鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.4月取材旅行「春日~菊坂~本郷三丁目」 その最終回

2009-04-30 06:31:50 | Weblog
明治12、3年頃の東京大学の構内の様子が、馬場孤蝶の『明治の東京』に次のように描かれています。「明治十二、三年ごろは大学の構内には、医科即ち当時は医学部といっていたのがあったばかりで、この旧加賀邸の赤門寄りの方は、茫々たる薄原(すすきはら)で、その草の間に、昔の井戸の跡なのであろうが、黒く塗った木を框(わく)にして、危険除けの目印にしてあるのが幾つとなく見えるのが、ひどく寂しく感ぜられた。門をはいって右手寄りには、椿の一杯生えた円形の小山があって、冬になると、よく鳩がかしわの腹を木(こ)の間(ま)から見せた。…その時分には、その草原には狐が大分いた。…大学構内には池寄りの方に雑木や藪などのある小さい小山があった。上り路(みち)が迂回してついているので、栄螺山(さざえやま)と呼ばれていた。その頂(いただき)からは、小石川の砲兵工廠の裏手あたりは勿論のこと、神田、日本橋へかけての下町が、随分遠くまで見渡せるのであったが、その時分には、下町の方面でも東神田から、浜町辺(はまちょうへん)へかけては、樹木のあるところが余ほど多かった。家の屋根と、そういう樹木が錯綜しているところが実に心持のいい眺めであった。」 大学の赤門前を走る「本郷通り」にしても、今と随分違います。孤蝶は次のように言っています。「大学の赤門前などは、まるで田舎であった。確に兼安までは江戸のうちで、それから先きはどうしても宿場といわなければならなかった。縄暖簾の居酒屋あり、車大工の店あり、小宿屋ありという風で、その前をば、汚さを極めた幌かけの危うげな車体をば痩せ馬に輓かせたいわゆる円太郎馬車がガラッ駈けを追って通るのだから、今の大抵の田舎町よりもなお田舎びているくらいであった。」 この乗合馬車(円太郎馬車)は、筋違(すじかい)から神田明神前→本郷通り→追分→白山前などを経て板橋へ通っていました。御者(ぎょしゃ)のほかに別当(馬丁)がついていて、その別当が喇叭(ラッパ)を吹いて、通行人に注意を与えていたのだという。孤蝶は、馬が暴れ出して、加賀邸前、四丁目辺りの薪屋(まきや)の外の高く積んだ薪へ突き当たって、薪(たきぎ)の山が崩れたのを目撃したことがありました。この「本郷通り」が実はかつての中山道。明治10年代においても、まだまだ旧街道筋の面影を残していたということがよくわかります。 . . . 本文を読む