ウライネコタン沖で異国船が漂流しているのが番人によって目撃されたのが天保2年(1831年)の2月18日(陰暦)の七ツ時頃。その通報を受けてアッケシ会所の添役が見届けのために急行しのが20日のこと。その20日の朝五ツ半頃、異国人がキリタップへ上陸。さらに会所の役人や番人たちが派遣されたり、松前表に注進のための急使が次々と派遣されたりして、事態はあわただしくなっていきます。異国船からはボートが出されて、上陸した者たちが建屋を焼き払ったり鉄砲を放ったりして、緊迫の度が増していく。国泰寺でも異国船退散のための祈祷が行われたりしています。この異国船が沖合いを離れたのは3月4日の朝五ツ半時頃。アッケシの人々はようやく半月ばかりの緊迫状態から解放されることになります。この半月ばかりのアッケシ会所の人々を含めた人々の動きを、国泰寺執事であった松堂玄林が克明に記録しており、それが「夷国船渡来中日鑑記」としてまとめられ、それは江戸の金地院や鎌倉の建長寺、また国元にも送られたようです。この時、ウライネコタン沖に渡来した異国船は、タスマニア島に捕鯨基地のあったオーストラリアの捕鯨船「レディ・ロウエナ号」であり、薪水の補給を求めての行動であったことがすでに判明しているとのこと。東蝦夷地における異国船の接近や異国人の上陸といった事態に、アッケシの人々がどのような対応をしたのかが克明に分かる資料として、松堂玄林がまとめた「夷国船渡来中日鑑記」はたいへん貴重なものであると思われました。 . . . 本文を読む