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自縄自縛日記

太田昌国の世界 その24「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」

2014-01-25 09:37:19 | 中南米

駒込の東京琉球館で、太田昌国の世界「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」と題した氏のトークがあった。

 

1時間半ほどの話の内容は以下のようなもの。(※当方の解釈による文章)

ソ連崩壊(1991年)から24年、四半世紀が経った。社会主義の敗北は無惨な結果を招いた。現在は理想を語ることが貶められており、現状の無限肯定が政治にもメディアにも浸透している。
○書店からも社会主義に関する本はほとんど姿を消し、むしろ中韓との戦争を煽るような雑誌が目立つ有様。これでは、市民が世界認識をしようとする際にどうなってしまうのか。
○しかし、チェ・ゲバラのみはなお「生きている」。実際に存命だとすれば、フィデル・カストロ、ガルシア・マルケス、加賀元彦らと同世代であり、思索を深めていた可能性があると夢想する。
○20世紀は「戦争と革命の時代」だった。革命はロシアで始まり、また、今年は、第一次世界大戦から100年目にあたる。
○第二次世界大戦後の秩序は、東西冷戦によって支配された。その中で、資本主義への対抗原理としての社会主義は、資本主義に優越するものとして、一定の力を持ちえた。
○1930年代に、ソ連においてスターリン主義体制が構築され、粛清と追放の嵐が吹き荒れる。実態に触れた者にとっては、「信じたくない現実」であった。アンドレ・ジイドなどは、そのために動揺した(『ソヴィエト紀行』)。情報量や思想的な構え方によっても異なるが、少なくない者が社会主義への幻滅を重ねていった。
○もちろん社会主義はソ連だけのものではなかった。第二の社会主義革命たるモンゴル革命(1921年)、中央アジアの諸民族共和国、東欧やバルト三国などは、ソ連とのどのような関係において成立していたのか。
○ソ連では、死後3年後のフルシチョフによるスターリン批判(1956年)まで、数十年間、スターリンの所業に対する批判は出てこなかった。批判を行うことは、すなわち死を意味した。
ハンガリー動乱(1956年)やスターリン批判は、「ソ連が社会主義の大事な祖国」ということへの疑問が公然化する時期でもあった。
○一方、世界では、スプートニク打ち上げ成功(1959年)や、「ナチスを打ち負かした国」という事実などの影響もあり、何となく社会主義に加担する者も多かった。混沌たる時代だった。
キューバ革命(1959年)は、決して社会主義者によるものではなく、バティスタ政権に対抗しての、正義感に駆られた若者たちによる革命であった。冷戦激化の時代に、米国にほど近い島国に革命政権が成立したことは、画期的なことだった。キューバは、ニッケル、さとうきび、葉巻たばこ、金融、通信・電信などの分野において、米国の支配下にあるような存在だった。
○キューバは革命後、土地改革などを通じて社会主義の実現に乗り出した。CIAはそれを潰そうと画策し、一方、ソ連はキューバに急接近した。つまり、この島国は、突然、冷戦構造内に叩きこまれたのだった。そしてキューバ危機(1962年)、米ソはキューバの頭越しに妥結した。如何に、小国が冷戦のなかで生き延びることが難しかったか。
○1968年、ソ連軍・ワルシャワ条約機構軍によるプラハ侵攻。「人間の顔をした社会主義」という独自路線を進めようとしたチェコスロバキアへの、ブレジネフによる介入だった。同年、アフガン侵攻。社会主義の実態を対外的に自己暴露したものといえた。
○対米行動であれば、自己の権力範囲内では何でもできたのだった。このことは、逆に、沖縄の米軍基地のように、対ソ行動であれば何でもできる米国陣営についてもいうことができた。
○人類史に決定的な影響をもたらした冷戦終結(1991年)。これは、特に第三世界において、人びとに精神の自由をもたらした。人びとは、国家のレベルではなく、個人のレベルで矛盾を口にすることができるようになった。たとえば、韓国において、慰安婦や軍人にされた人びとが声をあげ始める時期にあたる。国家レベルでの日韓基本条約(1965年)とは、異なるレベルであった。
○なぜ、「戦争と革命の世紀」を、革命から牽引した社会主義が、このように敗北したのだろうか?
○「党」は、ほんらいツァーリを倒すために構築された。あまりにも厳しい弾圧に抗するため、秘密主義や地下党のあり方となった。しかし、これが、権力奪取後も常態化してしまった。敵を内部につくりだす構造となり、また、自覚もセルフコントロールも効かない体制と化した。理想に向けての自己革新は、自己過信、自己の絶対化を生んだ。
○私的所有のあり方をなくそうとする経済は、非効率性に陥った。逆に、このような側面が、郵政民営化の際にみられたように、新自由主義にとってのスローガンとして有効なものとなった。
○軍事のあり方も変貌した。中国において、貧しい人びとや農民に向かい合った八路軍が、その後、天安門事件やチベットや新疆ウイグルにおいて人びとを弾圧する人民解放軍へと変わってしまったことが、象徴的である。
○日本は、ほんらい新憲法のもと軍隊のない世界を実現しうる立場にあったが、そうはならなかった。それでは、軍の力を社会のなかでどのように解除していけばよいのか?このままでは、軍という存在が政治・経済・社会のなかに組み込まれた米国をモデルにすることになってしまう。
○ロシア革命直後のロシア・アヴァンギャルドや、キューバ革命直後のドキュメンタリーなど、革命後には素晴らしい表現が生まれる。しかし。安定化した革命権力による統制は、表現の貧困化を生んでいった。
○社会主義は、現在のようなひどいあり方と異なる価値観を提示できたのだろうか? 資本主義秩序は、このまま続くのだろうか? 
○ゲバラは、社会主義がもつ多くの問題に対して、アンチテーゼを出してはいない。自覚できなかったという側面もあるだろう。しかしそれは、若くして亡くなったゲバラではなく、多くの問題に接した私たちが、言うべきことだろう。
○ゲバラの民族問題に対する認識にも微妙なものがあった。エジプト・ナセル大統領には、なぜ白人である君(ゲバラ)がコンゴに行くのかと問われ、有効な応答ができなかった。またボリビアでは、そもそも、先住民族のことばを話せなかった。
○メキシコにおけるサパティスタ人民解放軍の蜂起(1994年)から、20年。彼らは社会主義の欠点に自覚的であり、多くの見るべき論点を提示している。このことが、現在の反グローバリゼーションの動きにも示唆を与えている。
○日本における反原発運動は、労働運動が弱体化したなかで、組織の動員でない個人が動いているという点で、新しい運動の萌芽だろうとみている。
アナキズムの思想があらためて重要になっている。その際、反権力から権力に向かうのではなく、「非権力」「無権力」を目指すべきではないか。
○ゲバラ来日時(1959年)、無名戦士の墓に花を捧げるという日本政府の要請に対し、ゲバラは拒否し、広島行きを希望した。それは、加害の側ではないのか、という正しい歴史認識に基づくものだった。被害者意識による日本の平和運動が、この加害性を自覚するようになるのは、1960年代後半になってからのことである。

 ■

トーク終了後、太田さんを囲んで、東京琉球館の島袋さんによる料理を食べながら懇談。

ボリビアのホルヘ・サンヒネスによる新作『叛乱者たち』と、過去のウカマウ集団による作品群の上映は、4月末から新宿ケイズシネマで行う予定だそうである。また、『地下の民』、『第一の敵』、『鳥の歌』、『最後の庭の息子たち』については、DVD化もするのだという。楽しみだ。

●参照
太田昌国の世界 その15「60年安保闘争後の沖縄とヤマト」
太田昌国の世界 その10「テロリズム再考」
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
太田昌国『暴力批判論』
太田昌国『「拉致」異論』
チェ・ゲバラの命日
ウカマウ集団の映画(1) ホルヘ・サンヒネス『落盤』、『コンドルの血』
ウカマウ集団の映画(2) ホルヘ・サンヒネス『第一の敵』
ウカマウ集団の映画(3) ホルヘ・サンヒネス『地下の民』
ウカマウ集団の映画(4) ホルヘ・サンヒネス『ウカマウ』 


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