Sightsong

自縄自縛日記

元ちとせ『Music Lovers』

2008-07-15 23:59:42 | ポップス

元ちとせのホームページで応募したら当たってしまったので、日本テレビ『Music Lovers』という番組の収録に観客として行ってきた。観たことがないが、ライヴハウスのような場で唄うつくりになっている。

夜8時半に入って、荷物と携帯電話を預けて、始まったのがようやく10時ころ。ライヴ会場もオールスタンディングでもう腰が痛い。ぞろぞろ入って、おおっ前だなと思ったのもつかの間、「女性をテレビに映したいので男性は後ろに下がってください」などという指示。それでも6列目くらいだから充分近い。例によって拍手の練習なんかをさせられた。

バックバンドはキーボード(Dr. kyOn)、ギター、ベース、ドラムスという編成。やっぱり元ちとせが激近に出てくると嬉しいのだ(笑)。PAが凄いが、声がよれるだの何だの難癖を付けていたことを忘れる堂々とした唄で、裏声も迫力がある。曲は、「蛍星」「ワダツミの木」、途中に松任谷正隆のピアノとのデュオで「春のかたみ」を挟んで、「あなたがここにいてほしい」の4曲。

そのあとトークショーがあって、ゲストが清水ミチコと宮迫博之。いまでは有名になった、「奄美では蛇口をひねったら海老が出てきた」の話なんかもあって、随分笑った。

番組の放送は8月31日だそうだ。新しいアルバム『カッシーニ』は、もう7月16日に出回る。いまから腰が痛いまま寝て、朝便で札幌に行かなければならないので、向こうで買って帰ろうかなんて思っている。


森口カフェ 沖縄の十八歳

2008-07-15 06:00:50 | 沖縄

小川町のneoneo坐で行われた「森口カフェ vol.3」に足を運んだ。ジャーナリスト森口豁さんがかつて制作したテレビドキュメンタリーから、内間安男さんというひとのふるまいを観察した、定点観測的な3本が上映された。狭い会場には30人くらい集まっていて、neoneo坐にはじめて来たというひとも多いようだった。

『沖縄の十八歳』(1966年)は、高校3年生、18歳の内間さんの姿を捉える。日本復帰への布石となる佐藤首相の訪沖を経て、沖縄では復帰の是非を問う議論が高まっていた。高校生の間でも、それは無縁ではなかった。慰霊の日に訪沖する山口衆議院議長に対し、コザ高校有志として、復帰を訴える文書を渡すかどうかでクラスは意見が二分していて、内間さんは復帰に賛成する側だった。

その、「トートロジーにちかい」(仲里効)復帰への熱望に対し、級友は、「勝手に沖縄をこのようなところにしておいて今さら復帰だなんて、そんな国が俺たちの祖国と言えるんだろうか。そんな祖国なんていらないよ。」と反論する。これは何度もドキュの中で、内間さんの心に響くように繰り返される。

「復帰から三十一年、六五年から六六年かけて交わされた、若きアドレセンスの<日本人/祖国論争>など、まるでなかったかのような時勢に私たちは生きている。沖縄の十八歳の憧れや悩み、言語化される以前の不定形の闇を忘却から奪回するとき、沖縄の戦後の履歴をまざまざと見せつけられ、今という時の居心地の悪さに気付かされるはずだ。」(仲里効、「沖縄タイムス」2003年11月27日)

『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)は、復帰後6年を経て、戯曲『人類館』のエキセントリックな人物を演じる者として、内間さんがあらわれる。この、「いい意味での変節ぶり」には、森口さんも驚かされ、感動させられたという。18歳の内間さんとの出会いは、沖縄に渡ったときの森口さん自身の「青春の投影」だったのだから。

『人類館』は、1903年の博覧会において、アイヌや朝鮮人とともに琉球人も「陳列・展示」されたという事件をもとにしている。内間さんは、そのなかで差別する側にも、軍人として沖縄を犠牲にした側にも、為政者側にも立って、自ら多くの矛盾を笑いとともに顕現する。ドキュのなかで、内間さんが自分の18歳を振り返る台詞がある。「沖縄が復帰すれば、沖縄のためになるとおもった」という正にその「トートロジー」的なものは、おそらく誰のものでもあったのだろう。

ドキュでは、同時に、「730」というキャンペーンとともに大掛かりに処理された交通方式の転換が、たんなる事務的な処置ではなく、都合のいいように扱われる沖縄を象徴していることが示される。

『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)は、2児の父となった内間さんを描く。ここでは、米軍の沖縄での軍事演習に参加する自衛隊の姿が映し出される。インタビューに対し、自衛隊員は「反対運動をやっていることはわかるが、政治的なものはわからない。軍事的なものならわかる。義務を遂行するまでだ」と語る。これに被るように私が思い出すのは、イラク空輸活動を違憲とした名古屋高裁の判決に対し、「そんなの関係ねえ」「与えられた任務をこなすのが役割」とした公式発言だ。依然として変わらないシビリアンコントロールの欠如に対して、内間さんは、歩き、アピールし、子どもに平和について教え続ける。

内間さんは職を転々とした後、県庁に職を得ていたが、病に倒れ仕事を辞したという。その内間さんに青春を投影したという森口さんは、やはり18歳のときに沖縄に渡り、ほぼ同い年だった故・近田洋一さんと知り合った。「アカ」と米国に睨まれたら日本に渡航するパスポートも交付されず就職も難しくなる時期にあって、森口さんと故・近田さんは「兄弟以上のつきあい」をしてきたと振り返る。先月急逝した近田さんのことを語る森口さんは、しばしば言葉に詰まった。

ドキュ3本の上映と森口さんのお話が終ってから交流会。neoneo坐には食べきれないほどの食事が並べられた。いろいろなひとと話すことができて楽しかった。

●参考
罪は誰が負うのか― 森口豁『最後の学徒兵』
『子乞い』 鳩間島の凄絶な記録