Sightsong

自縄自縛日記

テオ・アンゲロプロス『エレニの帰郷』

2014-02-12 23:03:40 | ヨーロッパ

新宿バルト9にて、テオ・アンゲロプロスの遺作『エレニの帰郷』(2008年)を観る。

以前に待ちきれなくてDVDを入手して観たのだが、英語がよくわからない箇所があったこと、それから、アンゲロプロスの作品を大画面で受けとめることが、急逝した巨匠への敬意というものだろう、と、大袈裟に思ってみたことが、わざわざ足を運んだ理由である。(何しろ、はじめて観た作品『霧の中の風景』に呑み込まれ、当時入れ替え制でなかった日比谷シャンテ・シネで2回続けて観たのだ。)

やはり、いくつか勘違いをしていたことに気づき、また、発見もあった。

ギリシャでの共産運動によって祖国を逃れ、ソ連に拠点を見出す者たち。そこでの男女の再会。奇しくもスターリン逝去(1953年)と重なることにより、またも愛しあう男女は引き離される。時は過ぎ、スターリン批判があり、東欧革命があり、米国やドイツで、再び男女は互いの時空間を縒り合せる。そして、もうひとりの同志と、息子と、孫娘もいた。

映画には、アンゲロプロスのトレードマークであった長回しはみられない。世界も心の内奥も分断していた国境は、『こうのとり、たちずさんで』のように触れることさえためらわれるようなものではなく、超えてきたという過去に属している。

長回しや断絶の提示によって、アンゲロプロスが体現していたものは、現在進行形の歴史ではなかったか。それはアンゲロプロス自身についての個人史でもあったがために、もはや、アンゲロプロスは、語られてしまった歴史や、超えてしまった国境を、そのような形で、苦しみながら映画に焼き付ける他はなかったのではないか。

それでも、アンゲロプロスが抱えた歴史以外の現在進行形の歴史は続く。<歴史の終わり>や、<イデオロギーの終わり>といった鋳型に、この映画をはめてはならない。

<時の埃>(原題)を抱える苦しみと、個人史としての別離を受けとめる苦しみ、そして居場所を見出せない苦しみが迫りくる映画である。

●参照
テオ・アンゲロプロスの遺作『The Dust of Time』
エレニ・カラインドルー『Elegy of the Uprooting』


鈴木勲セッション@新宿ピットイン

2014-02-12 01:20:58 | アヴァンギャルド・ジャズ

新宿ピットインに足を運び、「鈴木勲セッション」を観る(2014/2/11)。

鈴木勲さん(「オマさん」)の演奏に接するのは久しぶりだ。前回は、たぶん2010年に、原田依幸、トリスタン・ホンジンガー、ルイス・モホロ、セルゲイ・レートフら怪人プレイヤーたちの中で存在感を示した姿を観た。富樫雅彦や山下洋輔らとのセッションも印象に強く残っている。

ちなみに、氏は故・富樫雅彦よりも7歳上の81歳であり、今回のMCでも「富樫くん」と呼んでいた。何しろ日本ジャズ史に名前を刻んでいる人である。

鈴木 勲(b)
纐纈雅代(as, ss)
大西由希子(as)
加藤一平(g)
本田珠也(ds)

ふたりの若い女性サックス奏者が競演するためなのか、ほぼ満席。いや別に皮肉ではなく、それだけ面白いということである。実際に、奇態なる格好に身をつつんで登場し、サックスをぶりぶり吹き喝采を浴びるなんてのは、得ようとしてもなかなか得られない芸の姿に違いない。「秘宝感」にも負けていない。

主役はと言えば、中音域でのアクロバティックなベースソロを見せつけていた。この人ならではの独自性に他ならないと思った。

セッション全体としては、がっちり組みあげた演奏ではなく、ややとっ散らかった感があった。ただ、それも愉快。

ところで、鈴木さんの服が凄い。サテン状の黒いシャツ、肩に光りモノ。さらに下は、二色のスカートなのだろうか? しかも、休憩中に客席を練り歩き、自ら観客ひとりひとりと握手をしている!(ぼんやり本を読んでいたら、斜め後ろから手が伸びてきて仰天した。) すべてステキな人なのだった。

なお、このセッションはテレビ収録されていた。日テレプラスの「Mint Jazz」という番組で、4月最終週に放送される予定だそうだ(入ったっけ?)。

●参照
「KAIBUTSU LIVEs!」をエルマリート90mmで撮る(2)(2010年)(鈴木勲)
纐纈雅代 Band of Eden @新宿ピットイン(2013年)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)(纐纈雅代)
秘宝感とblacksheep@新宿ピットイン(2012年)(纐纈雅代)
本田珠也SESSION@新宿ピットイン(2014年)
ポール・ニルセン・ラヴ+ケン・ヴァンダーマーク@新宿ピットイン(2012年)(本田珠也)
石田幹雄トリオ『ターキッシュ・マンボ』(本田珠也)