一夫全集2』に収録されている)。写真集の印刷も終ったようだ(>>リンク)。さらに、『日本カメラ』連載の『ライカで散歩』も、12月に出版予定とのこと(>>リンク)。7/12にトークショー。

●河崎実『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一髪』 >>リンク
二本松嘉瑞『宇宙大怪獣ギララ』(1967年)といえば松竹唯一の怪獣映画だった。永六輔のトホホなテーマソングも、もちろん本編もショボかった。と誰でも思っていたはずだが、なぜリメイク?

●野本大 『バックドロップ・クルディスタン』 @ポレポレ東中野 7/5- >>リンク
シヴァン・ペルウェルの音楽を使っていて、クルドの踊りの映像が観られそう。

●藤本幸久 『Marines Go Home - 辺野古・梅香里・矢臼別』 @ポレポレ東中野 7/26- >>リンク
沖縄、北海道、韓国をリンクする試み。


コーヒー(5) やんばるのコーヒー

2008-07-09 06:21:50 | 食べ物飲み物

コーヒーベルト」という概念があって、一般的に、コーヒーは北回帰線と南回帰線との間が栽培に向いていると言われている。


コーヒーベルト (National Geograhicより)

沖縄は北回帰線よりもちょっと北側だが、本島でもコーヒーが作られている。よくとりあげられるのが、東村高江にある「ヒロ・コーヒーファーム」(>> リンク)。居心地もいい。

同じ東村の民宿「島ぞうり」(>> リンク)には毎年のようにお邪魔しているのだが、ここでも作って販売している。昨年末に訪れたときには、ちょうど豆をざるの上で乾かしていた。なくなるといけないと思って、先日慌てて電話して購入した。香ばしくてとても旨かった。

東村はパインの一大産地でもあるから、ついでに1個入れてもらった。甘くて、争奪戦になるのだった。


挽いたら良い香りが。


せっかくなので読谷のカップで飲む。


パインの蜜


ヒロ・コーヒーファーム(2004年) Pentax MZ-3、FA24mmF2、フォルティア、ダイレクトプリント


元ちとせ『蛍星』

2008-07-07 23:59:57 | ポップス

元ちとせの新しいシングル盤、『蛍星』(EPIC)が出たので喜んで買ってきた。私は見かけによらず感傷的な人間なので、サビを聴いているだけでぐっとくる。

しかし、最近になればなるほど、元ちとせの声量や音程について批判的な声がある。実は正直言ってその通りだとおもう。このCDにおまけのDVDがついていて、「ワダツミの木」の最近のライヴ映像が収録されていた。何故、ここまで過剰にこぶしをきかせて、身体を折り曲げて唄うのだろう。

ちょうど、「スペースシャワーTV」で、「ワダツミの木」発表当時のヴィデオクリップを放映していた。音はあとで調整できるのだろうけど、違いは一聴してあきらか。こっちは何度でも聞きほれることができる。もっと遡って、1996年度奄美民謡大賞を受賞した記念の『故郷・美ら・思い』(セントラル楽器)のように、声と三線だけで凄みを感じさせられるはずなのに・・・。

と言いつつ、新しいアルバム『カッシーニ』(EPIC)は買うつもりなのだ(笑)。


『蛍星』(2008年)


『故郷・美ら・思い』(1996年)

hajime

パースの散歩

2008-07-06 22:38:24 | オーストラリア

パースは小さい街だ。中心部であれば歩いて用事がすませられる。ただ、スワン河岸の自然が残っているところまで行くのは、徒歩では難しい。スポーツ好きはここでもそうで、ジョギング、自転車、サッカーなどあちこちでエネルギーを発散している。

今回はなんとなく、ペンタックスLXパンケーキレンズの40mmF2.8を付けた。広角のつもりでいたほうが、相手との距離感をつかめて間抜けにならずに良いようだ。薄すぎてピントリングを指先で探してしまうことが何度もあった。デジタル40mm用のフジツボ型フードがぴったり。


パース 1 パレスチナ Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 2 スワン川 Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 3 サッカー Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 4 バス停 Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 5 自転車 Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 6 釣り人 Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 7 古本屋 Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 8 教会 Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 9 ヴェンダース風 Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 10 ぞろぞろ歩き Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 11 映画館 Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 12 夕暮れ Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


パース 13 帰宅 Pentax LX、M40mmF2.8、Kodak TRI-X、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2)

2008-07-06 09:54:19 | アヴァンギャルド・ジャズ

先日2008/5/28、下北沢アレイホールでの、姜泰煥(カン・テーファン)(アルトサックス)、高橋悠治(ピアノ)、田中泯(舞踏)。

私が田中泯の存在を知ったのは、デレク・ベイリーと「白州アートキャンプ」において1993年に共演した映像をおさめた『Mountain Stage』(Incus)による。その後、ミルフォード・グレイヴスとの共演(1998年)、アルトーの『征服』(1998年)に行ったりして、よく考えると10年ぶりに観たということか。グレイヴスのパーカッションと共演したときは、途中からほとんど全裸になり(もっとも、何やら保護具だけはつけていたが)、グレイヴスがげらげら笑いながら叩いていた記憶がある。

それ以上のことは知らなかったが、ついさっき調べると、デレク・ベイリー、ミルフォード・グレイヴスとの共演は、1981年の『MMD計画』に遡る。また、ベイリーとの共演盤『Music and Dance』も、白州の映像と同じもので、舞踏を音で想像するのもなあ、と勘違いしていたが、実は1980年の記録だった。まだレコードを入手できるだろうか。

田中泯はまさにこの週末も、都内のあちこちで踊っているらしい。今日は入谷か。(>> リンク

それにしても、イルフォードの印画紙がなかったので買ったオリエンタルのRCペーパーは、いろいろな意味で使いにくい。贅沢は言えない状況なのだが。


姜泰煥 Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Kodak TMAX-3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


向こうに佇む田中泯 Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Kodak TMAX-3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


高橋悠治ににじり寄る田中泯 Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Kodak TMAX-3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


田中泯 Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Kodak TMAX-3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


姜泰煥 Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Kodak TMAX-3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


田中泯 Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Kodak TMAX-3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


高橋悠治 Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Kodak TMAX-3200、オリエンタル・ニューシーガルVC-RPII、3号フィルタ


田中泯+デレク・ベイリー『Moutain Stage』(Incus)

●参考 姜泰煥・高橋悠治・田中泯

支配のためでない、パラレルな歴史観 保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』

2008-07-05 10:55:24 | オーストラリア

歴史は「史実」のみの集合体なのか。「史実」の集合体が、地球という拡がりと千年単位の時間を再現するものでありえない以上、歴史だとおもっているものは何らかのコンテキストに沿ったものでしかないのではないか。それは容易に支配のための道具になってきたのではないか。歴史修正主義はどう位置づけられるのか。あたかも歴史の大きな幹として選択されたもの以外は、それに従属するものとして切り捨てられてきたのではないか。コミュニティや体験者の声、または意識は、耳という機能がない社会においては「史実」に沿わない情報として扱われてきたのではないのか。「ローカル」は「グローバル」に従属する関係だと暗黙に考えられていないか。

保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(御茶の水書房、2004年)は、そのような問いにいくつもの示唆を与えてくれるものだった。

著者は、オーストラリア北部準州(NT)のアボリジニと「共有した歴史」をもとに、「これまでの歴史」に当てはめるのではなく、「実践する歴史」、「パラレルに存在する歴史」の意義を問うていく。実際、ここで語り継がれている「歴史」は、たとえば「キャプテン・クックがNTでアボリジニたちを虐殺した」というものであり、これは明らかに「史実」に反するものだ。しかし、著者は、それをもって、「大きな歴史」に従属する、「間違っているが信じられている神話」として横に置くことは誤りだと問題提起する。実際のコミュニティではそのように語り継がれており、そして長い受苦の歴史的文脈からみれば、また彼らの世界観からみれば、「間違い」ではないというわけだ。もちろん、従来の「歴史」自体のあり方を変えようというのではなく、このような「歴史」もあるべきだという考え方である。「歴史」は誰のためのものなのか、ということか。

人類学者デボラ・ローズは、キャプテン・クックが個人的にビクトリア・リバー流域に現れたという史実がないとはいえ、この歴史物語は正確に植民地化の不道徳性についての理解をこの地域にもたらしていると主張する。白人の法は、人の土地に出かけていって、そこの住民を殺害し、土地を盗み取るという、完全に不道徳な行為を正当化するのである。」(112頁)

オーストラリアのアボリジニ社会は非常に多くの異なるコミュニティから成るものの、モノと情報のネットワークは相当に出来上がっていた。とは言え、一見相互に矛盾する複数の歴史物語りが共奏しているという。著者は、このような歴史のあり方を、ハイブリッド的なものとして考え、何かの知識体系に基づいて「間違っている」と即断することはできないと説く。ここで引用されるのは、たとえばスピヴァクによる「自ら学び知った特権をわざと忘れ去ってみる=ときほぐす」という考えであり、そうでなくては、いずれ、支配の道具としての一元的な歴史に収斂されてしまうということだろう。

それでは、「誰かが信じていれば、それが都合のいいものであっても、デマであっても、それは歴史なのか。何でもあり、ではないのか」という疑問は当然浮かんでくる。歴史修正主義者たちが考える、独自の「歴史」も、存在を同程度に許容すべき「歴史」ではないのか、ということでもある。これに対して、著者は、テッサ・モーリス=スズキの考えを引用し、「歴史への真摯さ」を重視すべきだとする。

モーリス=スズキは、歴史的真実は一般に歴史家が接近して記述することが可能な「外的な」客観的存在であると想定されているが、これは錯覚であると主張する。ただし、こうした錯覚が生まれるのは、歴史的真実が存在しないからではなく、歴史的真実が無尽蔵にあるからなのである。その一方で、歴史への真摯さは、歴史を探索する主体と探索される客体との関係性のうちにある。つまりここでは、歴史家が無尽蔵な歴史的真実に向かうさいのプロセスに重点がシフトしているのであり、必然的に過去に接近しようとしている歴史家自身のポジション、歴史家がもっている偏見に最大の注意を払う必要が生まれる。」(230頁)

勿論、矛盾やあやうい点はそこかしこに残るかもしれない。しかし、被差別、南京大虐殺、アウシュビッツ、沖縄戦、アイヌ征服史、従軍慰安婦、公害病、米軍による市民への無差別攻撃、そしてここでのアボリジニ征服史など、理不尽に抑圧された受苦へのまなざしが、いまだ正当なものでなく、いつでも「危険な歴史」に呑み込まれてしまう可能性があるいま、「聴くこと」を前提とした、「従属関係ではなく共奏関係にある無数の歴史」を受けとめることがとても重要ではないかとおもえる。

著者は既に鬼籍に入っている。もしご存命なら、私と同い年のはずだ。本書の出版に携わった編集者の方に聞いたところ、故・保苅氏の英語論文をもとにした本の出版や、故・保苅氏についての番組の制作がオーストラリアで進んでいるようだ。いま東京で行われているエミリー・ウングワレー展もそれと無関係ではないとのことだ。


暇潰しに観た『The Band's Visit』が結構良かった

2008-07-03 23:02:59 | 中東・アフリカ

中東カフェ」(>> リンク)が楽しかった。聴いてくださった人たちは楽しかったのかどうか不明だが。ネオリベ的排出権なんてことをじわじわと考えてみようかとおもった。

一昨日、パースで仕事が終ってしまい、スーツ姿で深夜便に乗るまで行き場所を失ってしまった。郊外に行くほどの気力もなく、「Cinema Paradiso」という映画館で、たまたまやっていた『The Band's Visit』(エラン・コリリン、2007年)を観ることにした。7ドル。

監督のエラン・コリリンはイスラエル人。幼少時には、イスラエルでも、エジプト映画の人気があったということで、その記憶がこの映画にも反映されている。

エジプトの警察音楽隊が、イスラエルの「アラブ文化センター」の招きで、演奏のため訪れる。何かの間違いで、空港には誰も出迎えがきておらず、独力で着いたその街には小間物屋兼レストランが寂しく建っていた。店の女主人は、「アラブだろうとイスラエルだろうと、文化なんてもんはここには無いね!」と、ばっさり。しかし人情に篤く、従業員と手分けして楽団員を泊めてやることにする。イスラエル人も、エジプト人も、それぞれに悩みや心の傷を抱えていて、一晩のうちにそれを見せ合い、お互いの壁が崩れていく。

若手の楽団員がやんちゃで面白い。空港で皆が途方にくれているとき、窓口の女性に対して「貴女には眼がある・・・チェット・ベイカーを知っている?」と言って、『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』を唄ったりする、かなり浮いた存在。イスラエルの田舎町で泊まるときにも、楽団のリーダー(この人が固くてまた面白い)は、監視の必要があると思い、店の女主人宅に一緒に泊まらせる。けれども、若者はやはり、「チェット・ベイカーを知っている?」をはじめ、トランペットを吹いたりする。このとき、固い楽団のリーダーが、「チェット・ベイカーなら全ての録音を持っている。ハリー・ババシン楽団でのデビューから、1988年に亡くなる前まで。」と、意外な側面を見せつつ、若者の思いいれたっぷりのトランペットに対しては「いい演奏だ。でも低音がちょっと弱いな。」などと、相変わらずの堅物ぶりで客席の笑いを誘っていた。

笑いはこれだけではなく、何回も観客席(20人くらいしかいなかったが・・・)から自然な笑いがわきおこった。それからほろりと来る人情。思いがけず、かなりいい映画だった。ちょっと前という設定であり、おそらくは90年代の中東和平の気運が盛り上がったころなのだろう。

帰国後調べてみたら、日本でもつい最近、『迷子の警察音楽隊』というタイトルで公開していた。

なぜかオーストラリアでは、オーストラリア人も日本人も、オーストラリア料理のようなものを薦めない。1人では、なおさら何か珍しいものを食べようという気にまったくならない。旅先での1人のゴハンはつまらない。どうでもよくて、中華料理とか日本料理とか、何も考えなくていいものを食べた。

パースでは日本人向けに『The Perth Express』というフリーペーパーが出回っていて、最新の号が「アジア麺大特集」だった。「FOUR SEAS CHINESE BBQ」では「ワンタン&BBQポーク入りヌードル」を、「JAWS回転寿司」では妙な回転寿司何皿かとうどんを食べた。寿司屋はたくさんあって、だいたい日本人や中国人が作っているようだ。ただ、値段がやたらと高く、回転寿司一皿が500円くらいしたりする。3皿とうどんでもう2,000円。どこで何を食べても高い。日本の定食屋は偉い(?)。


オーストラリアのアート(5) パースでウングワレー、ドライスデイル、ボイド、ジュリー・ドーリング

2008-07-02 08:53:02 | オーストラリア

「福田ビジョン」関連で、毎日新聞社『エコノミスト』誌(2008/7/8号:6/30発売)に小文を寄稿しました。(>> リンク

仕事で、パースを数日間再訪した。カンタス航空の直行便は、国際線にしていまどき個人用のスクリーンがないおんぼろ機、おかげで睡眠をとることができた。

便の関係で日曜日の朝に着いてしまい、西オーストラリア美術館(Art Galery of Western Australia)、西オーストラリア博物館(Western Australia Museum)、パース現代美術館(PICA:Perth Institute of Contemporary Arts)を梯子した。

西オーストラリア美術館は作品数が多く、かなり見ごたえがある。キュビストであったグレイス・クロウリーや、デザイン的な抽象画のフランク・ヒンダーの小企画を組んでいたが、ほとんどこちらの感性に触れない。それよりも、先日キャンベラとシドニーで観た、アーサー・ボイドラッセル・ドライスデイルの数点ずつ展示してあった作品が良かった。

ボイドの作品は、ここでも終末世界的。川の上に森林が描いてある作品では、ユーカリの木々の幹がぎらぎらと白く、その中に何羽もの烏がいる。また、兎の巣を描いた作品でも、他の画家の手になったならば牧歌的であったに違いない世界が、そこかしこに地霊がいるような怖いものと化していた。

ドライスデイルは、一貫して、赤く黄色い大地のうえの生命を描いている。ここで観たのは、『門番の妻』、それから題名は忘れたが、男達が蜥蜴を捕まえてぶらぶらさせている絵だ。荒涼とした中に、粉を吹いたような家や、電信柱や、杭や、塀なんかがある。そこにいる人々は蜥蜴と同じように生命に他ならない説得力がある。


『門番の妻』

嬉しかったのは、エミリー・ウングワレーの作品を3点見つけたことだ。黒い大地に白い脈、ヤムイモでもあるようだ(『アーラタイト・ドリーミング』)。またしばらく凝視してしまう、野草の小さな痕跡を集めた『夏に野草を乾かす』。まだウングワレーの東京での展覧会を観ていないが楽しみだ。


『夏に野草を乾かす』

ボイドの作品集が欲しいと思い、ミュージアムショップや街の本屋何軒かで探したが、分厚い伝記しか見つからない。そのかわり、「エリザベス・ブックショップ」という古本屋で、ドライスデイルの古い画集を見つけて入手した。11ドル。シドニーで観た『ソファーラ』も収録されていた。

西オーストラリア博物館では、「Just Add Water」という企画展をやっていた。いかに水の確保に苦しんでいたのか、そしてダムの設置によって水の有無がゼロか1かになって植生が変わってしまったことが示されていた。

パース現代美術館では、3つの企画をまとめていた。1階の「An Ever Expanding Universe」は、こちらの感度が悪いのか、まったく面白くない。当然感想もない。2階の映像コーナーでは、何本もの映像作品が流されていた。適当に座って観ていたが、『Reborn from Outer Space』だったか、タイトルはエド・ウッドの『Plan 9 from Outer Space』を思い出させるもので、中身もやはりどうしようもないオバカ映画。他には船で曳航しながら、ときどき女性が吸血鬼のように葉をむき出すだけの作品とか、気分の余裕がないこともあり途中でやめた。なにをかなしんで、私は異国の地でこんな時間の無駄遣いをしているのか。まだまだ沢山作品があった。

思いがけず最高に良かったのが、同じ2階で上映していた、ジュリー・ドーリングによる『OOTTHEROONGOO(Your Country)』だった。ジュリーの姉妹の解説によると、アボリジニとしての自分のルーツを見に行く旅を記録した素材から成るもののようだ。祖母が、当時の政府の同化政策により、無理やりに両親から引き離されて白人家庭に育ったという。大地、潅木、樹木、道、空、宇宙(本人が撮ったのではないだろうけど)といったものの写真、それからジュリー本人がこちらを見て表情を変え続ける映像が、入れ替わり立ちかわり、3つのスクリーンに映し出される。ジュリーが涙ぐんだり愛嬌ある顔をしたりと、「人の顔」の良さを感じさせるものになっていて、しかも相当センチメンタルで、私はこういうのにかなり弱い。2日後、また観に訪れてしまった。

展覧会歴には、2006年に東京のブリジストン美術館で「プリズム―オーストラリアの現代美術」という展示をやったとある。調べてみると、ジュリー・ドーリングフィオナ・ホールを含めた35人が紹介されている。全然気付いていなかった。今度図録を探してみようとおもう。(>> リンク