鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.10月「不動坂~本牧~根岸」取材旅行 その4

2008-10-18 06:08:46 | Weblog
 丘陵の崖下の道を進むと、間もなくJR根岸線の第1根岸ガードを潜ります(9:20)。道なりに進んで行くと(左手にカーブ)、右手に巨大な石油タンクがいくつか見えますが、これは「新日本石油精製(株)」の根岸製油所であるようだ。左に「山手警察署間門(まかど)交番」を見て、さらに道を進むと「東福院入口」信号と「東福院前」バス停が見えてきました。

 中消防署本牧和田消防出張所のところから丘陵寄りの道に一本入って、その道を少し戻ると、右手に「高野山真言宗間門山東福院」がありました。「高野山真言宗」と言えば、「本牧せせらぎ公園」から少し山際に入った「天徳寺」というお寺も、同じ宗派でした。

 ここの門を入って目についたのは、門を入り右手に並んでいた戦没兵士の碑やお墓でした。「故陸軍歩兵伍長○○○○之碑」とか「故陸軍歩兵一等卒勲八等功七級□□□□碑」、「故陸軍騎兵上等兵△△△△墓」などと刻まれています。目を引いたのは、□□□□碑の前に、石で造られた大砲と砲弾(二つ)が置かれてあったこと。この砲弾の先端(尖った部分)は穴が彫られて線香立てになっていました。よく見ると、隣の「故陸軍砲兵助卒勲八等◇◇◇◇之碑」の前にも同じ大砲と砲弾が置かれ、また最初に見た○○○○之碑の前の線香立ても石の砲弾でした。

 茨城県の那珂港(ひたちなか市)のお寺だったでしょうか。そのお寺の墓地で、お墓自体が戦車の形(キャタビラも彫られている)になっていて、石の円筒形の大砲が突き出ている墓石を見たことがありますが、あれも戦没した陸軍砲兵のお墓であったことを思い出しました。石造りの砲弾の先端が線香立てになっているというお墓が複数以上並んでいるというのは珍しい。

 その線香立てにお線香を立てる人は、どういう思いで、その石造りの砲弾や大砲を見詰めたことでしょうか。

 それぞれの碑や墓の写真を撮って、9:46に東福院を出ました。

 その門前の道を本牧方面へ。

 左手に「横浜市立本牧中学校」。土曜日ですが、ブラスバンド部の演奏の音やサッカーなど運動系の部活の声が聞こえてきます。

 「本牧和田西通り」を通って「新本牧公園」を横切ると、「Denny‘s 新本牧店」のところに出ました。ここが本牧神社へと伸びる「お馬通り」の入口にあたる。

 これで、「外国人遊歩道」を一巡したことになります(ちょうど10:00)。

 この地点から、「本牧通り」を根岸方面に向かって戻ることに。

 「二の谷」バス停、「東福院前」バス停を過ぎ、高速湾岸線の手前、「間門(まかど)」信号のところで右折。横断歩道を渡ったところの歩道左手に、「根岸の富士見石と大島櫻」というやや古い案内板が立っていました(その右手に「ファミマ」がある)。それによると、この旧間門・根岸の海岸は、山本周五郎が終生愛した憩いの海岸であったとのことで、ここからは本牧海岸・房総半島・三浦半島、そして西に富士山が望め、また港横浜の出船入船が見えたという。

 今はなんの面影もありません。

 依然降り続いている雨の中を、傘を差しながら歩く。

 左に「新日本石油精製(株)」の広大な敷地を見て、やがてJR根岸線の高架を潜ると、そこは「根岸七曲り下」のバス停。かつてはこ「の七曲り」の坂が、根岸村から丘陵上に登っていく道筋であったに違いない。一本丘陵寄りに旧道らしき細い道が伸びています(「中通り」と言うらしい)。これがベアトの写真に写っている根岸村の、海岸線に沿った長細い家並みの中を走っている生活道であったのかも知れないと思いつつ道を進み、途中で左折。広い「本牧通り」を突っ切ると、その奥がJR根岸駅でした。

 12:30に、京浜急行「汐入駅」に出向く用事があったため、この根岸駅前からタクシーに乗り、京浜急行「屏風ヶ浦駅」まで向かいました。

 道中、運転手さんと話をしましたが、そのおじさんはタクシー会社の寮に一人住まい。病気で6ヶ月入院生活を送ったことがあるとのことですが、それ以来歩くとおかしい感覚があるのだという。腰痛には気を付けているけれども、足腰は確実に弱くなっていると感じているとのこと。しかしタクシードライバーということもあってまず歩かないらしい。マラソン選手の話になりましたが、「自分は20mも走れば倒れるだろう」とそのおじさんは言う。栄養バランスのとれた料理を作って食べることも必要だろうと思って本を買ったりするが(助手席には、買ったばかりの料理本が置いてありました)、作っているうちになぜか腹一杯になり、食欲が出てこないのだという。

 「雨が降っていなければ、京浜急行の最寄駅まで歩いたんですが……」と私が言うと、その運転手さんはびっくりしていました。

 「屏風ヶ浦駅」前でタクシーを下車。久しぶりに横須賀方面に向かう京浜急行を利用することに。行き先は「汐入駅」。ホームに入ってきたエンジ色の普通「浦賀行き」の電車に乗り込みました。



○参考文献
・『横浜 船と港ものがたり』宮野力哉(東京堂出版)
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『イザベラ・バードの日本紀行(上)』イザベラ・バード/時岡敬子訳(講談社学術文庫)


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
不動坂について (団塊世代)
2009-04-03 10:45:06
私、横浜京急沿線以外に在住です。同様にベアトの不動坂を探しております。しかしまだ見つけておりません。写真の画角からしますと、京急杉田駅から京急が根岸線の下を通過するあたりの間ではないかと思われます。2から3回そのあたりを歩きましたが、いまだにこれといった確証の持てる場所は見つけておりません。私自身も謎です。頑張って下さい。
不動坂について (鮎川俊介)
2009-04-03 20:56:36
「団塊世代」さんへ

 コメント、ありがとうございます。

 ベアトの写真に写っている「不動坂」は、現在の「不動坂上」バス停から「白滝不動尊前」の信号のあるところへ下っている坂道で、これは間違いないのですが、根岸から冨岡の方へ抜ける旧道のルートが、実際歩いてみてもよくわかりませんでした。もしかしたら山を越える旧道の部分はもう跡形もないのかも知れません。

 横浜の居留地に住んでいた外国人は、根岸経由で馬に乗って金沢や鎌倉、そして江の島方面へ向かうことも多かったので、山道といっても馬に乗って進むことができるような道であったと思われます。

 今後、もしわかりましたら教えていただけると幸いです。 
 
 今後とも、よろしくお願いします。
 
                    鮎川俊介

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