落合順平 作品集

現代小説の部屋。

連載小説「六連星(むつらぼし)」第71話 

2013-05-20 10:47:34 | 現代小説
連載小説「六連星(むつらぼし)」第71話 
「美浜原発の、事故記録」






 「名前はロマンチックです。
 確かに風景も、とびぬけて美しいところです。
 しかしこのくるみ浦の集落は、
 2度にわたって絶滅をしたという、きわめて哀しい歴史を持っています。
 最初の絶滅は、戦国時代から江戸時代の中期にかけて、
 一夜にして大津波に襲われ、すべてが絶滅をした、と言う記録が残されています。
 昭和30年に発行された『西田(にしだ)村誌』には、
 『小川(おがわ)の裏の山を越した海岸を、血の浦といい、
 そこには以前、クルビという村があったが、ある晩、村人が出漁中に
 大津波が押し寄せ、神社と寺と民家の一軒だけを残して全滅をした。と記されています。
 その一軒の家は、後に早瀬(はやせ)へと移住し、今は大阪にいるといいます。
 クルビ村がなくなったとき、日向(ひるが)は海、早瀬は山をもらい、
 小川は、ご本尊の延命地蔵菩薩(ぼさつ)をもらった』
 と言う、古い言い伝えも残っています。



 日向や小川では、『くるみ村が滅んだのは、鶏(にわとり)の肉を
 魚釣りのエサにしたからだ』と、今でも語り伝えられています。
 若狭湾沿岸の漁村には、鶏は海難をもたらすとして、釣りエサにしてはならず、
 漁に出るときの弁当に、鶏の肉や卵を持っていってはならないとする
 鶏禁忌(きんき)の伝承があります。
 戦後になってから、電気も引かれていない、人里離れたくるみ浦に、
 外地からの引き揚げ者たちが入植をしました。
 私のおやじと、おふくろも、その入植者のひと組でした。
 昭和30年ころになると、10戸余りの開拓村が築かれましたが、
 田畑に利用できる平地は限られ、背後に山が迫る日陰地では、
 まともな作物もとれず、やがて、全戸が離村してしまいました。
 それが2度目となる、くるみ浦における絶滅です。
 私も一度だけ、海から船を使って、おやじやおふくろの想いが残る
 その、くるみの地に上陸した事が有ります。
 おそらくその頃のものだと思われる、ふろ釜や、茶わんなどが
 廃墟群のいたるところに、散乱をしていました。
 住居跡の周辺には、高波によって打ち上げられたと思われる漂流物なども散乱していて、
 この地で暮らすことが、いかに厳しかったかが、容易に推測できました・・・」


 山本がひと息を入れて、再び、お茶を口元に運びます。
しかし、その目もとに焦点はありません。
遠い故郷の景色を思い出しながら、過去の記憶を語っているうちに、山本の脳裏へは、
懐かしい若狭湾の光景などが、ありありと甦って来ているのかもしれません。
(瞑想の邪魔などはしないように、余計なことは言わない方が今は賢明だ・・・・)
響も、ひと息を入れることにしました。
手元に置いたまま湯気をあげている茶碗の中へ、響が目線を落としています。
茶柱がひとつ、茶碗の底の方でゆらめいていました。



 2杯目のお茶を飲み終わったあと山本が、ゆっくりと体の向きを変えました。


(きっとまた、疲れ過ぎているんだわ。私がまた調子にのりすぎて、
 山本さんに、長い話をさせすぎてしまったせいかも知れない。いけない、いけない)

 響が手を添えると、山本がゆっくりと身体を横にしはじめました。
起きあがる時にも山本は、体力と筋力の不足を感じさせましたが、横になる時にも、
やはり自らの力では身体をささえきれないというような、そんな心細さが
ありありと体の中から滲み出ています。
布団に横たわった山本が、胸を使って早い呼吸を繰り返しています・・・



 (酸素を取り込むにしては、極めて浅すぎる呼吸の様子だ。
 一体何の病状なのかしら・・・・ちょっとしたことで、簡単に疲れ過ぎてしまうんだもの。
 これからは、私がもっと責任を持って、注意を払う必要があるようだ。
 とりあえず、少し眠ってもらおう)



 耳元で『なにか欲しいものが有りますか?』と響がささやくと、
山本が『今は何もいりません』と答えてから、ゆっくりと目を閉じます。
足音をたてないように立ちあがった響が、そのまま居間のテーブルへ向かいます。
早くも寝息を立て始めた山本を横目に見ながら、響がノートパソコンを
テーブル上で立ちあげます。

 パソコンが立ちあがるまでの、わずかな時間のあいだ響の視線は
眠りに落ちた山本の痩せこけた横顔へ、クギ漬けのままになっています。



 山本が生まれて育ったという風光明媚な若狭の海はたったの50年前から
日本でも有数の原発銀座として、その道を歩き始めました。
若狭湾に突出する敦賀半島は、全国的にも密度の高い原発半島として有名です。
先端部には、敦賀原発、美浜原発、高速増殖炉のもんじゅの3つが建てられています。
こうした先がけとなったのが、関西電力によって建設がすすめられた
日本で最初の商業発電となった美浜の原子力発電所です。


 関西電力の当時の社長、芦原義重氏がその陣頭指揮を取り、
1965年1月に、その社内において「建設推進会議」が設置されました。
「大阪万国博覧会に原子の灯」という合言葉と、威信をかけた大号令のもと、
1967年8月21日に敦賀半島で、日本初となる美浜原発1号機の建設がはじまりました。
1970年7月29日に運転を開始した1号機が、ついに臨界に達します。
1970年8月8日には、大阪府吹田市で開催されていた日本万国博覧会の会場に
約1万kwが試送電され、会場内の電光掲示板には送電されたことが表示されました。
同1号機は、同年の11月28日から正式にその営業運転を開始して、
電力会社として日本で初めてとなる、原子力発電による運転を開始しました。



 現在、全国で稼働している原発の54基のうちの14基が、若狭湾に建てられています。
日本に有る原発の、26%が若狭湾に有るという計算になります。
美浜原発は長い歴史の中で、いくつかの極めて深刻な事故を発生をさせています。
しかしそれらの全ては当時において、まったく公にはされず、長い期間にわたって
国民を欺き続けてきたという歴史も内包をしています。
国の威信をかけてなりふりかまわず強行されてきた原発の建設は、その危険性や
内部での事故は常に明らかにされず、事故の事実は隠ぺいされてきました。



 「余りにも危険すぎる事実だからこそ、公表が出来ない。」


 これこそが、電力会社が長く事実を隠ぺいしてきた、最大の理由です。
隠したいのでは有りません。
隠さなければならないほどの重大な事実だからこそ、常に隠ぺいが必要とされてきました。
これらのことは、真相を小出しにしてきた3.11の東電の姿勢にもよく共通をしています。
原発にかんするかぎり事故はそのまま直接、人命に関わる危機事態に発展します。
ゆえに、原発を持つ電力会社のこうした隠ぺいの体質は、必然的にその発足の当初から
必要悪として政府や経済会からも、長きにわたって容認されてきました。
こうしたことによりすでに日本の原発は、誕生直後やそのスタートの当初から、
人間性を置き去りにして、誤った道を歩き始めていたのです。


 このことを明確に証明するかのごとく、美浜原発の長い歴史の中には
数度にわたって放射能のデーターを改ざんしたり、事故の実態と事実を隠ぺいした、
数々の醜い過去の記録が残っています。



1973年の3月(日付けは不明)に美浜において、最初の事故が発生をします。
美浜原発の1号機で、第三領域の核燃料棒が折損するという、重大な事故が発生しました。
しかしこの事故は、当初のうちから外部には一切明らかにされていません。
当事者の関西電力は、秘密裏のうちに事故をおこした核燃料集合体を交換してしまいます。
内部告発によってこの事故が、核燃料棒が溶融したものと指摘をされますが、
原子力委員会は、まったくこれを認めず、発表では、
『これは溶融ではなく、何らかの理由で折損したものであり、重大な事故ではない』
として、その後に無難と言える処理作業をすすめてしまいます。
しかし国会でこの事実が明らかとなり、厳しく追及をされた段階で、原子力委員会が
ようやくこうした事故の事実を認めます。
だがそれらが明らかとされたのは、実に、事故の発生から4年後のことです。


 1991年2月9日。2号機の蒸気発生器の伝熱管1本が破断して、
原子炉が自動停止をして、緊急炉心冷却装置(ECCS)が作動するという
緊迫をした事故が発生をしました。
この事故は、日本の原子力発電所において、ECCSが実際に作動したという、
初めての事態となりました。
微量の放射性物質が外部に漏れましたが、周辺環境への影響はなかったと
後になってから発表をされています。



 2003年の5月17日には、2号機の高圧給水加熱器の伝熱管で、
2か所の穴が開くという事故が発生をしています。
しかし、この時も幸いなことに、放射性物質による外部への漏えいはありません。
こうした一連の事故を繰り返してきた美浜原発は、2004年になってから、
ついに重大な蒸気の噴出事故を起こしてしまいます。
死亡者5名、重軽傷6名と言う重大な災害が、ついに原発史で発生をしてしまいます。






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