鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.11月取材旅行「両国界隈~江戸東京博物館」その4

2010-11-19 06:20:09 | Weblog
 「石尊垢離場跡」の案内板には、「石尊」とは、神奈川県伊勢原市にある大山(おおやま)のことをさし、そこにある阿夫利(あぶり)神社は、商売繁盛と勝負事にご利益があるとのことで、江戸っ子たちが講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけた、と記されています。

 彼らは出発前に水垢離(みずごり)をとりますが、その体を清めるための垢離場(こりば)が、旧両国橋(東詰)の南側にあり、川の底には石が敷いてあって、胸のあたりまで水に浸かり、「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子……」などと唱えながら屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを隅田川に流したといい、その賑わいは真夏の海水浴場のようであったとも。

 絵もその案内図には掲載されていますが、「大山石尊大権現」という文字が大きな木太刀に黒々と書かれていますが、この木太刀は、北斎の『絵本隅田川両岸一覧』の両国橋を描いた部分にも描かれていました。

 赤穂浪士の休息地を示す案内板には、討ち入りを果たした赤穂浪士は、ここで休息したものの諸大名との衝突を避けるためにこの旧両国橋は渡らずに、一之橋(竪川に架かる)→永代橋を経由して泉岳寺に向かったことが記されていました。

 吉良上野介の上屋敷は、本所二ツ目にありました。

 駐車場脇に立つこの3枚の案内板を見た後、左手へと進み、途中で右折して隅田川の堤防の上に上がりました。ここから隅田川の広がりとその上流に架かる両国橋を眺めることができますが、この視界の中に、かつては旧両国橋とその手前の石尊垢離場があったことになります。

 左下の隅田川テラスへと下り、そこから両国橋東詰手前まで歩いて、ふたたび堤防の上に上がって、今度は南側を眺めてみました。やはり、この視界の中に、かつては旧両国橋と、その東詰南向こうの川岸に石尊垢離場が見られたことになります。

 「もゝんじゃ」の前を通って、「一之橋」に通ずる「一の橋通り」を右折。途中で左折すると、左手に小さな門がありましたが、それが回向院の寺域へ入る裏門のようなものでした。

 その門を入ると、右手奥に墓があって、それはなんと鼠小僧次郎吉の墓でした。やってきた男女高校生数人がその墓を詣でたり触ったりしています。彼らのお目当てはその鼠瀬小僧次郎吉のお墓であったらしい。

 寺域を、右手の墓地とは反対側の方向へ進んで行くと、「岩瀬京伝墓」「加藤千蔭墓」「岩瀬京山墓」の案内板がありました。「岩瀬京伝」とは「山東京伝」のこと。「岩瀬京山」はその京伝の弟で、京伝の墓を建立したのはその京山であったという。岩瀬京伝は深川木場の質屋に生まれ、住んでいた京橋南伝馬町から「京伝」とし、愛宕山の東にあたることから「山東」としたということは、この案内板の説明で初めて知りました。

 ここから墓地の方へと歩いていくと、目に入ってきたのは、各種の供養塔でした。「石造明暦大火横死者等供養塔」は、明暦3年(1657年)1月のいわゆる「明暦の大火」の焼死者や溺死者を始めとして、入水者や牢死者、行路病死者、処刑者など、「横死者」に対する供養のために建立されたもの。「回向院」の「回向」とは、それらの「横死者」に対する供養(回向)に因んでいます。この「石造明暦大火横死等供養塔」の位置は、ほかの堂舎などは移動したりしているものの、ほとんどもとの位置から動いていないという。

 さらに関東大震災の「大震災横死者之墓」や天明元年の「信州上州地震横死者」の供養塔もあり、また特に注意を引いたのは、「海難供養碑群」(六基)でした。

 ①勢州白子三州高濱船溺死者供養塔(寛文元年〔1789〕)②勢州白子参州平坂溺死者供養塔(文政11年〔1814年〕)③勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養塔(文政8年〔1825〕)④「南無阿弥陀仏」海上溺死群生追福之塔(文政10年〔1827〕建立・安政3年〔1856〕再建)⑤紀州本宮徳福丸富蔵船溺死人之墓(安政4年〔1857〕)⑥溺死四十七人之墓の六基。

 ②を建立したのは、江戸大伝馬町太物問屋仲間であり、④を建立したのは菱垣廻船十組問屋。⑤は樽廻船問屋と酒問屋組合等の荷受人たちが建立したもの。⑥は、明治2年(1869年)に上総川津村(現在の勝浦市川津)沖で沈没した肥後の軍艦の溺死者を供養するもの。

 「勢州白子」や「三州」(参州)という地名、「菱垣廻船」「樽廻船」「十組問屋」「太物問屋」「酒問屋」といった文字が、特に興味を惹きます。

 一般の墓地内へと入ってみましたが、狭い墓地の塀際にも、へばりつくようにして小さな墓が密集していました。おそらくこの墓域も、かつてはもっとずっと広いものであったのでしょう。


 続く


○参考文献
・『広重「名所江戸百景」の世界』(川崎市市民ミュージアム)


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