『けーし風』第59号(2008.6、新沖縄フォーラム)は、「沖縄の18歳に伝えたいオキナワ」特集を組んでいる。正直なところ、18歳を2回少々繰り返しただけの自分が考える<次の世代>は小さな子どもたちであり、18歳はもはや誰かに何かを伝えてもらう年齢とはおもわない。勝手に学び、意味なく考え、動けばいいのである。それに、判断材料となる情報は、ちょっと昔と比べて冗談でないくらい多い。
一方では、その頃に狭い視野外の世界を誰かによって見せてもらっていたなら、もう少し立派な人間になっていたかもしれないなあと(真剣に)おもう。しかし実際のところ、実は窓は常に開いていたのに違いない。今だって常に窓は開いている。
むしろ、通過したこの頃の逆照射により「居心地の悪さ」(仲里効)を感じさせられることが大きい、と感じる。
本誌と呼応するように開催された「森口カフェ」(2008/7/14)では、「沖縄の十八歳」と題して、復帰前後のひとりの人物・内間安男さんの変遷を追っている。復帰前に18歳であったときの彼は、虚飾なく沖縄とヤマトゥのあり方を議論し、そして虚飾なく復帰すべきだと思い込む。それが大人になり、復帰の問題点を目の当たりにし、自らの身体で演じ、運動を行い、平和のあり方について考え続ける。この真摯な生き方は、時間の流れをショートカットして観るだけの私に感動を覚えさせるものだった。(>>リンク)
本誌では、その番組を制作したジャーナリスト・森口豁さんが、『目に見えない三つの風景』を寄稿している。軍の論理によりスパイ行為として住民が虐殺された地、「一家全滅家族」が多くあった地、米国の嘉手納弾薬庫(クラスター爆弾もある)がある美しい地、の3つの風景である。見えないものを想像することは、勿論、あらゆる世代に対して<無数の想い>が要求することだろうとおもう。そういえば、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)でも、2児の父となった内間さんは、子どもたちに「一家全滅家族」のあった地で想像させるシーンがあった。
特集ではもうひとつ、徳田匡『霧の中の沖縄』の指摘は印象的だった。「主体」が「主体性」を脅かされたとき、「主体性の死守」が暴力という形をとって現れるのではないか、「主体性」が脅かされ続ける沖縄といいう議論においてこの特徴への言及が抜けているのではないか、という指摘である。
特集外では、西脇尚人『キャンプ・キンザー沖埋立事業の真実』が興味深い。浦添のキャンプ・キンザー返還にともない、自然海岸の残る貴重なエリアを埋め立て、道路を建設するという計画の妥当性を問うアセスが行われている・・・というのは一面だけで、実はその先に軍港計画がある、という実態の報告である。両者のリンクは明らかにも関わらず、枠組の縦割り以外は見せないようにして話が進んでいく、という<ありそうな話>だ。辺野古の新基地もそうだが、このような実情を知るにつけ、いたちごっこの枠組を超える強い監督機能が日本にないことを痛感する。監督機能が<政府>でなく<マルチチュード>であれば、それこそ理想的なのだが。
●『けーし風』 読者の集い
○日程
7月26日(土) 午後2時より
○会場
神保町区民館 2階 洋室A
〒101‐0051 神田神保町2-40