この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
小鯖(おさば)は下と上に分れるが中心は下小鯖である。北から東、南の3方を標高200
~500mの山地が連なり、中央を問田(といだ)川が北に流れ、国道262号線が南北に走
る。
地名の由来は、東南に隣接する佐波郡の佐波本郷、すなわち大佐波に対する枝村の小佐
波と考えられるとのこと。(歩行約5.6km)
JR山口駅(11:28)からJRバス防府駅行き約30分、八反田バス停で下車する。
左前方に見える正田山を目指して地下道を潜る。
小鯖小学校、小鯖幼稚園・保育園前を過ごす。
小鯖交流センター入口には「市民野外活動広場」の案内があり、傍には3つの碑が建つ。
右の碑は伊藤音市翁を称えたもので、1855(安政2)年小鯖の農家に生まれ、稲の品種改
良に一生を捧げた人物である。多くの品種改良の中でも「穀良都(こくりょうみやこ)」は全国
的に栽培された早稲種の代表格であった。1928(昭和3)年これを後世に伝えるため、小
鯖村役場(現交流センター)の前庭を見立てて碑が建立された。
左が「百万一心の碑」で御大典記念として県民一同を図る目的で設置される。中央は忠
魂碑。それぞれ別の場所あったものが、2017(平成27)年この地に移された。
高齢者生きがいセンター「正田の館」前を右折して車道を辿る。
途中には「私有地立入禁止」の看板が並ぶ。
正田の館から400mぐらいあっただろうか山頂には配水タンクが陣取る。
タンクの片隅に四等三角点(標高111.6m)
残念ながらタンク上の展望台には上がることはできないが、片隅から山口市街地方面の
み展望を得ることができる。
国道262号線まで戻って正田山を見ながら国道を歩き。
往還道に戻って引き返すと吉岡一味斎の碑がある。藩の剣道指南役であった吉岡一味斎
の娘を嫁にもらおうとした京極内匠が、断られたため火縄銃で一味斎を暗殺した地である。
一味斎の妻と娘は、英彦山毛谷村の六助の力を借りて小倉城下で仇討ちを果たす。この
物語が潤色されて浄瑠璃の「彦山権現誓助剣」となり、歌舞伎の演目になっている。
この地に2003(平成15)年「鳴滝温泉・満天の湯」として営業開始されたが、数年で
経営困難に陥り倒産する。
1889(明治22)年の町村制施行により下小鯖村と上小鯖村をもって小鯖村が発足する。
その後、大内村、仁保村と合併して大内町となるが、1963(昭和38)年山口市に編入さ
れ、山口市下小鯖と上小鯖になる。(街道は国道に合わす)
泰雲寺の四差路に合わす。
近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われるようになる。
これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が祀られるようになる。(泰雲
寺分岐に馬頭観音の石碑)
泰雲寺に向かうと正面に鳴滝の岩肌。
泰雲寺山門入口の左側に王子神社蹟と刻まれた碑があるが、大内弘世が紀州熊野の那智
権現より勧請して鳴滝の鎮守とする。
1910(明治43)年神社合祀政策により、小鯖八幡宮に合祀されて狛犬と手水鉢だけが
残されている。
泰雲寺(曹洞宗)の由来によると、薩摩の石屋真梁(いしおくしんりょう)禅師が、室町前期の
1404(応永10)年に周防を訪れた時、大内盛見(もりはる)がこれに帰依。石屋は大内盛見
の求めに応じ、現在の地より約5km奥の宇津木畑(稔畑)葦谷に闢雲寺(びゃくうんじ)を開創
する。 (禅昌寺より遅れること9年) 石屋は在山4年で能登の総持寺に昇住するため去っ
た。
参道の途中に山門があり、その先で左折すると長い石段の両脇に石仏が並び、山門付き
回廊がある。
回廊内も石仏が並ぶ。
寺は室町期の1411(応永18)年火災に遭い、一時法灯が中断したが、1423(応永3
0)年石屋の弟子・覚隠が大内持世の招へいを受けて来山する。この時に芦谷から現在地に
移して建立し、大内教弘は闢雲寺に葬られた。
1609(慶長14)年6月12日に小早川隆景の13回忌が行われ、この時に隆景の法号
から現寺号に改称する。
隆景の室・満壽殿(ますどの)は、後に大内の間田に移ったので「間田の大方」といわれて
いたが、1619(元和5)年に逝去。
小早川隆景の供養塔。隆景は備後の三原城主で、晩年は秀吉5大老の一人として手腕を
発揮したが、1597(慶長2)年病にて三原城で逝去する。
大内教弘(1420-1465)は盛見の子で大内氏28代当主だった。築山館を建設し文化にも造
詣が深く、画僧・雪舟を招いたりしたが、幕命により四国に渡海するが伊予の興呂島で病
死する。
路傍の石仏。
左前方の面貌山は俗に小鯖富士の名がある。
「八幡宮」と刻まれた石灯籠2基と鳥居が見えるが、合祀されたのか社殿は存在しない。
鳥居から少し上がると、大師原の藤棚だろうか片隅にお堂がある。
高郷堂と記されたお堂の中に、三界萬霊塔、「馬」と刻まれた馬頭観音と地蔵尊が鎮座
する。
柊神社の創建年代は不明であるが、1758(宝暦8)年藩主・毛利宗広の次女・誠(のぶ)
姫が神社を再興したという。昔から婦人病の者が鳥居を奉納して祈れば霊験があると伝え
られる。
当神社も神社合祀政策により、1910(明治43)年小鯖八幡宮に合祀されたが、この柊
の旧社殿はそのまま現地に残され遥拝所とされる。小鯖八幡宮の境内には別殿が設けられ
て祭祀されている。
社殿裏に柊(ヒイラギ)の自然林があって、柊の地名となったとされる。花期は11~1
2月の寒い時期だそうだ。
社殿前には目通し2mの大きなヤマモモの木もある。
高速道路と山口IC、国道262号線の新設などで、この一帯の往還道は消滅してしま
う。現在は山口ICの函渠が往還道とされている。
国道262号線に合わすと交差点右の坂上に柊刑場跡がある。
山口藩は1869(明治2)年11月、5,000人以上に膨れ上がっていた諸隊のうち、
2,250人を常備軍とし、残りは解散すると命じた。ところが人選には身分を重視すると
いう不公平があったことが起因して、行く場を失った兵士たちは「脱隊騒動」と呼ばれる
反乱を起こしたが鎮圧されてしまう。
脱退兵は各地で捕らえられ、100人以上が死刑に処された。この柊でも処刑が行われ、
1892(明治25)年霊を弔うため供養塔が建立される。いつの世も弱者はいいように利用
されて、不要になれば切り捨てられる一例でもある。
この地は長州藩の柊獄舎があった所で、1867(慶応3)年大村益次郎は藩の医学校から
依頼されて、処刑された女囚の腑分け(解剖)を行なった。
国道の地下道を利用し、大内中学校前バス停よりJR防府駅に出る。