goo blog サービス終了のお知らせ 

Sightsong

自縄自縛日記

白洲正子『木』

2019-04-10 08:07:12 | 環境・自然

白洲正子『木 なまえ・かたち・たくみ』(平凡社ライブラリー、原著1987年)を読む。

ドイツ在住のダンスの皆藤千香子さんが白洲正子のことを薦めていて、ふと古本屋で見つけて読んでみた。

なるほど、文章に無駄な装飾がないし、もとより自分を着飾ってみせようという心はまったく見出せない。ちょっと変わったふうにみえるとすれば、それは白洲正子というひとの美学である。彼女は、たとえば生活の中での木のありようだったり、樹種によって異なる素材の性格や美しさだったり、木に関わるひとたちの生き方だったりといったものに、凝視に近い親密な視線を送っており、それが文章に衒いなく反映されている。いい文章だ。

面白いのは、白洲正子さんは、葉っぱや樹皮のことをほとんど書いていないことである。たとえばクスノキであれば、わたしなどは、分厚く丸っぽく、ダニの棲みかがある葉っぱが好きだし、幹の表面も好きである。一方、白洲正子さんは、霊木としての歴史、仏像への利用、全体の佇まいなどを書いている。他の木については、道具に化けたあとのことをよく書く。

だからどうだというわけではない。面白いなあ、ということである。

●参照
斎藤修『環境の経済史 森林・市場・国家』
上田信『森と緑の中国史』
只木良也『新版・森と人間の文化史』
そこにいるべき樹木
園池公毅『光合成とはなにか』
館野正樹『日本の樹木』
荒俣宏・安井仁『木精狩り』
東京の樹木
佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』
湯本貴和『熱帯雨林』
宮崎の照葉樹林
オオタニワタリ
科学映像館の熱帯林の映像
森林=炭素の蓄積、伐採=?
『南方熊楠 100年早かった智の人』@国立科学博物館
南方熊楠『森の思想』
小川眞『キノコの教え』


森本あんり『異端の時代』

2019-04-10 07:19:24 | 思想・文学

森本あんり『異端の時代―正統のかたちを求めて』(岩波新書、2018年)を読む。

著者がこの思考のもとにしたのはキリスト教の歴史だが、それは、より広い言説や発想の前提にあてはまる。

丸山眞男は「L正統」と「O正統」とを定義した。前者は権力継承の正閏を問うもの、後者は教義解釈の正邪を問うものである。そこで現れる言説が、西欧社会には「O正統」があり、日本社会は「L正統」に依拠してしまいがちだというものである。丸山の「であること」と「すること」にも重なってくる概念であり、それは、日本の近現代史や政治や社会のありようをみるなら的を射た捉え方のように思える。

だが、著者は、ことはそう簡単ではないと説く。なぜなら「正典」や原理的な「教義」ではなく、もっと広い「正統」が先にあり、それは矛盾やツッコミどころを抱え持つとはいえ、多くの者に共有され支持されてきたイデアだからだ、と。「正典」が「正統」を作るのではないというわけである。原理を持たず権力に依りかかるのは日本特有のことではない。逆に、「異端」を、ピンポイントでなにかに焦点を当てているからこそ「異端」なのだとする。

この思考に沿って、著者は、たとえば政権が「正統をつくる」として憲法改定を喧伝することを思い上がったものとみなす。その一方で、政権への反対(常に権力に反対する社会運動や万年野党)を、その「異端」と位置付けてもいる。後者の考え方はわたしには危険なものに思える。「正統」が理詰めに説明可能なものではないのだとして、それでは、伝統や社会性といった漠とした概念を「正統」とする間違った保守に安易に陥るのではないか。あるいは、ピンポイントの主張が全体性に劣後するということになってしまうのではないか。