鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.12月「小田原~箱根湯本」取材旅行・小田原城下 その4

2007-12-19 06:33:38 | Weblog
フィリップ・ベアトやミハエル・モーゼルによって写された幕末・維新期の小田原宿は、それ以後、終戦(「アジア・太平洋戦争」)までに大きな三つの被害を受け、大きく町の情景を変えることになります。1つ目は明治35年(1902年)9月28日の「明治大海嘯(かいしょう)」という大津波。この大津波は、午前11時頃から午後1時頃まで2時間にわたって押し寄せ、死者56人、負傷者343人、全壊家屋470戸、流失船舶133隻を数えました。酒匂(さかわ)村では特に被害が大きく、死者33名、負傷者94名を数えています。小田原城下では、大津波は海岸から500m離れた西海子(さいかち)通りまで達し、浜町四丁目の東海道付近でさえ、床上60cm~1mまで海水が押し寄せました。一ヶ月後の10月28日、山王原村において死亡者追悼会が行われましたが、それには僧侶100余名が参集したということです。二つ目は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災。正午少し前、11時58分に発生します。この大地震により、全域で家屋が倒壊するとともに火災が発生。酒匂川に架かっていた酒匂橋は崩落し、「ちんりう本店」や八ツ棟造りの「ういろう本店」、県立小田原中学校なども倒壊。火災は翌2日の午前2時頃にようやく鎮火しますが、焼失家屋は2126戸。足柄郡役所・郵便局・町役場・御幸座・富貴座・松原神社・小田原通商銀行なども焼失しました。この震災後、東海道の道幅は拡張されて浜町の「江戸口」の鍵折れ構造は消滅、東海道の道筋は直線になりました。三つ目は、昭和20年(1945年)8月15日、すなわち終戦の日の未明(午前2時頃)に行われた「小田原空襲」。熊谷(くまがや)や伊勢崎などを空襲したB29の編隊がマリアナ諸島の米軍基地へ戻る途中、そのうちの1機が何を思ったか小田原上空から焼夷弾を落としたのです。この焼夷弾により炎上した地域は、現在の浜町1~3丁目、本町2~3丁目にまたがり、焼失家屋は約400軒、死者は12名を数えました。旧青物町の大通りは火の海となり、電信柱が立ったまま燃えていたそうです。この空襲が、日本本土におけるアメリカ空軍最後の爆撃となります。宮前(みやのまえ)町の古清水旅館には、当日、多くの軍人が宿泊していましたが一人残らず逃げ出し、家の者だけで消火にあたったものの、全焼してしまいました。 . . . 本文を読む