さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

歴史の重みを秘めて旧郷頭屋敷は静かでした

2014-05-16 | 日記


 喜多方市「蔵の里」に復元された小新井組郷頭手代木家の屋敷です。元の屋敷は周囲に堀を巡らし長屋門のある豪壮な屋敷だったんでしょうね。慶徳組19ヶ村の肝煎(名主)を束ねる郷頭の屋敷ですから。

そして近くに復元された旧下三宮村の肝煎りの屋敷もありました。喜多方市蔵の里です。



 肝煎(名主、庄屋とも)は会津藩の農民支配の末端の役所として年貢や公事賦役のこと、郷頭を通した藩の布達のこと、村民の出生死亡に関することなど司っていました。


 だから郷頭や肝煎りの屋敷は、「かって」と言われる生活の場所と農民と接して日常の執務をするご用の場といわれる場所と、)藩の役人武士を迎える公的の座敷とに別れていました。

 広い土間に続く「かって」と「御用のば」のあるところです。

 農民達はこの土間に控えて、肝煎りから年貢や公事賦役の指示を受け藩からの布達を聞いたんでしょうね。上に上がれるのは組頭とか年寄りと言われる上層の農民だけだったんでしょうね。

 
藩の役人武士を受け入れる座敷は四つに分かれていたようです


 
乗っ込み

代官など藩の役人武士が出入りする入り口と座敷です。


 次の間

上級武士についてきた家来の控えの間です


 
三の間

 武士来訪の節、郷頭・肝煎・村役人控えの座敷です


 座敷

 代官など藩役人の座敷です。


 藩政時代というのは、身分で成り立っている世界なんですね。年貢賦役を負担する農民は土間にひれ伏して肝煎や郷頭を仰ぎ見、郷頭・肝煎りは代官や藩の役人武士をひれ伏して迎え、武士は身分によって差がありきちんと己の分を守っていたんですね。

 そして身分は特別なことがなければ生まれながらにして決まってしまう世界なんですね。たとえ上級武士の子供であっても長男以外は他家に養子に入って他家を嗣ぐことの出来た者をのぞき一生当主の厄介者として過ごすんですね。

 そして心を痛め驚いたのは二頭の馬屋の近くにあった下男部屋です。今は物置になっていましたけど、小さな明かり取りの窓があるだけの小さな部屋で、土間に藁を敷いた上に筵がしかれてるだけの独房のような部屋でした。譜代などとも呼ばれる下男は一生この部屋で暮らし死んでも墓石も作ってもらえないこともあったとっきいています。


 
もう一つ驚いたことがありました。肝煎屋敷の柱に残された傷あちです



 会津戊申戦争で会津藩が慶応4年9月22日降伏すると、10日も過ぎないうちに藩が京都守護職をつとめるために農民に高い年貢を課し、苦しみ不満を募らせていた農民達が一斉に蜂起して肝煎りや郷頭などの藩の役宅を襲ったといううのです。ヤーヤー一揆と言うんだそうです。その傷跡だと聞いて驚きました。心の痛む傷あとです。歴史に疎い私は初めて聞きました。

 
歴史のことなど全く疎い私ですけど深い思いもあった1時間ほど撮影と見学でした