さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

8月15日終戦記念日の私の思いです

2017-08-16 | 日記
私は全国戦没者追悼式における陛下のお言葉に深く心打たれました。

「先の大戦においてかけがいのない命を失った人々とその遺族を思い深い悲しみを新たにしています・・・・
中略

苦難に満ちた往時を偲ぶとき感慨は今なお尽きることがありません。ここに過去を顧み深い反省とともに今後戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民とともに戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対して心から追悼の意を表し、世界平和と我が国の一層の発展を祈ります」

全国戦没者追悼式における陛下のお言葉です。
私は平和の国日本の陛下のお言葉が深く心にしみ入り感動いたしました。

終戦8月15日の私は18歳でした。学徒動員ということで北海道十勝で援農作業をそれぞれの家に分宿してやっておりました。私は早や生まれの18歳でした、ですから同級生の中には19歳の者が半数近くいるんです。19歳になると軍隊に召集される者が出てきたんです。私たちは召集された級友を大樹村の小さな駅で軍歌を歌って送りました。「一足先に行くよと元気に列車に乗った友は窓から顔をだして見送る私たちを見てふと上着で顔を隠しました。泣いているんですよ、これが最後の級友との別れになると互いに思っていましたから。もちろん送る者の目にも涙が浮かんでいました。

8月15日、終戦の玉音を聞いた私たちはいつも集まるアカシヤの大きな木の下に集まりました。愛する国を守るために、愛する古里をそして家族を守るために命を賭して戦おうと思っていた若い私たちです。みんな悲憤慷慨していました。でも心弱い私は毎晩独りで床に入ると一年が二年後に必ず死がやって来る「死ぬってどんなことなんだろうと恐ろしい」と悩んでいました。ですから終戦の玉音を聞いた私は正直「ああこれで死ななくてもよくなった」とほっとしたんです。でも私はそれを隠して友人と共に悲憤慷慨していました。心の弱い卑屈な嘘つきの私の終戦でした。今でも密かにそのことを恥入りながら思い浮かべます。

昨日の午後7時30分、NHKスペシャル「戦慄のインパール」[最も無謀な作戦は何故]」
を見ました。

太平洋戦争の末期、太平洋の広い日本の戦線は玉砕(全滅を美化した言葉)につぐ玉砕で戦線は後退していました。その退勢を挽回しようと軍の中枢とビルマ(現ミャンマー)の派遣軍指令部が一部の強い反対を押し切って数百メートルの川を渡りり標高2000m級の山脈を越えてインドのインパールを攻略する作戦を計画して実行し大敗北となり3万人前後の兵卒が敗走するジャングルの中で餓えと赤痢などの病気それに自殺などで死亡し、敗走のジャングルの道はその屍体の白骨でいっぱいになりその道を白骨街道と言われるようになった悲惨な作戦を立案実行したことの記録です。
 
良識のある参謀もあって2000mクラスの山脈を越える作戦など食料弾薬の補給が困難でありインパール作戦は無謀であり悲惨な敗北に終わると強く進言したけれども軍の中枢とビルマ派遣軍の司令官や参謀たちに「大和魂のない臆病者」とののしられ左遷されるなどして退けられ僅か3週間分の食料を持たせ3個師団の大軍を出発させたのです。不足する食料は敵軍および占領地から奪えということでした。

道のないジャッグルと険しい山地の厳しい行軍の後インパールに近いコヒマについた時は持っていった食料はほとんど尽きていたと言われています。迎えるイギリスとインドの連合軍は高地に陣地を築き豊かな火砲を揃えて待ち受けていました。連合軍の司令部は間もなく来る雨期で日本軍の補給が途絶えるのを待って攻撃に転じ日本軍を殲滅する作戦でした。

食料も弾薬も尽きた日本軍の兵卒は士官や下士官に10歩でも20歩でも進めと叱咤命令され優勢な火砲陣地に銃剣突撃を繰り返し戦死するものが増えてその数か1万人近くなる頃雨期がやって来て、ようやく日本のインパール作戦は中止になり作戦中枢の司令官参謀たちはいち早く安全な場所に後退しました。残された兵卒のジャングルの中の敗退は悲惨でした。餓えやマラリアや赤痢などの病気で死亡する者、苦しみに耐えきれず自殺するものの死骸はすぐにジャングルのなかで白骨になりました。やっとジャングルをぬけた人たちの前には川幅100mを越える大河が待っていました。それを越えるすべなどありませんでした。そんな悲惨な敗退の途中でなくなった兵士の数は二万人とも言われています。敗退する道では日本軍どうしの人肉食の噂もあったやに報じられてもいました。作戦中枢部に配属されていた若い少尉の記録が発見され参謀たちが何百人を殺してあの陣地を奪えと言い合っていたこと、それは敵の死者ではなく自軍の戦死者の数であって作戦中枢部の高官たちは兵卒などは人間扱いではなくて単なる作戦の消耗品として扱われていたと記録されていたことが分かりました。また敗退の道で死んでいる者な中には士官や下士官の姿はなかたことも分かりました。

このような無謀悲惨な作戦を立案実行した日本の軍の中枢の中にいた人たちが敗戦後の日本なかでなんの反省も責任も感じることもなく生きていたことも知ることもできました。 (  ̄っ ̄)ムゥ

そんな戦時中の軍国日本のことを知ると、今の民主主義日本がなんと素晴らしい国なっていることよとしみじみ思う私でした。なんにも出来ない私ですけどもせめて日本がいつまでも平和であって欲しいと祈らずにはいられない終戦記念日の私でした。

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2 コメント

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同感です (基左衛門の独り言)
2017-08-17 17:26:02
 本当に無謀な作戦でしたね、明治政府を形作った薩長の人達「特に長州」の思想が未だ生きてる様で怖いですね。
 「日本を取り戻す」とはどんな意味で言ったのでしょう。
            上州の八十爺
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基左衛門さん (さんたろう)
2017-08-17 18:59:35
私の本当に言いたかったことを基左衛門さんがずばり言って下さいました。有り難うございます。
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