敷地内の「旧奈良家住宅附属屋案内図」によれば、旧奈良家の住宅は、本邸・北米蔵・南米蔵・座敷蔵・味噌蔵・文庫蔵・和風住宅・旧明治天皇北野小休所などによって成り立っています。
和風住宅も蔵のほとんども明治時代に建てられたもの(文庫蔵は大正13年〔1924年〕に建造されたもの)であり、明治天皇北野小休所も明治時代に造られたもので、当初は現在の国道7号線沿い(大久保町字北野細谷道添)にあったものをここに移したもの。
従って、江戸時代からの建物は本邸だけであるということになります。
「旧奈良家住宅」として重要文化財になっているのはこの本邸であり、建てられたのは江戸時代中期の宝暦年間のことでした。
今から250年以上も前の農家建築物ということになります。
私が興味を持ったのは、江戸時代の豪農が建てた豪壮な建築物が、厳しい風雪に耐えて現在まで生き残ってきたということと、実はその建物が、江戸の紀行家菅江真澄が目の当たりにし、そしてそこに滞在したことがある建物であるということでした。
敷地内には、今まで津軽半島のあちこちで目にしてきた、「菅江真澄の道」と記された白い標柱が建てられていました。
この標柱は、菅江真澄が歩いた道筋や立ち寄ったところに建てられているもの。
鰺ヶ沢でも目にしています。
秋田県立博物館の『真澄紀行』の「年譜」によれば、文化8年(1811年)の正月元旦を宮沢(男鹿市)で迎えた菅江真澄は、正月15日に「なまはげ」を見、3月24日に金足村(秋田市)で軒に葺かれた山吹を見ています。
その後、4月初旬に脇本(男鹿市)で茂木知利に会い、5月12日、金足の奈良家で那珂通博と初めて会っています。
この那珂通博とは、その後も親交を深めています。
旧奈良家住宅に入ると、庭の見える上座敷があります。
この上座敷からの奈良家の庭園の眺めを、菅江真澄は楽しんだことでしょう。