この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
飯浦(いいのうら)は日本海に注ぐ飯浦川流域に位置し、西は山口県に接する。
地名の由来は、仲哀天皇諸国回国の節、岩山多き海岸から石見の浦、石見村と名付けた
が、のちに唐の安禄山の乱に備えて起飯人(紀伊人)が、浦を防衛するため来着した故事に
よって飯浦と改めたという。(歩行約2.4㎞、🚻なし)
JR飯浦駅は、1927(昭和2)年山陰本線の延伸により開業する。益田市に向って左側
に単式ホームと待合室がある。
駅は高台にあるため集落へは下って行く。
三叉路付近から海に向かって集落が形成されている。
平入り厨子2階建ての家屋が並ぶ。
戸袋が漆喰で塗り固められ、屋号や家紋などの鏝絵が見られる。この家屋には屋号であ
ろう「幾」が施してある。
飯浦八幡宮参道入口には江戸中期頃、篤志家によって奉納・建立された一の鳥居があっ
たが、新鳥居完成後に旧鳥居の柱は、篤志家名と建立時期を刻むことから記念碑として残
されている。
赤い屋根(赤褐色)で知られる石州瓦は、石見地方の白陶土と来待石からとれる釉薬を使
って高温で焼成されるもので、緑の山々に囲まれて際立つ。
二の鳥居を潜ると山陰本線が参道を横断している。
飯浦を見守り続ける飯浦八幡宮は、室町期の1480(文明12)年に山城国の男山八幡宮
(現岩清水八幡宮)より勧請された。現在の社は1805(文化2)年に再建されたという。
参道前から海方向への道筋。
浄土真宗の浄念寺。
三叉路から見る駅からの道。
江戸期は津和野藩領で、高津港に次ぐ重要な港であるとともに、津和野藩と長州藩との
藩境という要地でもあった。
海岸近くに東西の道。1983(昭和58)年豪雨の影響で建物は建て替えられたようだ。
2階の戸袋に「野」と記された鏝絵。
「鶴亀と家紋」の鏝絵だが、彩色されていたものと思われる。
厨子2階建てや2階建ての建物が入り混じる。
空家も多く見られる。
飯浦漁港は県管理の2種漁港。
飯浦湾にある石見松島は、海岸より30m隔たり、高さ30m、周囲150mの小島だ
ったが、今は防波堤に連続して島には見えない。島は石英斑岩から成り、微弱ながら磁力
を持つ磁石岩である。
漁港を引き返すと、右手の小高い山に上がれそうなので上がってみると、海岸部付近の
町並みが広がる。
広場入口には「故村上彌十郎頌徳碑、正三位・俵孫一書」と刻まれた石碑がある。後ほ
どお会いした方にお尋ねしても知らないということだった。
飯浦川は2級河川で飯浦南方の丘陵性山地を発し北流する。1983(昭和58)年7月2
0日から降り続いた雨が、23日の未明に地上1mを越える濁流となって町を襲い、町の
9割が壊滅的な被害を受けたという。
海側に対して内陸部側は2階建てを多く見かける。
1889(明治22)年の町村制施行により、戸田村、喜阿弥村、小浜村と飯浦村が合併し
て「小野村」となる。1952(昭和27)年8月に益田市となって今日に至る。
対岸の鏝絵は何が描かれていたのか判別ができない。潮の香りがする素敵な空間が広が
るが、少し閉鎖的な感じがするのはコロナ禍によるものだろうか。
飯浦小学校は戸田小学校に統合され、2008(平成20)年閉校する。閉校から14年経
過するが、石州瓦とモルタル仕上げの木造校舎は、飯浦のシンボルのようである。
学園橋から校舎を見納めして、飯浦バス停(12:26)から益田に戻る。