鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.11.横浜「馬車道・本町通り」 その4

2007-11-08 06:05:28 | Weblog
 この万延元年当時、この絵の手前の山手側はどうなっていたかがよくわかるのが、やはり五雲亭貞秀の「神奈川横浜二十八景之内」(万延元年〔1860年〕)。『絵とき 横浜物語』P104~105に掲載されています。これはミナト側上空から見た外国人町(外国人居留地)と横浜村。海岸から直角にのびる杭を立て並べただけの塀から左側が横浜村。そこから右側が外国人町。砂州にもとからあった横浜村と外国人町が共存し、山手の方と砂州は陸続きになっている。ところが、この絵が刊行された万延元年五月、山手から陸続きであった砂州は、掘割により分断されました。浜を奪われた横浜村の人々が移り住んだところが現在の元町であったと、解説に記されています。

 では、掘割により分断された外国人居留地が描かれている絵は、となると、同書P110~111に玉蘭斎橋本老父(実は五雲亭貞秀)の「御開港横浜大絵図二編外国人住宅図」(文久2年〔1862年〕頃)が掲載されています。

 画面左上に外国人墓地。その下に増徳院。縦に流れている川が、陸続きであった山手と砂州を分断した掘割。現在の堀川になる。堀川に架かる手前の橋が谷戸橋。山手方向からの入口には関門があります。本町通りは、真ん中を左右に貫く幅広の通り。本町通りの山手方向突き当たりは堀川になっていて、橋はない。現在、本町通りから山手に向かっては堀川に架かる谷戸橋がある。ということは、もともとの谷戸橋は、現在の谷戸橋よりも堀川河口部寄りにあったということになります。この絵を見ても、外国人居留地の各屋敷の敷地は板塀で厳重に囲まれていたことがわかります。外国人の屋敷は多くが平屋。その中に(画面中央やや左手)、白い尖塔が聳え立っていますが、これが、この時期に完成したばかりの「横浜天主堂」。現在、この本町通りの地下には、「みなとみらい線」が走っているのです。

 同書P148~149の一川芳員の「横浜明細全図」には慶応4年(1868年)の横浜が描かれています。横浜が堀と海で囲まれていたことがよくわかる絵です。弁天社の港側は「語学所」と「御役宅」が建ち並んでおり、港崎(みよざき)遊郭はもう姿形もなく、遊郭は吉田町に移っているのがわかります。波止場は、東波止場が「象の鼻」になっている。谷戸橋から上がった山手には「英軍営」が建ち並んでいます。

 さて、「みなとみらい線」の「元町・中華街駅連絡口」の右手に「横浜天主堂跡」があったことは前回に触れましたが、この天主堂は、先の五雲亭の絵に描かれていました。この天主堂を明治3年(1870年)頃に描いた人物がいます。それが歌川広重(三代)。横浜浮世絵の一枚で、題は「横浜商館 天主堂ノ図」。『横浜浮世絵と近代日本 ─異国“横濱を旅する─』(神奈川県立歴史博物館)のP124に掲載されています。

 この天主堂は、横浜居留地80番(現在の山下町80番)に建てられたもので、山手カトリック教会の前身になります。安政6年(1859年)に来日したフランス総領事館付司祭兼通訳ジラール神父とムニクゥ神父が、居留民のために建設したもの。教会の正式名は「聖心教教会堂」。近代日本最初のキリスト教会。人々は「耶蘇寺」・「異人寺」と呼びました。この絵の手前の道は本町通り。天主堂の門は、頭頂部に黒い擬宝珠(ぎぼし)のようなものがついた白い円柱。円柱の両側は鉄柵。門を入ると石畳の道が続いて、その奥が天主堂。おそらく木造石張りで、尖塔先端には十字架があり、その下の鳥居型の鐘楼に鐘が吊るされ、その下の屋根の壁に十字架が記され、その下に大きく「天主堂」の文字。尖塔(鐘楼)の右手には、雪をかぶった富士山が顔をのぞかせています。ポーチは列柱を持つ石造りのもの。

 天主堂の門の両側には、2階建の商館が建っています。本町通りには乗合馬車や箱を満載した荷馬車が行き交っている。天主堂の入口から玄関にかけて、フランス人と思われる男女が姿を見せています。

 ここを、幕末のある時期、長崎から江戸に出て来た中江兆民が訪れているはずなのです。


 続く


○参考文献
・『絵とき 横浜物語』宮野力哉(東京堂出版)
・『横浜浮世絵と近代日本』(神奈川県立歴史博物館)
・『なか区 歴史の散歩道 横浜の近代100話』横浜開港資料館編(神奈川新聞社)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿