この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
和久(わく)は北西に角島と相対し、西は響灘に面し、海岸線に沿って国道191号が走る。
(歩行約1.8km)
海岸線より角島。(国道191号線に駐車スペースあり)
壁島は角島方向700m海上にある岩礁で、大瀬、鳥塗瀬、地の瀬、中の瀬などの総称
であるが、干潮期には1つの島になる。
この壁島に「鵜」が毎年11月下旬頃から翌年の3月頃まで越冬する。日中は響灘から
関門海峡にかけて飛行し、夕暮れ迫る頃島に帰って夜を過ごすという。
「鵜」が大数なので堆積するグアノ(糞が化石化)は膨大な量に達し、かって燐酸肥料に
使われたこともあるというが、ここからは石灰岩のように白く見える。(国天然記念物)
眼下に和久漁港。
国道筋を下関方面へ向かう。
国道筋に神田上村(萩藩領)の大庄屋格であった吉田家(現在は大野酒造場)がある。吉田
家は酒造業を営み、1864(元治元)年中山忠光卿が泊ったと伝える。
第2種漁港の和久漁港と集落。
北に角島大橋。
お堂を覗くと「えびす神」のようだが詳細不明。
和久の波戸場に高さ150㎝の築堤記念碑。文政8年(1825)庄屋・吉田兵助、浦年寄・
中野謙造とあり、3面に世話人多数の名前あり。
海岸から国道への道。
和久集落は国道で海側と山側に分かれている。
善光寺(真宗)は防長寺社由来によると、当寺の開基は宗流という人で、天正3乙亥(1575)
の年に一宇を建立する。天台宗であったが浄土真宗に改宗された。
山門近くの五輪塔は、下方の地輪から空輪までの高さ1.98mで、銘文はないが手法か
ら鎌倉後期のものとされる。
しかし、水輪・火輪に対して地・風・空輪の大きさがやや不釣合であり、3つぐらいの
五輪塔の寄せ集めではないかといわれている。この五輪塔は神功皇后社にあったものを後
年に移転したとされる。
この筋が赤間関街道。
照蓮寺(真宗)は大内義隆の家臣だった俗姓・岡村豊後守広次が、戦国の群雄割拠の争い
に深く憂い、西本願寺10世に帰依した。創建は室町期の1533(天文2)年とされるが、
その後、火災に遭うなどして古文書を焼失している。
寺前から海岸線に出ると駐車地。