鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.10月取材旅行『游相日記』番外編-大山街道(厚木~大山) その4

2014-11-14 05:38:57 | Weblog
「文道玄宋」(ぶんどうげんそう)をネットで検索してみると、厚岸町湾月1丁目5、国泰寺の「老桜樹」が出てきて、それは天保元年(1830年)、国泰寺五世住職文道玄宋が本堂と庫裏を修復する際、アッケシ場所請負人山田文右衛門が奥州石巻から移植したと伝えられる古木(オオシマザクラ)であると説明されています。やはりネットの「神奈川県-北方領土問題対策協会」に出てくる関連記事によると、国泰寺の初代住職は現在の相模原市光明寺の文翁智政和尚が選ばれたとあり、六代目住職は伊勢原市池瑞蔵福寺の香国弁渕(べんえん)和尚が選ばれたという。となると、国泰寺の住職は、初代、五代、六代とも現在の神奈川県出身ということになります。国泰寺の初代住職に選ばれた文翁智政が出た光明寺についてやはりネットで調べてみると、それは現在の神奈川県相模原市の青山2591にあり、宗派は臨済宗建長寺派。その第12世住職であったという。手元にある『津久井の古地図』津久井町史編纂委員会編(津久井町役場企画政策室)の「青山村」の箇所を見てみると、光明寺の絵図が掲載されており、その解説によれば、光明寺(こうみょうじ)は建久年間(1190~99)に開創された古刹であり、足利尊氏の弟直義に殺害された護良親王の菩提を弔うため、応安年間(1368~75)に観音堂と供養塔が建立されたことを記した古文書があるとのこと。この寺は臨済宗建長寺派の寺院にあって四大重鎮の寺といわれ、歴史的にも格式を持った寺であったらしい。そして以下のような説明も付されていました。「この寺の江戸時代後期の住職文翁(ぶんおう)は、当時の住職を辞した後、幕府の命によって、北海道厚岸の国泰寺を創建したとして名高いが、この寺は幕府の信任が厚い僧侶が住職をつとめるような寺だったのである。」 国泰寺初代住職としてなぜ光明寺(相模国津久井県青山村)の住職文翁智政が幕府によって選ばれたのか。またその5代住職としてなぜ神宮寺(相模国大住郡下糟屋村)の文道玄宋が幕府によって選ばれたのか。興味あるところです。 . . . 本文を読む