Sightsong

自縄自縛日記

そこにいるべき樹木

2007-01-17 23:55:17 | 環境・自然

筒井康隆や大江健三郎が、どこかで樹木への偏愛について書いていたが、確かに樹木というものはおかしな存在である。見れば見るほど変なものが、そこに屹立している。

一方、海外でもそうだが、日本でも、樹木は不幸なところに追いやられている。林業はコストと生産構造のために衰退しているし、精力的に植えられた杉林は確実に日本人のやる気を失わせている。こういった歪んだ状況は戦後の話かと思っていたら、どうやらそうではない。

『木を植えよ』(宮脇昭著、新潮社)と、その著者の人生を描いた『魂の森を行け-3000万本の木を植えた男』(一志治夫著、新潮文庫)が、まとめて出された。

宮脇氏の述べる「本来の森林」の姿によると、

●どの土地にも「潜在自然植生」がある。
●関東以西の「潜在自然植生」は常緑広葉樹(照葉樹)、東北・北海道は落葉広葉樹または針葉樹である。
●ただ、現在は多かれ少なかれ人の手が入っているから、「潜在自然植生」が生き残っている場所はごくわずか。
●生き残っている場所の典型は、誰もが手をつけないできた神社などの鎮守の森である。
●「潜在自然植生」に合う樹木を植えると、一定期間世話をすれば、恒久的に森として保たれる。
●照葉樹には防災効果があるから、都市にも適している。

私も照葉樹は好きであるから、従来の「照葉樹林文化説」を含め、面白い話だと思った。しかしよく考えてみると、これは相当に過激な思想なのではないか。いまは目に見えない力が、その土地に呪縛としてある、というのだから。

最近では、過去の反省から、海外での単層林(ユーカリやパームやし)の植林に弊害があること、国内でも複層林が望ましいことなど、考え方が変わってきていることは事実である。ただ、森林や樹木が「何のための存在」なのかについて、まだわれわれの社会は未熟であると言ってよいのではないか。

仕事上、植林に伴うCO2の吸収・固定効果などを計算することがあるが、だいたいは「思ったより小さい」との反応がある。そういうものではないのだ。

ところで、本説に関連してなお残る疑問としては、何故近所の神社には、欅や銀杏など落葉樹が多いのだろうか、というものだ。土地の歴史の違いだろうか。


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