鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

ヘンリー・ヒュースケンの見た幕末の江戸 その2

2010-07-25 06:25:35 | Weblog
 ヒュースケンによれば、江戸市中へ入るべく品川宿本陣で威儀を整えたハリス一行の行列は、下田の副奉行若菜三男三郎の乗った乗物(高級駕籠)から始まりました。次のハリスの乗物がアメリカ合衆国の旗を先に立てて進み、その次がヒュースケンの乗物。ハリスの乗物には10名の護衛の武士、ヒュースケンのそれには3人の護衛の武士が付きました。その次は日本人通訳の駕籠でしたが、実際は、日本人通訳である名村常之助は、アメリカ側通訳のヒュースケンの乗物の戸のそばに付いて歩いたようだ。

 その他に合原猪三郎ら役人が乗る乗物や駕籠が3台。乗物が4台で駕籠が3台の大行列。

 総勢は、馬丁や下男や傘持ち、靴持ち、乗物や駕籠を担ぐ人足たち、料理人、下男、警護の武士、またそれぞれの役人の従者たちを入れるとおよそ200人。

 その大行列が品川宿を出発する。

 その品川宿から九段下の蕃書調所までは、ハリスの一行を一目見ようと、東海道や江戸市中の道筋に人々がびっしりと集まり、人垣ができていました。

 窮屈な乗物の窓から、ヒュースケンは街道筋の両側に集まった群衆を見ているのですが、彼ら群集は話し声一つせず、礼儀正しく行列が通り過ぎるのを眺めていました。ただ、通過する時に外国人が乗った乗物の中をのぞきこもうとして互いにひしめきあう程度でした。

 江戸の街路は碁盤目状に区切られているようで、それぞれの区域のはずれには関門が設けられていました。行列が近づくとその関門は開かれ、最後の者が通過するとその関門はすぐに閉じられました。各区域の「警官隊」は、その区域の入口から出口まで一行に随行し、そして次の区域の「警官隊」と交替する。それを次々と繰り返していくわけです。

 その「警官隊」の描写は次の通り。

 「彼らは道化役者のような、白と赤の模様のついた濃紺のブラウスを着て、手には鉄の棒を持っていたが、その上端には鉄の環の飾りがついていて、一足ごとにじゃらじゃらと音をたてた。」

 ヒュースケンは、行列を見ようと集まってきた大群集を統御している秩序というものにいたく感動したようだ。

 自分の国の大都会ではこうはいかない。もし同じような状態に置かれたとしたら、多くの子どもが踏み殺され、酒に酔った者たちによって、使節の顔を目がけて腐ったリンゴはおろか石鹸まで飛んだに違いない。喚声や奇声も発せられただろう。

 ところが江戸では、「もし人々が前に押し出してきて、われわれの通過を妨げるようになっても、一人の役人が紙の扇子を一振りするだけで、何百人という人びとを後ずさりさせることができるのであろう。」

 同じような光景に接して、あのオールコックも同じようや感動を述べている部分が『大君の都』にありました。場所は東海道の小田原宿。騎馬のオールコック一行を一目見ようと近在近郷から群集が街道筋に集まったわけですが、役人の一声で、彼らは道の両側で静かに待機し、一行の通り過ぎるのを見物していたのです。

 「これがロンドンの街中であったら……」と、オールコックはヒュースケンと同じような想像をめぐらしています。

 ヒュースケンは乗物の窓から、道筋に群がり集まっている男や女や少年少女たちを眺めています。彼らの目は、鋭い好奇心で忙しく動いています。あらゆる人々が日課の仕事を放り出して、押し合いへしあいしている。何のためかといえば、外国人2人を乗せたそれぞれの乗物の中を、一目のぞいてみたいからだ。

 大名屋敷が建ち並ぶ区域においてはどうか。

 乗物の中のヒュースケンは、大名屋敷の格子や錣板(しころいた)の向こうに、身分のある若い女性の頭髪の輪郭を発見したり、ごくまれに錣板の間から二つの黒い瞳や白い小さな手がのぞいているのを目撃する。大名屋敷の女たちにとっても、ハリス一行の通過は興味深い出来事であったのです。

 ヒュースケンは、「宿舎(蕃書調所)は皇城の第三番めの囲い(郭)の中」にあったと記しています。これは、どういうことか。

 ハリス一行の江戸市中におけるルートは、本町二丁目からは、お堀端通り→鎌倉河岸→三河町→小川町通り→牛ヶ淵の蕃書調所、というものでした。

 『復元江戸情報地図』を見てみると、本町二丁目から本町一丁目をすぎるとたしかにお堀端に出ます。出たところで左手に架かっているのが常盤橋。その出たところを右折して、左手にお堀を見ながら進み、竜閑橋を渡るとそこが鎌倉河岸。三河町、小川町通りを通過して、雉子(きじ)橋か俎(まないた)橋を渡って、牛ヶ淵(内堀)の蕃書調所の門前に到着したものと思われます。

 日本橋→竜閑橋→雉子橋(俎橋)と、三つのお堀を橋で渡ったところから、ヒュースケンは「宿舎」は「第三番めの囲いの中」にあった、としたのだろうか。よくはわからない。

 そのルートから考えて、ヒュースケンが「身分のある若い女性」の「頭髪の輪郭」や、「二つの黒い瞳」や「白い手」を見掛けた大名屋敷があったのは、小川町あたりであったと思われます。


 続く


○参考文献
・『ヒュースケン日本日記』(岩波文庫/岩波書店)
・『復元江戸情報地図』(朝日新聞社)


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