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さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

この春はシュンランもスミレも見ずに過ぎました

2016-05-07 | 日記




 4月22日の朝、ERCP(内視鏡を使った胆管や膵管の検査と治療)からようやっと立ち直って小康を得た私は会津中央病院消化器科の病室のベットの上でしみじみと自分の運命の暗い思いにしずんでいました。

 実はお城の桜の写真をブログに投稿した翌日の4月20日の夜、風邪の症状などまったくないのに突然38度3分の高熱を発症してしまい、次の21日の朝息子の嫁につき添われて会津中央病院の消化器科の外来を訪れ診察を受けました。ここでもインフルエンザを疑われて内科に回されてインフルエンザの検査を受けましたが(-)でした。

 消化器科では血液検査とエコー検査で「胆管の流れが悪く膿が溜まっている可能性がある。すぐに入院して明日の午後内視鏡を胆管に入れ検査と治療をします」と告げられてたくさんの点滴のボトルのをつけられました。

 いまの病院の病室は広い部屋を厚いカーテンで四つに仕切ってひとつひとつが個室のようになっていて、べット・戸棚や引き出しのいくつも着いた収納棚・テレビや冷蔵庫や鍵の着いた貴重品入れや食器入れなどの引き出しの着いた家具などが備えつけれていて快適に過ごせるようになっていました。

 入院したその夜はまだ高熱が下がらずベットの上で苦しんでおりましたけど深夜になって点滴の抗生物質が効いてきたのか少し楽になって眠ることが出来ました。朝目覚めた時持参の体温計で熱を測って見ると37度2分に下がっており気分が楽になっていました。

 4月22日、午後3時頃CT検査、4時頃ERCPをうけました。ERCPは全身麻酔で行う手術です、私はなんどもそれをしてもらっていますけどいつも不安と恐怖を感じてしまいます。手術台の上にうつぶせに寝かされて看護師さんに口にマウスピースをはめられ、激しい臭いと強い刺激のある食道の麻酔薬を飲まされると同時に点滴の管から麻酔薬が注入され一瞬に意識を失いなんにも分からなくなってしまいます。

 どのくらい時間がたつたか分かりませんけど麻酔が少し覚めてかすかに意識が戻ると私は自分のベット寝ていて両手がしっかりとベットに縛りつけられておりました。それは麻酔の覚めきらないで朦朧としている私にとってはとても怖く恐ろしいことでした。

 でもそれはとても重要なことで、ERCPの手術後には細いくだが鼻から胆管に通されていてその管を麻酔の覚めきらない患者がひき抜かないようにするための大事な処置なんです。私も事前にそれを充分に承知しており男の看護師さんに「すごい恐がり屋の私です麻酔が覚めたとき驚きと恐怖で私は腕の緊縛をほどいてしまう可能性があります。どうかしっかりと縛っておいてください」と頼んでいたのです。

 うっすらと麻酔が覚めて朦朧とした意識で目を開けて見ると一人の看護師さんと二人の息子の心配そうな姿が目に入りました。朦朧とした意識の私には両手がきつく縛られていることの意味が理解することができず、ただ強い恐怖だけがありました。私は必死に手をほどいてくれるよう頼みました。当然の如く誰も解いてはくれません。幸いに私はまた眠りこんでしまい鼻からの管は無事でした。よかったです。あとで隣のベット方も同じ処置をされたので「麻酔が覚めた時手がベットに縛り付けれているのは怖いですよね」といううと「いいえ管を抜かないための大事な処置ですからなんでもありません」とおっしゃいました。どうやら大騒ぎした「だめ患者」は私だけだったようです。

 次の日の23日の朝の回診で先生は笑顔で「胆管に石があって胆汁の流れを悪くしていました。胆石は綺麗に取りましたもう大丈夫です」とおっしゃいました。嬉しかったです。鼻から出ている細い管の先にはプラスチックのボトルが着いていてどす黒い胆汁がいっぱい溜まっていました。この胆汁の色が澄んで綺麗になれば病気は完治するんだなと私は思いました。

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生き返った証し嬉しくて嬉しくて髪を梳く

2016-05-07 | 日記
何日か点滴を続けているうちに鼻から出ている管についているボトルの中の胆汁はだんだんと薄い黄色に変わってきて熱も36度8分くらいの平熱近くに下がってきて気分がとても良くなりました。ある日のことです、ナースステーションの近くの休憩室で電話を掛けて病室に帰るおりばったりと先生にお会いしました。先生は笑顔で「山太郎さん、血液検査の結果はどんどんよくなってきています。よかったですね」とおっしゃいました。私は嬉しくなって深く頭を下げてお礼を申しあげました。

 私の心は本当に晴れ晴れとして嬉しく、発熱する前の日の散歩のときに見た美しい虹を思い浮かべておりました。病室に帰って洗面所で顔を洗い髪を梳きました。鏡の中の私は幸せそうに輝いていました。



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私に命と心下さった方いっぱいいっぱい

2016-05-07 | 日記
 数日して病状が好転してきた私は、肝臓の造影レントゲン検査を受け胆管から完全に胆石がなくなっていることが確認されたので、鼻からの管を抜き体内に細い管を入れて胆管のバイパスを作るERCPの手術を受けました。全身麻酔ですからどんな処置がされたのかまったく私には分かりませんでしたけど、その手術の予後がよければ数日で退院できるということで嬉しい希望もありました。
 
 でも、自分のベットでERCPの麻酔から覚めたときどうしたわけでしょうか私は腹部の激しい痛みに苦しんでいました。私は夜中にまわってきた看護師さんに激しく腹部が痛むので痛み止めを下さいとお願いしました。看護師さんは先生にお聞きしてからとおっしゃってしばらくしてカプセル入りの薬を持ってきて飲ましてくれました。おかげで苦しまずに朝まで眠ることが出来ました。目を覚ましたときは痛みは和らいでいて寝返りするときにかすかに痛むだけになっておりました。でもそれからの4日間はとってもつらい毎日でした。

 絶食で何も食べることが出来ず点滴だけで過ごさなければなりません。それにそれほどの苦しみがあるわけでもないのに何日もベットの上で安静に過ごさなければならないのはとてもつらいことでした。私の13日間の病院生活はERCPがあった日以外のほとんどはそんなに苦しくはないけどひたすらにベットの上で安静にして過ごさなければならない日々でした。その苦しい毎日を耐えることができたのは回診のたびごとに優しく病状を説明して励ましてくださった先生のお言葉と、看護師さんの優しい笑顔でした。

 そしてもうひとつ私の心を癒してくれる大事なものがありました。それは息子が家から持ってきてくれたこの本です。A4版よりちょっと大きめのきれいな本です。ネットで購入して届いたばかりでまだは読んでいなかったのです。


 耕地と言うのは深い峡谷沿いの山の斜面に作られた畑地で自給自足の暮らしをしている15戸ほどの集落のことです。著者の高橋さんは立教大学の特任教授でいらっしゃるんですけどこの集落の農家の次男としてお生まれになり高校に進むまではこの集落で子供時代をすごされたお方です。その頃の楽しかった思い出をイラスト入りの文章でお書きになっているんです。

 たとえばこんなふうにです。一節を要約してみます。
 小学校3年生だった5月頃のある日、高橋さんは兄さんが前から目につけていた裏山の大きな岩崖の頂き近くの岩棚に作られた鷹の巣から兄と一緒に鷹の雛を捕ってきて育てたのです。雛は羽を広げると120cmくらいありました。

 家の人は何も言いませんでしたけど二人は一生懸命蛙や蛇を捕ってきて与え可愛がって育てました。雛はすっかり二人に慣れて二人の姿を見ると喜び手から餌をとって食べるようになりました。そしてまもなく巣立ち出来るほどに成長しました。

 9月頃、母の実家の父が亡くなりました。母は「お父つぁんが亡くなった。鷹は山の神様だ。鷹を捕ってきたのはよくないこんた」といったので二人とてもよくないことをしたと思って鷹を岩山の頂き近くで放してやりました。鷹はしっかりと巣立って飛び去っていきました。

 それから一ヶ月ほど過ぎたある日二人が山仕事の帰り道岩山の頂き近くを通ると遠くから一羽の鷹が飛んできて二人の上を大きく2回ほど旋回してまた遠くへ飛び去りました。

 高橋さんはいまでもあれは二人が育てた鷹だと信じていらっしゃるんだそうです。


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 先生の優しい笑顔が輝いて

2016-05-07 | 日記
 5月1日 日曜日 病院は休診で静かです。入院生活も2週間に近くなり私はベットの上で暗い気持ちで物思いに沈んでいました。

 ERCPの説明書には鼻から入れられている管を抜き体内に胆管のバイパスを入れるERCPの手術の次の日の朝血液検査をして結果がよければお昼から食事が出来るとありました。4月28日木曜日2回目のERCPの手術が終わった次の日の朝血液検査がありました。私は密かに手術の結果がよくてしばらくぶりに絶食から解放されて今日のお昼から食事が出来ると期待しておりました。次の日4月29日は昭和の日で休診日、病院は静かです。当然回診もありません。お昼の食事が病室に運ばれて来ました。でも私のベットには食事が運ばれて来ませんでした。がっかりしてしまいました。絶食は点滴を受けておりますからそれほど苦しいことではありません。でも食事が出ないということは手術の結果が良くなかったといううことです。退院が遠のいているということです。期待を裏切られて本当のがっかりしてしまいました。

 4月30日土曜日、同じように食事は出ませんし回診もありません。5月1日日曜日も同じく食事も出ませんし回診もありません。私は絶望しました、高齢の私のERCPの結果は良くなかった。5月3日からは連休に入り病院は休診になる。だからあと5 -6日は絶食で先生の回診もなくてベットで安静に過ごさなければならない、この苦しい日々をどう耐えていこうかを絶望の中で必死に考えました。

 私は思いました。そうだ古里只見町の町史の民俗編をまだ読んでいない。連休で休診の続く静かな病室であれを読んで楽しもう。そう考えると心が明るくなりました。早速家内に携帯で連絡すると家内は「明日タクシーで届ける、でも足が不自由なので病室まで行けないから病院の正面玄関で待っていて欲しい」と言ってくれました。私は絶望の中に希望が生まれ気力が出て来ていました。

 5月2日月曜日、今日は回診があると看護師さんが教えてくれました。私は先生が「山太郎さん大変だけどもう少しがんばりましょうね」とおっしゃると思って覚悟しておりました。

 9時ちょっと過ぎ先生が回診で部屋にお入りになりました。そして優しい笑顔で真っ先に私のところにお出でになって「山太郎さん・・血液検査の結果はすっかり良くなっています。胆管はすっかり綺麗になって胆汁が流れています。腫れていた肝臓の腫れもひいていることがERCPでよくわかりました。よっかったですね。あとは山太郎さんの自由です。もう少し病院で体力をつけられるのもいいですし(私は2週間の入院生活で4kgも体重が減っていて歩くのが少しふらついていました)山太郎さんの気力があるならすぐに退院されてもいいです。ナースステーションにはそのように伝えておきます」とおっしゃいました。私は一瞬世界が輝いて見えました。涙がほほを伝わりました。私は「先生ありがとうございました」と深かく深くお礼を述べるだけでした。先生の笑顔が輝いて見えました。



 そして昨日、体力も少し回復して来た私は町営の温泉[糸桜里の湯]に家内といってゆっくりとしてきました。3月20日の発病前は茶色一色だった糸桜里の湯への山の道は新で輝いていました。



 ようやっと「老齢の私の命終わりかな?」などと思っていた私がよみがえりました。いまは体力も少しずつ回復して気力も出てきました。もう少ししたら無理をしない程度の山太郎のささやかな楽しみを再開したいと思っているんです。