鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-小仏から藤野まで その1

2017-04-29 06:46:51 | Weblog

 

 前回は高尾駅から小仏バス停まで歩きました。

 今回は高尾駅から藤野駅までの間を歩きました。

 前回は桜がちょうど満開で、野花も含めていろいろな花が咲き、色彩が溢れていました。

 今回は新緑が美しく、その緑も木々によっていろいろな色があり、その色の重なりが豊かでした。

 高尾駅の小仏行きのバス停に行ったところが、平日にも関わらず多くの登山客がバスを待っていてあふれんばかり。

 これではぎゅうぎゅう詰めになると思って歩いていくことにしました。

 前回はいろいろと立ち寄りながらゆっくり歩いたのでそれなりの時間がかかりましたが、それほど距離的に長く歩いたわけではありません。

 小名路の手前、両界橋付近に着いたのが8:15。この橋の下を流れる小仏川のやや上流に岩の露出した淵があり、そこに最上徳内(もがみとくない・1754~1836・蝦夷地探検家)の庵があったことを知って、橋からそのあたりを望見。

 その淵に出てみようと思いましたが、今は人家が並び淵へ出る道はありませんでした。

 その淵は帰りに電車から見てみると、橋から見るよりもよく見えました。

 最上徳内と八王子との関わり、またその周辺地域との関わりにも興味深いものがあり、前回出てきた『桑都日記』の塩野適斎とも親しい関係でした。

 最上徳内が八王子に初めてやって来たのは享和3年(1803年)の夏のことで、小仏川の猊渕というところに垂井亭という庵を自ら作って住んでいました。

 甲州街道の小名路、高尾への分かれ道があるところの近くの小仏川の畔でした。

 当時はこの小仏川の淵に沿った道筋付近には人家はほとんどなかったのではないかと思われました。しかしこの淵は駒木野宿の入口である小名路(古名字)から近い距離にあり、八王子千人同心が住んでいる千人町のあたりからもそれほど遠くはなく、往来は頻繁であったでしょう。

 両界橋を過ぎ、小名路で右折して旧街道に入り前回通った道を進みました。桜は葉桜となり、木々の緑は濃淡さまざまな色で溢れかえっています。

 野原も草が萌え出ていて、緑が一面を覆っています。

 前回見たかつての小仏宿付近の桜もほとんどその花を落としていました。

 小仏のバス停に到着したのが9:12。高尾駅からは1時間ちょっとと、どこにも立ち寄らずに歩けば遠い距離ではありませんでした。

 案内板を見てみると、ここから小仏峠まではおよそ50分。距離としては2.5km。途中景信山への登山道が分岐しています。

 かつて美女谷から小仏峠に出て、そこから尾根伝いに景信山に至り、さらに尾根伝いに「関東ふれあいの道」を陣馬山を経て生藤山の先まで歩いたことがありますが、甲州街道を小仏峠まで登るのは初めてです。

 その時は歌川広重がこの甲州街道を歩いた時に著した日記のことはまったく知らず、甲州街道を歩いてみようとも思っていませんでした。

 しかし、広重が日記やスケッチを残していることを知り、俄然歩いてみたくなったのですが、いろいろとあってその決行は延び延びになっていました。

 数年前に山梨県立博物館に行った時、『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』を手に入れたのは、その気持ちが芽生えた大きなきっかけになっています。

 バス停の広場から小仏峠方面を眺めてみると、両側の山の側面の合間から山の稜線が見え、また右側の山の斜面には中央道が走っていて奥へと消えています。またその中央道の道路標識も見え、それには「相模湖東」「相模湖」「甲府」と記されています。

 中央道も、そして中央本線も、小仏峠の下をトンネルで潜っているわけですが、かつては小仏峠は甲州街道でも一番の難所であり、旅人はそのことを小仏宿から西方面を望見して感じ取ったのでしょう。

 バス停からふたたび歩き始めて、左手の「臨済宗南禅寺派小佛山寶珠寺」の門前に差し掛かったのが9:18でした。

 「臨済宗南禅寺派」というのは珍しい。八王子周辺地域(神奈川県の津久井や愛甲郡方面を含めて)は臨済宗でも建長寺派(鎌倉五山)のお寺が多く、南禅寺派は「京都五山」の別格上位にある南禅寺を本山とする派(末寺)であるからです。

 ということでさっそく立ち寄ってみることにしました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『桑都日記』(塩野適斎)

・『八王子物語 上巻』佐藤孝太郎(多摩文化研究会)

 

 



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