新宿バルト9にて、テオ・アンゲロプロスの遺作『エレニの帰郷』(2008年)を観る。
以前に待ちきれなくてDVDを入手して観たのだが、英語がよくわからない箇所があったこと、それから、アンゲロプロスの作品を大画面で受けとめることが、急逝した巨匠への敬意というものだろう、と、大袈裟に思ってみたことが、わざわざ足を運んだ理由である。(何しろ、はじめて観た作品『霧の中の風景』に呑み込まれ、当時入れ替え制でなかった日比谷シャンテ・シネで2回続けて観たのだ。)
やはり、いくつか勘違いをしていたことに気づき、また、発見もあった。
ギリシャでの共産運動によって祖国を逃れ、ソ連に拠点を見出す者たち。そこでの男女の再会。奇しくもスターリン逝去(1953年)と重なることにより、またも愛しあう男女は引き離される。時は過ぎ、スターリン批判があり、東欧革命があり、米国やドイツで、再び男女は互いの時空間を縒り合せる。そして、もうひとりの同志と、息子と、孫娘もいた。
映画には、アンゲロプロスのトレードマークであった長回しはみられない。世界も心の内奥も分断していた国境は、『こうのとり、たちずさんで』のように触れることさえためらわれるようなものではなく、超えてきたという過去に属している。
長回しや断絶の提示によって、アンゲロプロスが体現していたものは、現在進行形の歴史ではなかったか。それはアンゲロプロス自身についての個人史でもあったがために、もはや、アンゲロプロスは、語られてしまった歴史や、超えてしまった国境を、そのような形で、苦しみながら映画に焼き付ける他はなかったのではないか。
それでも、アンゲロプロスが抱えた歴史以外の現在進行形の歴史は続く。<歴史の終わり>や、<イデオロギーの終わり>といった鋳型に、この映画をはめてはならない。
<時の埃>(原題)を抱える苦しみと、個人史としての別離を受けとめる苦しみ、そして居場所を見出せない苦しみが迫りくる映画である。
●参照
○テオ・アンゲロプロスの遺作『The Dust of Time』
○エレニ・カラインドルー『Elegy of the Uprooting』