鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その2

2014-08-31 08:21:37 | Weblog

 翌日の早朝、車を走らせて訪れたところは、善知烏(うとう)神社でした。

 なぜ善知烏神社であったかと言えば、『北前船 寄港地と交易の物語』の「新開地、青森」の項に、青森が開港したのは寛永元年(1624年)のことであって、それ以前は青森は善知烏村という漁村であったとあり、また県庁近くの善知烏神社近辺が、青森市発祥の地とされている、とあったから。

 青森を開港したのは、津軽藩2代藩主津軽信牧(のぶひら)の命を受けた開港奉行、森山弥七郎。

 この開港奉行森山弥七郎は、越後、越前、近江にまで移住民を募って新しい港町を建設したとのこと。

 青森開港以前の古くからの港は、北隣にある油川(あぶらかわ)であって、戦国時代においては、油川は南部氏一族の城下町であって、青森開港後もしばらくは油川の方が港として繁栄し続けていたという。

 つまり、青森は津軽藩が新しく建設した港町であって、越後、越前、近江などから移住民を募って出来上がった町であるということになります。

 その地はもともとは善知烏(うとう)村という漁村であり、その場所は現在善知烏神社があるあたりであった、つまりそのあたりが青森発祥の地であるらしいということ、そのことが前知識としてあったため、まず県庁近くにあるという善知烏神社を訪ねてみることにしたのです。

 通りに面した善知烏神社の前に到着したのが5:17。

 玉垣の前に案内板が立っており、それには「奥州街道終点記念の碑」と「青森市道路元標」と記されていました。

 それによると、江戸初期に著された「幕府撰慶長日本図」に、津軽藩出張機関が置かれた青森市安方が奥州街道の終点とされている(終点については諸説ある)とのこと。

 また青森町役場がかつてこの善知烏神社の境内にあり、そのためここに青森市道路元標があるとのこと。

 これらのことから、この善知烏神社近辺が、青森市発祥の由縁とされているのだとのこと。

 ここにはまた「青森の歴史と善知烏神社」と記された案内板もあり、この記述もたいへん参考になりました。

 それによると、青森湊開港以前の青森は、「善知烏村」と呼ばれる、安潟(やすかた)のほとりに漁家が点在する一漁村であったが、寛永時代に開かれた湊に寄せる漁船の目印が、青々と茂る小高い森だったことから「青森」という名が付いたという言い伝えがあるという。

 この善知烏神社は、青森湊の開港後に再建されたものであるらしい。

 この案内板には、幾枚かの古絵図なども掲載されていて、興味を覚えました。

 一枚は「九浦外町絵図」(くうらほかまちえず)より「青森之図」。

 「九浦」は、津軽領の主要な港町・関所の総称。

 「米の積み出しで発展した青森町」とあり、弘前藩の年貢米の積み出し港であったことがわかります。年貢米の積み出しのために、弘前藩によって新たに建設された港町であるといっても言いでしょう。

 文政年間以後に描かれたものであるようです。

 一枚は「津軽図譜」より、「青森海上泛船船中眺望図」(あおもりかいじょうはんせんせんちゅうちょうぼうず)というもの。

 解説には、弘前藩の御座船「永徳丸」が艤装(備品の取りつけ)を終え、青森湊の沖合に浮かぶ様を描いたもので、左手に八甲田山、右手に岩木山が見えているとのこと。

 「津軽図譜」には、江戸後期の津軽地方の景観に加え、地元の鳥や魚も描かれているが、それは当時の博物誌的な要素を盛り込む流行を反映するものであったらしい。

 この絵は、当時(江戸後期)の青森湊の景観を描いたものとしてたいへん興味深い。

 海岸線には人家が櫛比しています。

 湊には御座船「永徳丸」を中心に、多数の帆船が浮かんでいます。

 この絵そのものが、青森湊に浮かぶ帆船からの眺望を描いたもの。

 右手奥に描かれている岩木山の姿は、弘前方面から眺めてみられるような「重くどっしり」した岩木山。

 もう一枚は「青森之絵図」。

 その解説によると、青森の町割は寛永3年(1626年)から、総奉行森山弥七郎によって進められたとのこと。御仮屋(おかりや)・警固詰所・町奉行所・沖口番所(おきのくちばんしょ)が設置されるなど、町のかたちが急速に整えられ、数年の内に家屋が1000軒を越えたという。

 ほかにも「青森ねぶた」の写真や、棟方志功作の「うとう親子の図」の写真、「善知烏祠図」(うとうほこらず)、「善知烏図」なども掲載されていました。

 棟方志功が生まれたところは、青森市大町であり、善知烏神社の向かいであったらしく、善知烏神社境内は少年時代の棟方志功の恰好の遊び場であったらしい。

 以上の前知識を得た上で、まっすぐなアスファルト敷きの参道を、本殿に向かって進んで行きました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『北前船 寄港地と交易の物語』加藤貞仁=文 鐙啓記=し録蒙



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2 コメント

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2014夏の取材旅行 青森 (橋口 澄恵)
2015-03-14 07:08:22
始めまして

私事で恐縮ですが、
母親の旧姓が森山和子で、
先祖が青森港開港奉行の森山弥七郎にあたり、
母の叔父が、棟方志功の弟子だったらしいのですが、
このつながりがわかってワクワクしました。


現在、Uターン帰郷し、
九州の港に近い町でイギリスとの交流による地域活性に奮闘していますが、
グローバルよりローカルな地域的個性が叫ばれている
昨今、
ひたすら自己拡大しようとした天下人よりも
地方の繁栄に尽力した1人の家臣(森山弥七郎)の物語は、おもしろいかもしれません。
お暇があれば、
「森山弥七郎物語」の執筆、よろしくお願いします。
すみません、本当に私事でした。(*^。^*)

これからも各地の楽しい旅のお届け、よろしくお願いします。
橋口澄恵さまへ (鮎川俊介)
2015-03-15 06:10:59
はじめまして
興味深いコメント、ありがとうございました。
お母さまの旧姓が「森山」であり、先祖が青森開港奉行であった「森山弥七郎」であったとのこと。
またお母さまの叔父が棟方志功のお弟子さんであったとのこと。
早朝、善知鳥神社の境内を歩き回ったことを懐かしく思い出しました。
私は、これからのライフワークの一つとして「北前船」のフィールドワークを計画しているのですが、その初回が青森県から秋田県にかけての取材旅行でした。
今後、北前船の寄港地を、点を点を結ぶように取材旅行および調査を行っていこうと思っています。
私の「北前船」への強い関心は、私が生まれた福井県にあり、幼少時のさまざまな思い出に由来しています。
津軽藩開港奉行森山弥七郎は、越後・越前・近江まで移住民を募って新しい港町、すなわち「青森」を建設したということであり、青森市には「越前町」というのもかつてはあったらしい。
ということで、青森と福井県の密接なつながりを感じた旅でした。
では、森山弥七郎(津軽藩)は、どのように移住民を募ったのか。越後や越前、近江まで人を派遣したとしたら、どのような人を派遣したのか。武士か、商人か。それらの国々でもどこの地域の人々を募ったのか、といったところまでは、調べても具体的にはわかりませんでした。
橋口さんが言われるように、グローバルな時代であるからこそ、「ローカルな地域的個性」が大事にされなければならないと思います。
交通がいかに便利に速くなっても、東京に「一極集中」し、「ミニ東京」が各地にどんどん出来て行ってしまっては、仕方のないことです。地方はますます疲弊していくことでしょう。
九州の港町でイギリスとの交流による地域活性に尽力されているとのこと。
今後もいっそうのご活躍をお祈りいたします。

                          鮎川俊介

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