ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市小郡の桂ヶ谷貯水池と小郡新町界隈 

2020年09月03日 | 山口県山口市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         小郡新町は東部を流れる椹野川沿いにJR山口線と国道9号が通り、域内には上郷駅が
        ある。南端を流れる四十八瀬川沿いに主要地方道小郡三隅線が走る。(歩行約5.6㎞) 

        
         1913(大正2)年11月2日に開業したJR上郷駅の駅舎は、多少の補修はされている
        が、骨格は当時のままである。
         1908(明治41)年小郡~山口間に軽便鉄道が敷設されたが、国鉄山口線が開通したた
        めわずか4年で廃止となった。そこで不便となった住民が請願し、駅が設置されたという
        経緯を持つ。

        
         中郷八幡宮参道より上郷の町並み。正面の森は小郡下郷の中領八幡宮。

        
         中郷八幡宮の社伝によると、大内弘貞が宇佐神宮から勧請したとされ、八幡宮に立派な
        楼門があったが、1912(明治45)年焼失する。

        
        
         参道にある勇壮な尻上がり型の狛犬は、1865(慶応元)年氏子中によって寄進された。

        
         八幡宮から新町への階段を下る。

        
         参道を下って県道28号線を横断し、赤間関街道中道と石州街道を結ぶ旧萩(小郡)街
        道に入る

        
         福田口にある地蔵尊には「三界萬霊 天明8年(1788)」とあるが、この世に存在する一
                切の霊(萬霊)を多くの人に供養してもらうことを願って、寺院の入口や路傍に建立された。
        三界とは生命あるものが住む3つの世界(欲界・色界・無色界)のことである。
         隣の庚申塚は文政6年2月(1823)福田村とあり、庚申の夜、仏家では帝釈天及び青面金
        剛を、神道では猿田彦を祀って、寝ないで徹夜する習俗があったとされる。講を組んで行
        う庚申待ちを3年間(18回)連続して行った際に供養として造立する塚である。

        
         四十八瀬川に合わすと、山口市と美祢市を結ぶ山口秋吉台自転車道が整備されている。
        (頭上を山口宇部道路が横断)

        
         自転車道の途中に「小郡町上水道貯水池」の標柱が設置してあるが、沢に沿えば桂ヶ谷
        貯水池堰堤に行けるようだ。

        
         林道市原線始点に道標があり、林道を進むと民家先に次の道標がある。Y字路は左にと
        って旧浄水場接合井建屋から左折して林内へ入る。

        
        
         羽根越川に架かる市原橋には接合井建屋が残され、建屋の上に「水」を表すマークのよ
        うなものが見える。「接合井」とは水路の屈折点などに置かれる設備だそうで、この建物
        の脇に濾過池があったようだ。

        
         一本道を進んで峠に上がると、左手の道は中国電力鉄塔巡視路があり、少し下ると左手
        に明瞭な道がある。

        
         分岐点を少し直進すると堰堤の全景を見ることができる。

        
         分岐に戻って山腹を進むと堰堤前に出る。取水塔や堰堤上部は煉瓦造で優美な景観を保
        っている。

        
         桂ヶ谷貯水池堰堤は、堤高約13.4m、堤幅3.0m、堤長23.6mの重力式コンクリ
        ートダムである。堰堤の中身はコンクリートが7割、粗石が3割でモルタルを塗って防水
        し、さらに外側を石で覆っている。(堰堤には立入禁止)

        
         桂ヶ谷貯水池の水は、取水口から水道管によって四十八瀬川を遡り、濾過池に流入して
        濾過されて排水池を経て市街地に給水された。

        
         1923(大正12)年水道施設が稼働を始めたが、戦後に椹野川から取水する大規模な上
        水道施設の竣工によってその役目を終えた。(煉瓦造の取水塔)

        
         上水道に加え灌漑用水にも用いられた。当時の土木技術水準の高さを示す貴重な遺構で
        ある。(堰堤と右下は余水吐)

        
         鉄道交通の発展とともに水不足が指摘され、1928(昭和3)年に羽根越堰堤が完成する。  
        堤高18.2m、堤長44mのコンクリート半アーチ式重力ダム製であった。
         このような姿になっていることや、平原橋から往復1.8㎞もあることから行くことを残
        念する。(2018年撮影)

        
         四十八瀬川に沿う県道脇の藤井家前に、1889(明治22)年水車業者が田んぼ所有者に
        年間8円60銭の水使用料を支払うことを定めた石文が建てられている。
         当時、川には製粉、製材、精米など水車がたくさんあったとされ、石文で知らしめるほ
        ど水事業が盛んであったことがわかる。(車の往来多し、歩道なし)

        
         四十八瀬川沿いを下って行くと、新町西公民館前に火の見櫓がある。説明板によると、
        火の見櫓の半鐘は泉福寺の鐘として、1774(安永3)年に制作されたものとあるが、いつ
        頃に火の見櫓の半鐘になったかは記されていない。

        
         川沿いを下って江良橋で左岸へ渡る。

        
         昔、四十八瀬川は新町西の中央を流れていたが、たびたび洪水に見舞われた。そこで水
        勢を弱めるために山際を湾曲するように変えられた。長さ11.2㎞の2級河川はホタル
        や水鳥たちの楽園となっている。

        
         江良橋の袂に石仏と力石。再三の洪水で流され、田んぼに埋まっていたのを今の地に安
        置したという。

        
         泉福寺橋の上流にある淵は「トッコウジの淵」と呼ばれている。かって東光寺という寺
        があったのでそれがなまったものだが、この寺は1691(元禄4)年萩に同名の毛利家菩提
        寺が創建されたため廃止された。

        
         もとは四十八瀬川の土手にあった北向き地蔵で、1971(昭和46)年川拡張改修のさい
        に現在地に移転、子地蔵も建立されて南向き地蔵となった。
         碑には  
           「北向きの 親子地蔵南向く
           ふるさとこいし 薩摩見らるる」と刻まれている。 

        
         石州街道に合わす。(新町東)

        
         かって繁栄した新町通りの面影を残す建物は、日用小間物、毛糸などを売っていた元新
        林商店の建物で、屋号を「新し屋」といっていた。
         1932(昭和7)年建築の外側上部に羊の紋章3つが施してあるが、当主の父の干支に関
        係しているとか。

        
         新町は江戸期の明和年間(1764-72)に椹野川の洪水を避けるため、約90m西側にこっそ
                り移された。
         このときに計画的な町割が行われ、街路両側の屋敷は短冊型に仕切られた。家は東西に
        向いて建てられ、そのためやや北東向きの街路の間に細長い三角形の隙間ができている。

        
         山頭火の句「春風の 鉢の子 一つ」と、SLやまぐち号がモチーフされたマンホール
        蓋。

        
         新町郵便局前には結晶片岩の石垣と煉瓦造の塀、黒板と白塗りの壁を持つ重厚な建物が
        ある。M家の建物で1889~1901(明治22~34)年頃に建てられたとされる。
  
        
         1908(明治41)年11月16日小郡新町と湯田間に軽便鉄道の営業が始まる。その新
        町側の起点であった駅が、この先の曲がった旧道の左側にあった。

        
         県道を横断して石州街道を北上する。

        
         古くは新町東下にあって真言宗であったが、1603(慶長8)年再興されて浄土宗に改め
        られる。明和年間(1764-72)頃現在地に移転した。
         門前には山頭火の句碑「お正月の からすかあかあ」と、幸せを呼ぶわらべ地蔵が出迎
        えてくれる。

        
         幕末の内訌戦時には本堂が諸隊の野戦病院として使われた。

        
         玉木彦助は小郡宰判の代官だった玉木文之進の息子で、1865(慶応元)年大田絵堂の戦
        いで負傷して、仮設の病院であった当寺に運ばれたが死亡する。玉木と親交のあった林勇
        蔵が手厚く彦助の霊を弔った。他にも2名、脱退騒動でも脱退兵と戦った2名もここに葬
        られる。
         寺の先が国道で、地下道を潜れば上郷駅である。列車の便が悪ければバスでも新山口駅
        に戻ることができる。  


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