足を踏み入れた鰺ヶ沢の町は、「妙によどんだ甘酸つぱい匂ひのする町」で、太宰は、野沢凡兆(1640~1714)の「市中は物のにほひや夏の月」の句を想起しています。
「川の水も、どろりと濁つてゐる。どこか、疲れている。」
これが、鰺ヶ沢の町に対する、太宰の直感が捉えた印象でした。
鰺ヶ沢の町にも、木造町と同じような「コモヒ」があり、太宰は強い日差しを避けて、その「コモヒ」のある町の通りを歩きました。
「コモヒ」というのは、太宰の言葉を借りれば、「長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作つてある」もの。
それは、日ざしをよけるために作つたのではな」く、「冬、雪が深く積つた時に、家と家との聯絡に便利なやうに、各々の軒をくつつけ、長い廊下を作つて置く」もの。
「津軽の古い町には、たいていこのコモヒといふものがあるらしい」とも、太宰は記しています。
木造町には、町全部がこれによって貫通されているのではないかと思わせるような、長い「コモヒ」がありました。
深い積雪から歩道を守り、人々が通れるようにした施設ですが、私はこのような、津軽で「コモヒ」と呼ばれるような施設を、新潟県の糸魚川市内や上越市内で見掛けたことがあります。
特に糸魚川市の本町通商店街の、いわゆる「雁木(がんぎ)通り」(新潟県では、「コモヒ」ではなく「雁木」と言うようです)は印象的でした。
私は確かめていませんが、戦前においては、たとえば私の出身地である福井市内の中心的な通りにも、この「雁木」のような施設があったのではないかと推測しています。
雪深い北陸や東北地方(日本海側)の古い町には、このような「雁木」や「コモヒ」と呼ばれる施設が、中心的な通り沿いに設けられていたのではないかと思われます。
通り全体が雪で埋まらないように、商店側だけは(つまり通りの商店に面した部分を、長い廊下のようにして、雪に煩わされずに人々が歩けるようにした)庇(ひさし)のある通りが、この鰺ヶ沢にもあったのです。
しかしこの鰺ヶ沢の「コモヒ」は、木造町のそれとは異なって、「少し崩れかかつてゐ」て、「木造町のコモヒのやうな涼しさ」がありませんでした。
太宰には、「へんに息づまるやうな気持」がする「コモヒ」であったようです。
その「コモヒ」のある通りは、飲食店が多く、「昔は、ここは所謂銘酒屋のやうなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思はれる」と、太宰は記しています。
「銘酒屋」というのは、銘酒を売るという看板を掲げて飲み屋を装いながら、実はひそかに私娼を抱えて営業していた店のことで、明治から大正にかけて存在したらしい。
東京の下町では「めいしや」と発音したとのこと。
樋口一葉の小説、『にごりえ』の主人公「お力」は、丸山福山町の「銘酒屋」である「菊の井」の一枚看板でした。
鎌田慧さんの『津軽・斜陽の家』には、「取り引きが成立すると、問屋、商人、船頭衆などが、中村、山下、丸海老などの遊女屋にくりだした」とあり、「中村」・「山下」・「丸海老」といった「遊女屋」が、鰺ヶ沢にあったことがわかります。
太宰が訪ねた頃、鰺ヶ沢の「コモヒ」のある長い通りに飲食店が多かったのも、また「銘酒屋」のようなものがかつてずいぶん発達したところではないかと太宰に推測させるような雰囲気が残っていたのも、かつての「北前船」など日本海の海運の盛んであった頃、そして鰺ヶ沢が津軽地方の物流の拠点港として繁栄していた頃の余韻のようなものであったと思われます。
明治23年(1890年)において、青森県の多額納税者の第1位であった佐々木嘉太郎(「布嘉」)は、「木綿類ばかりか、砂糖、塩、素麺(そうめん)、鉄材」など何でも購入し、場合によっては「砥石を一艘分も買い占めたこともあったそうだが、それでも売り捌いて儲けをあげた」という。
「船が着いても、五所川原の布嘉が着かなければ相場がたたぬ」と鰺ヶ沢でいわれるほど、佐々木嘉太郎は羽振りをきかしたらしい。
その佐々木嘉太郎は、五所川原の本町中央通りに「布嘉御殿」と言われる豪壮な大邸宅を建てています。
鎌田慧さんは、その佐々木嘉太郎(「布嘉」)の「勃興から斜陽までのスケールの大きさは、隣り町の∧源を圧倒的に凌駕していた」と記しています。
「隣り町の∧源」とは、金木町の津島家、つまり太宰治の実家のことでした。
続く
〇参考文献
・『津軽』太宰治(JTBパブリッシング)
・『津軽・斜陽の家』鎌田慧(祥伝社)