JR相模湖駅前から国道20号に出て右折。藤野・上野原方面へと国道を進むと右手に与瀬本陣跡(坂本家)が現れます。
そこからやや先へ行った向かい側にあるのがセブンイレブン相模湖西店。その先に神奈中の「与瀬神社前」バス停があります。
与瀬本陣跡の左側の道を入って行くと慈眼寺や与瀬神社の参道前に出ます。その道が甲州街道の本道。
では脇道の「二瀬越」の近道へと下って行く道はどこにあったのか。
セブンイレブンと神奈中の「与瀬神社前」バス停の間に左へと入る道があり、角には「与瀬上町集会所」があります。
私はこの道がそうではないかと推測して入ってみましたが、突き当りで道は右に折れ人家の敷地にぶつかり、左手にも人家がある。また正面(南側)には相模湖の湖面が望めましたが、下におりていけるような道はありませんでした。
勝瀬がダム湖に沈む前には、与瀬から下っていくと相模川に架かる「二瀬越」の橋があって、勝瀬の集落に「北相自動車」があったことから推測すると、この坂道は車が通れる道であったと思われる。
となるとセブンイレブンの少し手前で左に折れる道があり、右手に「NTT東日本相模湖ビル」がある通りが車が通れる道として、つまりかつての甲州街道の脇道の候補として挙げることができますが、もちろん勝瀬へと下って行く道は途中で途切れています。
セブンイレブン相模湖西店の角を入ったところにある商店の方にお聞きしたところ、店の前の道はかつて勝瀬におりることができたということなので、この道も候補として捨てがたい。
広重は「此宿(このしゅく)かどやといふ茶屋の脇よりまがりて近道へかゝる」と記しているので、「かどや」という茶屋の所在地が分かれば、この脇道の入口はわかるというもの。
NTT東日本相模湖ビル」のある通りか、それともセブンイレブンの横の道か、いずれかが勝瀬へと下りていく脇道であったと推測されますが、確定はできませんでした。
ところで『湖底への追憶』に掲載されている写真には、「昭和6年までの勝瀬の渡し・手前は二瀬越橋の工事の現場」というのがあります。
勝瀬の相模川に二瀬越(ふたせこし)橋が架かる前の「勝瀬の渡し」の渡し場付近の風景です。
向こう側に見えるのは吉野の河岸段丘で、左上の富士山のように見える三角形の山は上野原の南(鶴島)にある御前山(ごぜんやま)。
対岸の森は勝瀬集落の端であり、森の左手に勝瀬の集落があることになります。
撮影地点は与瀬からその南の河岸段丘を下ったところにある河原。
その河原から相模川を渡れば勝瀬となり、勝瀬の集落を抜けてふたたび相模川にぶつかったところに渡しがあり、そこで川を渡って河岸段丘を上ったところが吉野でした。
相模川には人の乗った渡し船が浮かび、また荷船と思われる長い船が向こう岸(勝瀬側)に接岸されています。広い河原には一面に丸い石がゴロゴロとしています。
江戸時代における「勝瀬の渡し」をしのぶことができる風景で、甲州街道の脇道である「二瀬越」を歩いた旅人は、こういう風景を眺めながら歩いたのであろうことがわかる写真。
もちろん広重もこういった風景の中を、勝瀬の渡しの「渡し船」に乗って旅していったのです。
続く
〇参考文献
・『湖底への追憶』
二瀬越橋(1931年完成)の開通前の道は、明治29年修正「上野原」1/50000地形図を見ると、橋の与瀬側付近からほぼ直登し、上がってから若干の曲がりを経て街道に出ています。これは記事中の「与瀬上町集会所」の角を入る道であると私は考えています。
またこれに対して、記事中の「『NTT東日本相模湖ビル』がある通り」は、橋の与瀬側から東に向かって山の斜面を斜めに上がり、急カーブで西に反転して上がる道で、現在はその急カーブから上が残っています。この道は明治の地形図にはなく、橋の完成の前後に新たに作られたものだと思います。
さらに、与瀬上町集会所のところから下りたと思われる道の痕跡は、現在の「地理院地図」に表れているように見えます。また、国土地理院の空中写真閲覧サービスにある戦前の写真の「C4-C14-218」では、その道筋らしきものが見えます。
このことから、江戸時代の道は、集会所の道か、その付近のような気がします。
車が通れたのは、二瀬越橋と東回りの坂道だったのでしょう。1932年に与瀬駅から勝瀬まで乗合自動車(といっても5人乗り)が運行されたという記録を見たことがあります。
なお、写真の風景は、私には与瀬側から上流を見ているように見えます。左端が勝瀬で、その向こうが吉野ではないかな、という感じです。今度機会があったら聞いてみようかと思います。
長くなり失礼いたしました。ご容赦ください。
与瀬宿から日連村勝瀬へと下って行く道について、詳細なご説明を頂き、疑問が氷解しました。
私は二つの道筋を推測しましたが、ご教示によれば集会所のところを左折していく道であるということがわかりました。
その道筋にお住まいの方から、かつてはその先に勝瀬へ下る道があったとお聞きしましたが、それが旧甲州街道からそれる脇道であったのです。
勝瀬から与瀬駅へと至る車が登った道は、二瀬越橋が完成とともに出来た新しい道であったということも、了解できました。
写真については私も近辺を歩いて検討してみましたが、ダムが出来る前に相模川の河原から見上げる形で写しているものであり、もう一つ確定できていません。
ほかの古写真なども参考にしながら、あらためて検討してみたいと思いました。
古地図をしっかりと検討してみることが大切だということがよくわかりました。
丁寧なご教示、ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。
鮎川 俊介
丁重な返信コメントを頂きありがとうございます。
あまり長くなってはと写真については簡単に書きましたが、この写真と同じページに掲載されている「与瀬側から見た二瀬越橋」と見比べると、奥の山の稜線や麓の方の地形から、近いアングルだと考えることができます。写真中央の山の上の木と、左寄りにある大きな木は同じ木のように見えますし、また、谷が左に回り込んでいるように見えること、河原ぎわに耕作地があることは、与瀬側(左岸)から上流側、つまり南西方向を見ているとすると戦前の空中写真と一致します。
それから、左端近くにある山は、富士山ではないでしょうか。これこそ推測に過ぎませんが、方角的には一致し、Googleマップの衛星写真や地理院地図の3D機能を使用すると、あながち無理な考えでもなさそうに思えます。
なお、「与瀬下発船所付近の景」という写真絵葉書は、Web上では小さな写真しか見られませんが、二瀬越橋の少し下流から明らかに上流を向いて撮っており、同じような類似点があります。
ご参考になれば幸いです。
確かにこの写真は与瀬側の河原から勝瀬および吉野方面、つまり上流を望んだものではないかと私も考えるようになりました。
ただ三角形の山が富士山であるかどうかは今のところ判断がつきません。
若柳奥畑(相模湖ダムよりもやや下流)の河岸段丘上から富士山の頂上付近が見えるのを知っていますが、与瀬下の河原から富士山が見えたかどうかは、よくわかりません。
河原から見えたということは、段丘上の与瀬からもよく見えるはずであり、段丘上にあたる現在の相模湖公園から富士山が見えるという話を私は聞いたことがないからです。
ではあの三角形の山はどこの山かというと、今のところわかりません。
この古写真では、吉野の背後にあるはずの山々がまるでないかのように段丘上はせいせいとしており、これも疑問を感ずるところ。
「写真」ではあるものの、三角形の山が富士山であるかどうかも含めて、いろいろと疑問が残る写真です。
新しいことがわかりましたら、またコメントをお願いします。
鮎川
さて、それで改めて考えてみたのですが、一応これを上流側だとして写真の画角を上で書きました明治の地形図に照らすと、左端は真西よりやや北、中心はほぼ北西といった感じになっておりました。
写真の中央右上の丸く張り出した地形は、地形図でも上流側にそれらしい場所を見つけることができます。この地形図は「今昔マップ」というサイトで見ることができますのでお確かめください。
また、地理院地図の3Dで同じ方角を見ると、山は、現在の中央道藤野PA付近から北へ、そして途中から北東へ向いて明王峠に至る稜線が、写真の山と似た形で見えます。そして背後の山はほぼその陰に隠れてしまう感じになりますのでご覧になってみてください。
おっしゃるように段丘上がせいせいしているのは私も疑問に思っているのですが、もし逆に写真が二瀬越橋の位置から下流方向だとすると、右側には、勝瀬の自慢だった水田を守る約800m(写真上で計測)の直線の堤防があり、左は、道が付けられる程度の斜面があることになります。では資料がそもそも写真を取り違えているかというと、先日触れました絵葉書と比べてその線はなさそうです。
そのようなわけで、写真は上流で、中央付近は、鮎川様が「甲州街道を歩く-小仏から藤野まで その8」に書かれている奈良本や横道付近かな、と考えております。
なお、問題の左の三角の山ですが、上の点を考慮してGoogleの3Dで同じような見え方を探すと、梁川駅の北にある権現山(2つあるうちの1312mの方)付近が上述の稜線の左に頭を出していましたが、これはわかりませんね。いずれにしても富士山でないことは確かで、まったくお騒がせいたしました。
久しぶりに相模湖に行ってみたい気分になっております。
このうち左側の山が古写真左上に写っている山であると推定できました。
この山は上野原市諏訪の畑から間近に望むことが出来、土地の方に伺うと「御前山」という名前であるとのこと。
その山の手前に見える集落は「鶴島」で、上野原市新田(あらた)から桂川を隔てて南にあります。
鶴島神明社付近からもその三角形の山容を間近に見ることができます(標高484.1m)。
もう一つ見える三角形の山は、国道20号を四方津(しおつ)方面へと走ると正面に見えてくる山で、その名前は、やはり「御前山」(標高460.9m)。
三角形の富士山型の山が二つとも「御前山」という名前であることは、おそらく富士山に関係があるものと思われます。
甲州街道小仏峠を下って与瀬宿あたりから見えてくる二つの三角形の山は、富士山に見まがうほどの山で、旅人にとっては印象深い山であったのでしょう。
富士山ではない、富士山に行くまでの途中に見える富士山によく似た山、霊峰富士山の手前の富士山とよく似た山ということで「御前山」と呼ばれたのでは、と私は推測しています。
ということで、ryshさんの指摘されるように、この古写真は与瀬下の河原から相模川の上流を眺めたもので、中央の河岸段丘上は吉野付近であり、河原の対岸にある森は日連(ひづれ)村勝瀬の北端であり、森の左手に勝瀬の集落があることになります。
河原から写したために、吉野の背後の山は写らず、せいせいとした青空が広がっていることになります。
私は逆方向(勝瀬から与瀬方向)を写したものと考えましたが、これは間違いで、記述を訂正します。
新たな発見もあり、丁寧なコメントや御指摘、ありがとうございました。
鮎川
またさりげなくフォローしてくださり、ありがとうございます。
以前から鮎川様の記事はこの地域のことを調べる折に学ぶことが多く、記憶に残っておりました。これからも折に触れ読ませていただきます。
こちらこそ何度もお付き合いいただき、ありがとうございました。