鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.6月取材旅行「熊谷~太田~桐生」 その2

2012-06-26 05:22:51 | Weblog
 百貨店「八木橋」の先で右折し、中山道から離れて太田・桐生へと向かう道に入りました。

 「旧中山道跡」の標柱は、「八木橋」とそれに隣り合う商店の間に立っており、国道17号線からは見えません。

 この通りの名前は、バス停(朝日バス)の名前から察すると「さくら町通り」というらしい。

 この通りで注目されたのは、車道と自転車道と歩道が分離されていたこと。車道と自転車道の間には飛び飛びにガードレールがあり、自転車道と歩道の間には段差があります。つまり歩道の外側、車道のところに自転車道を作って、自転車道と車道の境界としてガードレールを作ったことになります。片側2車線であった車道を1車線にして、1車線を自転車道にしたわけです。

 自転車道の路面には、車の絵と「注意」という文字が赤く記されたマークが描かれていましたが、それは飛び飛びに設けられているガードレールの間から車が折れて入ってくることに注意を促すものであるのでしょう。

 こういうふうに自転車道が設けられていれば、自転車に乗る人も、また歩道を歩く人も安全です。

 バス停の運行路線図を見てみると、この路線のバスは、熊谷駅から太田駅を結ぶ路線を主軸とするもの(太田駅~妻沼仲町~熊谷駅線)で、円光・奈良小学校前・妻沼仲町・妻沼聖天前・妻沼川岸・古戸川岸などを通過して太田駅に至っています。

 「奈良」とか「妻沼」、また妻沼の「聖天」などは崋山が記しており、このバス路線は、ほぼ崋山のたどったコースと重なっているものと思われました。

 「妻沼川岸」とか「古戸川岸」とは、利根川の川岸であり、利根川を渡る手前が「妻沼河岸」、渡った先の川岸が「古戸川岸」であるでしょう。

 この路線図を見ても、「妻沼聖天」や「妻沼仲町」は利根川の流れ近く(手前)にあることがわかり、利根川を渡ればその向こうが太田であることがわかります。

 左手に、「熊谷山報恩寺」、「開基玉津留姫」と刻まれた大きな石柱を見て、しばらく進むと「肥塚報恩寺前」と記されたバス停があり、この「報恩寺」は「肥塚報恩寺」と呼ばれていることがわかります。

 「天神山」バス停(まわりに丘や小山らしものは何もない)を過ぎ、「玉井堰幹線用水路(柿沼堀)」を過ぎた(6:31)あたりから、ようやく周囲に田園風景が広がりだし、その風景の奥に山並みが見えるようになってきました。

 崋山がこの道を通った頃は、熊谷宿は中山道に沿って長々の延びる「街村」であり、その宿場町を少し外れてしまえば一面の田畑が広がっており、その田園風景の中に農村が点在し、その向こうに山稜が連なっているよう景観であったはずです。

 田植えを終えた水田のあぜ道の近くに、残った苗の塊りがいくつか置かれているのが印象的でした。

 「曹洞宗萬頂山集福寺」の前を過ぎ(6:52)、20分ほど歩いたところに、黒御影石の大きな碑が立っており、何かと思って見てみると、それには「県営圃場整備事業竣工記念碑」と大きく刻まれ、その下に「碑文」が細かく刻まれていました。


 
 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)


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