goo blog サービス終了のお知らせ 

Sightsong

自縄自縛日記

アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』

2015-11-05 00:33:53 | 中南米

アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』(Boranda、2014年)を聴く。

Andre Marques (p)
John Patitucci (b)
Brian Blade (ds)
Rogerio Boccato (perc) (6)

1曲だけパーカッションが参加しており、また1曲だけピアノソロが挿入されているが、他はピアノトリオによる演奏である。しかも、タイトル通り、すべてブラジルのレジェンド、エルメート・パスコアールの曲ばかり。

愉しそうに固いベース・テクニックを披露するジョン・パティトゥッチも、やはり愉しそうにさまざまな大技中技小技を展開するブライアン・ブレイドも気持ちがいい。そして名前を知らなかったアンドレ・マルケスのピアノは、いかにも難しそうなエルメートの曲を、左手と右手を微妙にずらして見事に弾きまくっている。それもそのはずで、マルケスは、エルメートのサイドマンを20年も務めたピアニストであるらしい。

それにしても、狂騒的に浮かれ果てて執拗に変奏する、エルメートの変わった曲の数々。循環し、繰り返し、果たしてどこに連れていかれるのか愉快の極みである。抒情的な名曲「Bebe」は、ガリアーノ=ポルタル『Blow Up』における名手ふたりのデュオにも決して負けていない。エルメート自身によるピアノ・ソロは、また別の時空間で我が道をゆく感じではあるけれども。そして、『Slaves Mass』の冒頭を賑々しく飾った「Tacho」。他にもどこかで聴いたようなエルメート感覚が散りばめられている。好き好きエルメート。

●参照
2004年、エルメート・パスコアル
エルメート・パスコアルのピアノ・ソロ


パトリシオ・グスマン『真珠のボタン』

2015-10-12 21:15:17 | 中南米

連日の岩波ホール。パトリシオ・グスマン『真珠のボタン』(2015年)を観る。『光のノスタルジア』(2010年)の続編的なドキュメンタリーではあるが、また別の視線を野心的に取り入れており、まったく独立した作品となっている。

チリ南部のパタゴニア。北はアタカマ砂漠、西は太平洋、東はアンデス山脈、南は極寒の地と四方を閉ざされ、独自の文化を育ててきた地であった。先住民は自らをチリ人とは見なさない。かれらは、無数の島々をカヌーで行き来する「海のノマド」であった(「陸のノマド」たるモンゴル周辺の人びとと同様に、異なる複数の周波数を発する喉歌を伝えていることは興味深いことだ)。また、宇宙を見つめ、星々の絵を自らの全身に描く不思議な文化を持っていた。

『光のノスタルジア』において示された視線は、アタカマ砂漠を宇宙への窓とする天文学者の視線でもあった。本作での宇宙への視線は、先住民の視線でもあった。そして、水は、地球46億年の歴史のはじめに、宇宙から隕石によってもたらされた(すなわち、灼熱のマグマオーシャンから水蒸気の雲が生成され、それは豪雨となり、海を作った)。

先住民は西欧によって踏みにじられる。野蛮な文明人は、先住民狩りを行い、また持ち込んだ病原菌で先住民の多くを病死に追い込んだ。「真珠のボタン」ひとつで獲得したひとりの先住民は、ヨーロッパに連れていかれ、英語を話すようになり、故郷に戻っても自分の人生を得ることはなかった。1970年に民主選挙により大統領に就任したアジェンデは、先住民に多くを返そうとして、3年後、アメリカの操るピノチェトのクーデターにより失脚し、殺された。

3千人を超えると言われる虐殺の被害者たち。『光のノスタルジア』は、広大な砂漠に棄てられた人びとを見つめた。一方本作は、海に棄てられた千人を超える被害者たちを追う。しかも、金属のレールを身体に結わえられ、ヘリから投げ落とされる様子まで再現しながら。ピノチェトの悪を追及するグスマン検事は、海底に沈むレールを引き上げさせた。そこには、犠牲者のボタンが付着していた。時間を超えた奇妙な符合。

少数ながら、先住民の血を引く人びとがいまも生きている。その人たちは、カメラを凝視する。かつては存在を許されなかった視線であり、そしてまた、そこには、過去の記憶という権力が持ちえなかった視線もあった。これらはまた、いまの日本において無数に生成され続けなければならない視線でもあるだろう。

●参照
パトリシオ・グスマン『光のノスタルジア』(2010年)
G・G・マルケス『戒厳令下チリ潜入記』、ドキュメンタリー『将軍を追いつめた判事』


パトリシオ・グスマン『光のノスタルジア』

2015-10-12 08:18:52 | 中南米

岩波ホールに足を運び、パトリシオ・グスマン『光のノスタルジア』(2010年)を観る。

パトリシオ・グスマンは、1973年・チリにおけるピノチェト将軍のクーデターの際に拘束され、釈放後すぐに国から逃げた。アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために』太田昌国『暴力批判論』においても強調される「もうひとつの9・11」である。その3年前に民主的選挙によって成立したアジェンデ社会主義政権は崩壊し、アジェンデは殺された。判明しているだけでも、ピノチェト政権は3千人を超える人びとを虐殺した。

このドキュメンタリー映画では、ふたつの視線が提示される。天の視線と、地の視線である。アタカマ砂漠は異常に乾燥し空気が澄み切っており、天文学者たちが、巨大な天体望遠鏡により天を観測し続ける。その光は、気が遠くなるほどの過去から長い時間をかけて宇宙空間を旅し、ようやくアタカマ砂漠に到達したものであり、現在の存在は理論的にひとつもない。

砂漠では、考古学者たちが、過去の人類の遺体や壁画を探っている。乾燥しているために、驚くほど朽ちないのだ。そして地を這う視線は、考古学者たちのものだけではない。ピノチェト政権は、虐殺を隠蔽するために、手にかけた者たちの骨を砂漠や海に棄てた。あまりにも広大な砂漠という宇宙を、いまだ骨を探し歩く遺族たちがいる。

ふたつの視線の時間スケールはあまりにも異なる。かたや10億、100億年単位。かたや千年単位、あるいは数十年。ある天文学者は、遺族が骨を求めて歩く探索行を、望遠鏡で広大な宇宙を彷徨うようなものだと嘆く。ある天文学者は、人間のカルシウムはビッグバン直後に宇宙で生成されたものだと思考を飛翔させる。またある考古学者は、これもチリという国が過去を曖昧にしてきたからだと明言する。ある天文学者は、チリを追われた両親を持ち、故国ということができるかどうかわからないチリに戻って観測の日々を送っている。

直接的なふたつの視線のリンクが重要なのではない。天に向けた長い時間スケールの視線が逆方向の視線となり、地の視線と交錯することが、なにものかの相対化を行い、なにものかの虚飾の衣を剥ぎ取るように感じられる。ちょうど、アボリジニの血をひくジュリー・ドーリングが自らのルーツを辿った映像作品『OOTTHEROONGOO (YOUR COUNTRY)』において、宇宙に浮かぶ地球の姿を繰り返し挿入したように。 

●参照
アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために』
太田昌国『暴力批判論』
G・G・マルケス『戒厳令下チリ潜入記』、ドキュメンタリー『将軍を追いつめた判事』
『オーストラリア』と『OOTTHEROONGOO』


エドマール・カスタネーダ『Live at the Jazz Standard』

2015-09-07 22:54:12 | 中南米

エドマール・カスタネーダ『Live at the Jazz Standard』(Arpa y Voz Records、2015年)を聴く。

Edmar Castaneda (harp)
Gregoire Maret (harmonica)
Marshall Gilkes (tb)
Itai Kriss (fl)
Shlomi Cohen (ss)
Pablo Vergara (p)
Rodrigo Villalon (ds)
David Silliman (perc)
special guests
Andrea Tierra (vo)
Tamer Pinarbasi (kanun)
Sergio Krakowski (pandero) 

カスタネーダのハープは文字通りのウルトラテクニックであり、ギターのパット・マルティーノ、シタールのラヴィ・シャンカールに伍するものと言っても過言ではない。実際に、この4月に予備知識なくNYのSmallsで観たライヴで仰天、口を開けて凝視してしまった。その際は、ハコも、ドラムスのアリ・ホーニグとのデュオというフォーマットも「ジャズの土俵」であったわけだが、それでも、かれはラテンもジャズも迷うことなく繰り出し、聴衆を夢中にさせた。

そんなわけで、待望の新譜。ラテン感満載である。グレゴリー・マレットのハーモニカも味わい深いソロを聴かせる。もちろんそれだけでなく、皆が、俺が俺が、私が私がと次々にステージ上で愉快なパフォーマンス。ソロを渡すときには、ときにぞくりとする「興奮の幕間」がある。実に豊かな、テクとエモーションの泉である。

この演奏も、NYのJazz Standardという「ジャズの土俵」においてなのだが、解説で東琢磨さんが書いているように、むしろラテンのほうがウケる状況もあり、そのことを云々することはあまり意味がないかもしれない。東さんは、ラテンアメリカの音楽を、国ごとに分類することはできず、少なくとも南米北部の「汎カリブ」音楽としてとらえるべきものだと説く。この豊饒さと連帯感はそれに起因するものでもあるのかな。

●参照
アリ・ホーニグ@Smalls(カスタネーダ参加)


小谷忠典『フリーダ・カーロの遺品―石内都、織るように』

2015-08-22 22:55:27 | 中南米

イメージフォーラムに足を運び、小谷忠典『フリーダ・カーロの遺品―石内都、織るように』(2015年)を観る。

フリーダ・カーロは1954年に亡くなった。彼女の死後、夫であったディエゴ・リベラもまた3年後に亡くなる。その前に、別の女性と再婚していた。リベラは開かずの間を定め、未亡人はその言いつけを守り、長生きした。そのようなわけで、カーロの死後50年が経って、開かずの間にあった遺品が出てきたというわけである。

メキシコのキュレーターは、石内都に、遺品の撮影を依頼する。原爆被害者の遺品を撮った仕事『ひろしま』があったゆえだろうか。このドキュメンタリー映画は、石内さんがメキシコに行き、次々に、カーロが使っていたコルセットや服や靴や薬瓶といったものを撮影してゆくプロセスを追っている。

石内さんは、ニコンF3にマイクロニッコール55mmF2.8を付け、コダック・エクター100を詰めて、どんどん撮影していく(サブカメラはリコーGR10であろうか)。そのうちに、遺品が過去のものではなく、現在に在るものとして、あるいはカーロが現在いるものとして捉えられていくのが面白い。ひとが生きることは痕跡を残すことであり、それは過去であろうと、現在という過ぎ去っていく過去であろうと変わりはない。そしてその痕跡は、絹や綿という布のマチエール、空気の中に置かれた佇まい、フィルムというマチエールと混ざってゆく。

カーロは、不便で暑苦しいように見えるオアハカの民族衣装を、ただリベラを喜ばせるために身にまとっていたわけではなかった。むしろ、メキシコ人、オアハカ人というアイデンティティをわが物にするために、自ら引き寄せていたのだった。これがわかったとき、不便さゆえに「女性差別」ではないかという指摘が、突然頭でっかちなものに転じる。映画でもっともスリリングなところだ。


ガブリエル・フィゲロア展@エル・ムセオ・デル・バリオ

2015-04-01 20:14:56 | 中南米

NYのエル・ムセオ・デル・バリオ(El Museo Del Bario)にて、映画カメラマンのガブリエル・フィゲロアについての展示「Under the Mexican Sky」が開かれている。日本でも90年代後半に、どこかで回顧上映があったように記憶しているがどうか。

会場に入ると、いきなり三船敏郎のど迫力の顔が写し出されていて仰天。かれがメキシコ人を演じた『価値ある男』であり、フィゲロアが撮影を担当している。ピーカンであの顔であるから当然迫力も出ようというものだが、フィゲロアの一貫した撮影方針もそれに貢献していた。

つまり、ハイコントラストなフィルターワークと構成で、活劇のようにドラマチックな絵を撮ることが、フィゲロアが担当した多くの作品に見られる特徴なのだった。セルゲイ・エイゼンシュテイン『メキシコ万歳』もまさにそのような作品であり、これをこけおどしと捉えてはつまらぬことになる。

会場で示されていたのは、メキシコ革命というアイデンティティ、死を正面から凝視すること、リベラ、オロスコ、シケイロスらによる芸術運動に影響を受けたこと、など。リベラらの作品が併せて展示され、またかれが撮った映像がいろいろと上映されており、良い展示だった。


『メキシコ万歳』(右)と、フィゲロアの雲(中)


ライカIIIfあたりか?


ウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』

2015-01-02 00:44:56 | 中南米

ウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』(1997年)を観る(>> リンク)。 公開当時、映画館でなんども予告編を目にしながら、淫猥な雰囲気にたじろいでしまっていた。

香港に住むゲイの恋人同士、ウィン(レスリー・チャン)とファイ(トニー・レオン)。何かをやり直すために、アルゼンチンへと旅立つ。かれらは常に喧嘩し、嫉妬し、なまの感情をぶつけ合い、そのたびに互いのもとに戻る。やがて、ファイは、厨房の仕事仲間チャンと仲良くなり、それと同時に、ウィンと疎遠になる。チャンはパタゴニアの先を見届けてから台湾へと帰り、ファイはイグアスの滝で淋しさを噛みしめ、そして、台湾経由で香港へと帰る。

これは夜の映画である。浅い被写界深度と微妙に転ぶカラーバランス、そして広角レンズを多用して、覗き見しながら邪魔な存在をすべてこちら側に寄せようとする感覚。かれらは体温と体臭と息を感じる距離で生きている。そして、ピーカンの空の下では、寄る辺ない不安さによろめくように見える。

チャンともウィンとも遭えないファイだが、ファイは、遭おうと思えばいつでも遭えるという確信を、なぜか持っていた。生き物としての棲息域と、広い世界との奇妙な融合がそこにあって、それが旅心を刺激して困る。

●参照
ウォン・カーウァイ『恋する惑星』(1994年)
ウォン・カーウァイ『花様年華』(2000年)
ウォン・カーウァイ『楽園の疵 終極版』(1994/2009年)
ウォン・カーウァイ『グランド・マスター』(2013年)


ウカマウ集団の映画(5) ホルヘ・サンヒネス『叛乱者たち』

2014-05-06 10:31:54 | 中南米

新宿K's Cinemaで、ボリビア・ウカマウ集団/ホルヘ・サンヒネスの最新作『叛乱者たち』(2012年)を観る。

早めに着くと、太田昌国さん(日本でずっとウカマウ集団の活動を紹介・支援)がロビーにいて、ご挨拶。もうDVDは出来あがっていて書店でも売っているとのことで、ちょうど持っておられた『鳥の歌』を購入した。

上映前に、太田さんと津島佑子さんとのトークショーがあった。津島さんは、これまでの先住民族をめぐる言説の移り変わりとともに、オーストラリアのアボリジニの方が、福島原発において自分たちの土地で採掘されたウランが使われていたという現実に心を痛めると表明したことを紹介した。すべて、「まずは自分のこととして考える」事例として、である。太田さんは、日本は先住民族問題に関してずっと鈍感であり続けており、その意味でも、ウカマウ集団の映画を観る意義があるのだとしめくくった。

2006年、ボリビアにおいて、先住民族出身のエボ・モラレス政権が誕生した。このことが、如何に画期的な歴史的意味を持ち、また、今後への課題を孕んでいるのかといったことが、映画において、過去の再現をコラージュのように示す方法により、示される。

18世紀、先住民族たちが、トゥパク・アマル、トゥパク・カタリ、バルトリーナ・シサらを指導者として、植民地政府に対し武力蜂起を行った。半年もの戦いの末、裏切りによってカタリは処刑されるのだが、絶命前、カタリは「われわれは100万人になって戻ってくる!」と叫んだという。その後も、幾多の抵抗運動と弾圧があった。1944年に大統領となった白人のビリャロエルは、先住民への弾圧を緩和し、農地改革を行おうとして、保守層に抵抗されて失脚した。そして、水資源、天然ガスの民営化に抗する「水戦争」(2000年)、「ガス戦争」(2006年)は、新自由主義を排除する動きとなり、ついに、モラレス政権が誕生した。

「正史」という「大文字の歴史」においては語られない歴史である。パンフレットに太田さんが寄稿した文章によると、このような先住民族の歴史を可視化するウカマウ集団の活動自体も、かつては、弾圧されていた。従って、これらがプロパガンダ映画的であっても、それは権力の正当化・正統化のためではない。

ビリャロエル大統領の失脚の際、先住民の村では、「私たちを救おうとしたのに、私たちは彼を助けることをしなかった」と悔いている場面がある。また、サンヒネスの『第一の敵』(1974年)でも、チェ・ゲバラを支援できなかったことへの贖罪の気持が表明されているのではないかと感じた場面があった。キューバ革命を成功させたチェ・ゲバラは、次に、ボリビアでの革命をこころざすも、農民の支援を得られず、失敗に終っているのである。その反省を含め、ウカマウ集団の映画は作られ、上映されているということではないか。映画の中で、モラレス大統領の就任演説が流される。そこでは、18世紀のトゥパク・アマル、トゥパク・カタリ、バルトリーナ・シサに加え、チェ・ゲバラの名前も挙げられていた。

パンフレットには、藤田護「『叛乱者たち』はボリビアの現状を批判しうるか」という文章が寄稿されている。映画がモラレス政権の公式プロパガンダになってもいいのか、さまざまに噴出してきている政権の問題点にも目を向けるべきではないのか、という批判である。確かに、それは違和感として残る。

映画の中で、モラレス大統領が貧しい先住民とすれ違い、見つめ合う場面が2回ある。先住民はもの言わず、期待なのか、「風景」としてなのか、あるいは監視の表明なのか、厳しい目でモラレスを凝視する。わたしは、これこそが、映画のモラレスに向けられたメッセージではないのかと捉えた。

●参照
ウカマウ集団の映画(1) ホルヘ・サンヒネス『落盤』、『コンドルの血』
ウカマウ集団の映画(2) ホルヘ・サンヒネス『第一の敵』
ウカマウ集団の映画(3) ホルヘ・サンヒネス『地下の民』
ウカマウ集団の映画(4) ホルヘ・サンヒネス『ウカマウ』
モラレスによる『先住民たちの革命』
松下俊文『パチャママの贈りもの』 貨幣経済とコミュニティ(松下監督とサンヒネス)
太田昌国の世界 その24「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」
太田昌国の世界 その10「テロリズム再考」
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
『情況』の、「中南米の現在」特集
太田昌国『「拉致」異論』
太田昌国『暴力批判論』を読む
廣瀬純『闘争の最小回路』を読む
中南米の地殻変動をまとめた『反米大陸』


太田昌国の世界 その24「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」

2014-01-25 09:37:19 | 中南米

駒込の東京琉球館で、太田昌国の世界「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」と題した氏のトークがあった。

 

1時間半ほどの話の内容は以下のようなもの。(※当方の解釈による文章)

ソ連崩壊(1991年)から24年、四半世紀が経った。社会主義の敗北は無惨な結果を招いた。現在は理想を語ることが貶められており、現状の無限肯定が政治にもメディアにも浸透している。
○書店からも社会主義に関する本はほとんど姿を消し、むしろ中韓との戦争を煽るような雑誌が目立つ有様。これでは、市民が世界認識をしようとする際にどうなってしまうのか。
○しかし、チェ・ゲバラのみはなお「生きている」。実際に存命だとすれば、フィデル・カストロ、ガルシア・マルケス、加賀元彦らと同世代であり、思索を深めていた可能性があると夢想する。
○20世紀は「戦争と革命の時代」だった。革命はロシアで始まり、また、今年は、第一次世界大戦から100年目にあたる。
○第二次世界大戦後の秩序は、東西冷戦によって支配された。その中で、資本主義への対抗原理としての社会主義は、資本主義に優越するものとして、一定の力を持ちえた。
○1930年代に、ソ連においてスターリン主義体制が構築され、粛清と追放の嵐が吹き荒れる。実態に触れた者にとっては、「信じたくない現実」であった。アンドレ・ジイドなどは、そのために動揺した(『ソヴィエト紀行』)。情報量や思想的な構え方によっても異なるが、少なくない者が社会主義への幻滅を重ねていった。
○もちろん社会主義はソ連だけのものではなかった。第二の社会主義革命たるモンゴル革命(1921年)、中央アジアの諸民族共和国、東欧やバルト三国などは、ソ連とのどのような関係において成立していたのか。
○ソ連では、死後3年後のフルシチョフによるスターリン批判(1956年)まで、数十年間、スターリンの所業に対する批判は出てこなかった。批判を行うことは、すなわち死を意味した。
ハンガリー動乱(1956年)やスターリン批判は、「ソ連が社会主義の大事な祖国」ということへの疑問が公然化する時期でもあった。
○一方、世界では、スプートニク打ち上げ成功(1959年)や、「ナチスを打ち負かした国」という事実などの影響もあり、何となく社会主義に加担する者も多かった。混沌たる時代だった。
キューバ革命(1959年)は、決して社会主義者によるものではなく、バティスタ政権に対抗しての、正義感に駆られた若者たちによる革命であった。冷戦激化の時代に、米国にほど近い島国に革命政権が成立したことは、画期的なことだった。キューバは、ニッケル、さとうきび、葉巻たばこ、金融、通信・電信などの分野において、米国の支配下にあるような存在だった。
○キューバは革命後、土地改革などを通じて社会主義の実現に乗り出した。CIAはそれを潰そうと画策し、一方、ソ連はキューバに急接近した。つまり、この島国は、突然、冷戦構造内に叩きこまれたのだった。そしてキューバ危機(1962年)、米ソはキューバの頭越しに妥結した。如何に、小国が冷戦のなかで生き延びることが難しかったか。
○1968年、ソ連軍・ワルシャワ条約機構軍によるプラハ侵攻。「人間の顔をした社会主義」という独自路線を進めようとしたチェコスロバキアへの、ブレジネフによる介入だった。同年、アフガン侵攻。社会主義の実態を対外的に自己暴露したものといえた。
○対米行動であれば、自己の権力範囲内では何でもできたのだった。このことは、逆に、沖縄の米軍基地のように、対ソ行動であれば何でもできる米国陣営についてもいうことができた。
○人類史に決定的な影響をもたらした冷戦終結(1991年)。これは、特に第三世界において、人びとに精神の自由をもたらした。人びとは、国家のレベルではなく、個人のレベルで矛盾を口にすることができるようになった。たとえば、韓国において、慰安婦や軍人にされた人びとが声をあげ始める時期にあたる。国家レベルでの日韓基本条約(1965年)とは、異なるレベルであった。
○なぜ、「戦争と革命の世紀」を、革命から牽引した社会主義が、このように敗北したのだろうか?
○「党」は、ほんらいツァーリを倒すために構築された。あまりにも厳しい弾圧に抗するため、秘密主義や地下党のあり方となった。しかし、これが、権力奪取後も常態化してしまった。敵を内部につくりだす構造となり、また、自覚もセルフコントロールも効かない体制と化した。理想に向けての自己革新は、自己過信、自己の絶対化を生んだ。
○私的所有のあり方をなくそうとする経済は、非効率性に陥った。逆に、このような側面が、郵政民営化の際にみられたように、新自由主義にとってのスローガンとして有効なものとなった。
○軍事のあり方も変貌した。中国において、貧しい人びとや農民に向かい合った八路軍が、その後、天安門事件やチベットや新疆ウイグルにおいて人びとを弾圧する人民解放軍へと変わってしまったことが、象徴的である。
○日本は、ほんらい新憲法のもと軍隊のない世界を実現しうる立場にあったが、そうはならなかった。それでは、軍の力を社会のなかでどのように解除していけばよいのか?このままでは、軍という存在が政治・経済・社会のなかに組み込まれた米国をモデルにすることになってしまう。
○ロシア革命直後のロシア・アヴァンギャルドや、キューバ革命直後のドキュメンタリーなど、革命後には素晴らしい表現が生まれる。しかし。安定化した革命権力による統制は、表現の貧困化を生んでいった。
○社会主義は、現在のようなひどいあり方と異なる価値観を提示できたのだろうか? 資本主義秩序は、このまま続くのだろうか? 
○ゲバラは、社会主義がもつ多くの問題に対して、アンチテーゼを出してはいない。自覚できなかったという側面もあるだろう。しかしそれは、若くして亡くなったゲバラではなく、多くの問題に接した私たちが、言うべきことだろう。
○ゲバラの民族問題に対する認識にも微妙なものがあった。エジプト・ナセル大統領には、なぜ白人である君(ゲバラ)がコンゴに行くのかと問われ、有効な応答ができなかった。またボリビアでは、そもそも、先住民族のことばを話せなかった。
○メキシコにおけるサパティスタ人民解放軍の蜂起(1994年)から、20年。彼らは社会主義の欠点に自覚的であり、多くの見るべき論点を提示している。このことが、現在の反グローバリゼーションの動きにも示唆を与えている。
○日本における反原発運動は、労働運動が弱体化したなかで、組織の動員でない個人が動いているという点で、新しい運動の萌芽だろうとみている。
アナキズムの思想があらためて重要になっている。その際、反権力から権力に向かうのではなく、「非権力」「無権力」を目指すべきではないか。
○ゲバラ来日時(1959年)、無名戦士の墓に花を捧げるという日本政府の要請に対し、ゲバラは拒否し、広島行きを希望した。それは、加害の側ではないのか、という正しい歴史認識に基づくものだった。被害者意識による日本の平和運動が、この加害性を自覚するようになるのは、1960年代後半になってからのことである。

 ■

トーク終了後、太田さんを囲んで、東京琉球館の島袋さんによる料理を食べながら懇談。

ボリビアのホルヘ・サンヒネスによる新作『叛乱者たち』と、過去のウカマウ集団による作品群の上映は、4月末から新宿ケイズシネマで行う予定だそうである。また、『地下の民』、『第一の敵』、『鳥の歌』、『最後の庭の息子たち』については、DVD化もするのだという。楽しみだ。

●参照
太田昌国の世界 その15「60年安保闘争後の沖縄とヤマト」
太田昌国の世界 その10「テロリズム再考」
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
太田昌国『暴力批判論』
太田昌国『「拉致」異論』
チェ・ゲバラの命日
ウカマウ集団の映画(1) ホルヘ・サンヒネス『落盤』、『コンドルの血』
ウカマウ集団の映画(2) ホルヘ・サンヒネス『第一の敵』
ウカマウ集団の映画(3) ホルヘ・サンヒネス『地下の民』
ウカマウ集団の映画(4) ホルヘ・サンヒネス『ウカマウ』 


ウカマウ集団の映画(4) ホルヘ・サンヒネス『ウカマウ』

2013-12-31 11:28:10 | 中南米

ホルヘ・サンヒネス『ウカマウ』(1966年)を観る。ボリビアの映画製作グループ「ウカマウ集団」によっていくつかの映画が撮られてはいたものの、本作がボリビア初めての長編映画である。

小作農は、ジャガイモや魚を地主に買い取ってもらう。そこには圧倒的な生活水準の差と権力関係がある。ある日、地主は、小作農が自分のところに作物を納めずに町の市場に出かけたことを知る。地主は立腹し、さらには欲望に衝かれ、小作農の妻を暴行し、殺してしまう。町から帰ってきた小作農は死ぬ間際の妻から犯人の名前を知るが、彼はそれを隠す。地主は不安に憑かれ、贖罪の餅を口にしたり、精神のバランスを崩した言動を行うようになる。そして、地主がひとり鉱山に出かける機会が訪れる。小作農は追いかけ、復讐する。

権力関係の実態を晒そうとした映画なのだろうか。初長編にもかかわらず、サンヒネスの手腕は確かであり、クローズアップとカットバックが効果的。生活の手仕事、こちらを凝視する視線も印象的。

サンヒネスの新作『叛乱者たち』の日本公開はまだだろうか。モラレス政権のもと、サンヒネスは、どのような世界を見せようとしているのだろう。

>> ホルヘ・サンヒネス『Ukamau』

●参照
ウカマウ集団の映画(1) ホルヘ・サンヒネス『落盤』、『コンドルの血』
ウカマウ集団の映画(2) ホルヘ・サンヒネス『第一の敵』
ウカマウ集団の映画(3) ホルヘ・サンヒネス『地下の民』


アレホ・カルペンティエル『バロック協奏曲』

2013-09-29 19:23:34 | 中南米

アレホ・カルペンティエル『バロック協奏曲』(サンリオSF文庫、原著1974年)を読む。

メキシコの鉱山主が、ヨーロッパへの旅行を行う。途中のキューバで召使が死に、そこで気にいった黒人の若者を新たな召使にしながら。

しかし、粋で華やかなメキシコに比べ、スペインはぱっとしないところだった。主は早々にスペインに見切りをつけ、ヴェネチアへと移動する。そこで繰り広げられる饗宴、狂宴。主はアステカ滅亡時の王・モクテスマの格好をするが、その小道具は、征服者コルテスやモクテスマ王の物語をネタとしたオペラに使われてしまう。

音楽は、ヴィヴァルディからストラヴィンスキーまで時代を猛烈に進めてゆく。召使は、その中で、独自のリズムを繰り出して音楽の場を支配、「ジャム・セッション」などと呟く。そして、召使は、それらの音楽を根底から覆すようなルイ・アームストロングの出現を目撃するのだった。

時間を操り、体液とともに噴出してくる人間という怪物のエネルギーには、くらくらと眩暈を感じてしまう。短いながらも濃密極まる巨匠の世界に、やはり呑まれてしまうのだ。

もう1篇の「選ばれた人々」は、ノアのみならず、さまざまな世界においてそれぞれの神を戴く者たちが、巨大な船に多くの動物を載せ、同じ場所に漂着するという物語。このブラックユーモアは、デリダのいう宗教の「秘儀」を茶化しているようである。

近々、この『バロック協奏曲』が水声社から復刊されるようだが、改訳がなされるようなら、また手にとってみようと思う。

●参照
アレホ・カルペンティエル『時との戦い』(1956年)
ミゲル・リティンが戒厳令下チリに持ち込んだアレホ・カルペンティエル『失われた足跡』(1953年)


チャベス大統領が亡くなった

2013-03-06 08:27:30 | 中南米

ベネズエラ、ウゴ・チャベス大統領逝去の報。

強烈な個性と政治ゆえ賛否両論が喧しい存在だったが、ひとつの旗であったことは事実である。

野球好きで知られていた。WBCのベネズエラチームについても気にかけていたのだろうか。

ウーゴ・チャベス&アレイダ・ゲバラ『チャベス ラテンアメリカは世界を変える!』(作品社) ・・・ ゲバラとチャベス
本間圭一『反米大統領チャベス・評伝と政治思想』(高文研) ・・・ 貧困、軍隊、エネルギー資源、メディアなど日本との違い
伊藤千尋『反米大陸』(集英社新書) ・・・ 南米の政治的な動向
『情況』の、「中南米の現在」特集 ・・・ 太田昌国+足立正生という対談に注目
廣瀬純『闘争の最小回路 南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン』(人文書院) ・・・ 南米の地殻変動が持つ意味
太田昌国『暴力批判論』(太田出版) ・・・ 米国や日本を歴史的現実という鏡で視る、その手掛かりとして
モラレスによる『先住民たちの革命』  ・・・ チャベス政権と共通する側面
酒井啓子『<中東>の考え方』(講談社現代新書) ・・・ イランのアフマディネジャド大統領の評価においてチャベスを参照


マヤ・デレン『Divine Horsemen』

2012-04-14 00:52:54 | 中南米

マヤ・デレンハイチを訪れて撮ったドキュメンタリーフィルム、『Divine Horsemen』(1947-51年)を観る。

1時間弱の異様なフィルムである。ブードゥー教の祭祀は、それが非日常なのか日常なのかすら判らなくなってくる。定型が無いというのか、あり得ない動きでの踊りが続いていく。しかも彼らは、普通の延長として神と交感し、神と一体化し、白目を剥いている、としか思えない。

様々な神が登場する。中には、アーヴィング・ペン『ダオメ』において記録したレグバ神も紹介される。ペンが訪れたのはアフリカのダオメ共和国(現在のベニン)であったが、この地からハイチに奴隷が送られていたのである。勿論、ブードゥーも同時に海を渡った。

底知れないユーモアもある。巨大な顔の張りぼてをかぶった人びとがねり歩く様子を見ていると、自分の立脚点が何やら危くなってくる。凄まじい魔力なのだ。マヤ・デレンは実験映画作家として有名な存在ではあるが、生贄の儀式をスローモーションで撮っているところに「らしさ」を感じた以外には、連続性は感じられない。マヤ・デレンもこれに魅せられて通い、作家性を発揮する以上に呑みこまれてしまったということなのだろうか。

そして、延々と続くポリリズムのドラミングは陶酔を誘う。ナレーションでは、これがジャズにも影響を与えたとしている。

フィルムの最後には、ジョナス・メカスへの謝辞の文字を見ることができる。メカスがこのフィルムについて何を考えているかと思い、『メカスの映画日記』を開いてみたが、言及はなかった。そういえば、四方田犬彦『星とともに走る』(>> リンク)に、メカスからマヤ・デレンの研究書を貰う場面があった。

●参照
「まなざし」とアーヴィング・ペン『ダオメ』


ニコラス・エチェバリーア『カベッサ・デ・バカ』

2011-07-23 10:19:06 | 中南米

ニコラス・エチェバリーア『カベッサ・デ・バカ』(1991年)を初めて観たのは、1997年の「メキシコ映画祭」においてだった。その後英語字幕版のVHSを入手し、何度も観ている。改めて観ても面白い。



「メキシコ映画祭」パンフレット(1997年)より

カベッサ・デ・バカはスペイン・セビリア出身の探検家である、というと聞こえはいいが、「白い侵略者」であり「treasurer」だった。1528年にフロリダに上陸、8年間の放浪と虜囚を経て、母国スペインの組織的な侵略者たちに遭遇する。コルテスの上陸とアステカ王国征服より後である(上陸地点を含め、「メキシコ映画祭」パンフレットの解説は間違っている)。

バカが住民に捕えられ、両腕のない小人の王や魔術師に翻弄され、そのうちに自らが死んだ女性を生き返らせる魔術師と化す様は、まさに、かつてラテンアメリカ文学を表現する際に用いられた「魔術的リアリズム」そのものだ。上陸時の仲間に遭遇するも、彼らは空腹のあまり、死んだ仲間の肉を食べては生き延びていた。

そして8年後、彼らはスペインの軍隊に取り囲まれる。侵略者は、大聖堂を建築するのに奴隷がさらに何百人も必要だ、住民に人望のあるお前が集めてくれ、と命令する。バカは既に侵略者ではなかった。建築中の大聖堂や奴隷たちを指さし、ここはスペインなのか?と絶叫する。もちろん新たに「発見」された土地は、コロンブス後、スペイン人の見地からはすべて法的にスペインのものだと見なされていた。


増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史』(中公新書)より

一方、バカのかつての仲間は、救出された後、得意になって酒を飲みながらほら話を繰り広げる。虜囚されていたときに「3つの乳首を持つ女」と交わるように強制されたが他は普通だったぜ、と笑わせ、黄金の町があったと場を盛り上げる。黄金帝国を探す野望が漲っていた時代だった。

●参照
ジャック・アタリ『1492 西欧文明の世界支配』
マノエル・ド・オリヴェイラ『コロンブス 永遠の海』