落合順平 作品集

現代小説の部屋。

連載小説「六連星(むつらぼし)」第57話

2013-05-05 09:00:05 | 現代小説
連載小説「六連星(むつらぼし)」第57話
「またおいで、福島へ」




 「また、おいで、福島へ。
 あたしはいつでも、広野のあの古い家で待っているさ。
 嬉しかったよ、あんたが訪ねて来てくれて。
 いまなんか、いくら待っても、誰も訪ねてなんか来ないもの。
 放射能で四苦八苦している被災地なんかに、誰もくるもんか・・・・
 あんたの勇気と行動に、あたしは元気をもらったよ・・・・
 あんたの笑顔は、とりわけ可愛いしねぇ」


 そう言いながら、かえでさんは、福島駅の新幹線のホームの上で、
何度も響とのお別れを惜しんでいます。
最後には、響をしっかりと抱きしめたまま、ホロリと涙まで流しています。


 「息子夫婦だって本当は、帰ってくるのを渋っている町だ。
 こんなにたくさんおしゃべりをしたのだって、あの日以来、初めてかもしれないし。
 気をつけて帰るんだよ、あんた。身体を大事にしてさ。
 きっとおいでよ、また広野へ。
 じゃあね、またね。ありがとうね、気いつけてねぇ」


 発車メロディの『栄冠は君に輝く』が流れてくる頃には、
かえでさんの顔は、もう涙でボロボロです。
それでも窓越しからは、くしゃくしゃになった笑顔のまま、
何度となく懸命に手を振ってくれています。
(私の方が優しさをもらったし、かえって激励をされたというのに、
なんで・・・・お別れになると、無性にこんなにも哀しくなるのだろう・・・・)
酸っぱくなってきた胸の気持ちを抑えながら、響も最後まで手を振り返します。



 福島駅を定刻に発車した新幹線は、東京を目指して
トンネルをいくつも通過しながら一路、ひたすら南下を始めます。
2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒。
宮城県牡鹿半島の東南東沖、130kmの海底を震源として発生をした東北地方太平洋沖地震は、
日本における観測史上最大の規模、マグニチュード (Mw) 9.0で、
最大震度は、史上初となる震度7を記録しました。
その震源域は、岩手県沖から茨城県沖までの、南北が約500km、
東西は約200kmという、きわめて広い範囲に及んでいます。


 この地震によって、場所によっては波高が10m以上から。
最大となった遡上高では、40.0mを越えたという大津波が発生をしています。
この津波は、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に、壊滅的な被害をもたらしました。
大津波以外にも、地震の揺れによる液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などによって、
東北と関東の広大な範囲で、各種のライフラインが寸断されてしまいました。


 2012年(平成24年)3月8日時点で、震災による死者と行方不明者は約2万人。
建築物の全壊・半壊は、合わせて38万戸以上。
ピーク時の避難者は40万人以上、停電世帯が800万戸以上、
断水世帯は、180万戸以上を記録しています。


 政府はこの震災による被害額を、6兆から25兆円と試算しました。
地震と津波によって大きな被害を受けた東京電力福島第一原子力発電所では、
全電源を喪失した結果、原子炉が冷却できなくなり、大量の放射性物質の漏洩を伴う
重大な原子力事故を発生させました。

 これにより、原発のある浜通り地域を中心に、
周辺一帯の福島県住民は、なすすべもなく長期の避難を強いられました。
火力発電所等においても破損事故などが発生をしたために、東北と関東では深刻な
電力不足状態にも陥りました・・・・



 響が、膝の上でパソコンを開けます。


『まずは、メールアドレスを変更して、金髪の英治と
那須のすっぴん美人に連絡を入れておこう』


 手続き自体は事務的で簡単だけど、問題はニックネームをどうするかだ・・・・
変更の手続きを続けながら、あたらしいアドレスの欄に、何気なく
『ひろののひびき』とポンポンと打ち込んでいきます。

 『広野町の響き、か。まぁ、それも悪くはないか』そのまま決定を押してしまいます。
あとは、メールで変更の確認が出来れば登録が終わります。
閲覧を見ていくと、金髪の英治が受け取っていたメールの多くは、
アダルトサイト系やゲームサイトからの怪しいお知らせメールばかりです。
ブログサイトやネットワーク系からのメールなどは、一切見当たりません。


 「もっぱら、ゲームか、エッチ系で、君は癒されていたわけか・・・・
 あえてメールアドレスを変更する必要もなかったけれども、
 やっぱり、男子っぽい名前のままでは、私にも抵抗は有る。
 おっ、確認メールが届いたぞ。
 ということは、君はたった今から、
 『広野の響き』君に変わったと言うわけだ」

 
 そのまま響が、実名登録が基本と言う、
Facebook(フェイスブック)にアクセスを開始します。
Facebook(フェイスブック)は、Facebook, Inc.の提供する、
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のことで、
「FB」とも略されています。


 歴史は新しく、2004年にアメリカ合衆国で、学生向けのサービスとして誕生しました。
2006年9月26日以降になってから、一般にも開放されるようになります。
日本語版は2008年に公開されました。 
13歳以上であれば無料で参加できますが、
実名での登録が前提となっていて、個人情報の登録なども必要となります。
公開後、急速にユーザー数を増やし、2010年にはサイトのアクセス数が
Googleを抜き、世界中で大きな話題になりました。
2011年9月現在で、世界中では約8億人のユーザーが利用をするという、
世界最大のSNSになりました。


 国内むけでは『ミクシィ』が先行をしました。 
こちらは2004年3月に開設され、会員数は2005年8月に100万人、
2006年7月には500万人、2007年5月の時点で、1000万人を突破しています。
数十万のコミュニティをもち、1日に2億ページビュー以上のアクセスを誇っています。
『ミクシィ』は参加者からの招待がないと加入できないサービスですが、
加入自体は無料で、すぐに利用がはじめられます。
フォトアルバムやアンケート、日記にHTMLタグを使うといった
拡張機能が利用可能になる300円の有料オプション、「mixiプレミアム」
などもついています。



 『Facebook』も『ミクシィ』も、実在が大前提です。
ハンドルネームやニックネームを使って交流をしている、いわゆる
『バーチャル・仮想』のサイトとは異なり、実在する自分のデータ―を基にして、
交流をするためのネットワークを自力で構築をします。
現実的な人のつながりをネット上で再現をするのが、大きな特徴で、
中には古い友人と、数十年ぶりに再会を果たしたいう事例などもあるようです。



 「あ、見つけた。
 やっぱりいたぞ、伴久ホテルの若女将が。流石だわね・・・・
 あら、ブログへの案内もある。
 どれどれ・・・・抜け目なく、ホテルの営業も紹介しているわねぇ。
 たしかに、世界中に向かって配信されているサービスだもの、
 有効に活用すれば、確かに大きなビジネスチャンスにもなるはずだわ。
 じゃ、私も、お友達の申請などをしておきましょう。
 家出娘からの突然のアクセスだもの、
 きっと女将も、びっくりするだろうなぁ。
 あれ・・・・被災地でボランティア活動中の写真みたいだな。
 湯西川温泉有志による仮設住宅への慰問活動か・・・・あれ、あらぁ・・・・
 これは、お母さんだ」


 響が画面を、食い入るように見つめています。
そこには、伴久ホテルの女将と並んで、被災者たちとにこやかに談笑をしている
母の清子の横顔が写っていました。
(足尾銅山のボランティアにも参加しているくらいだもの、当然と言えば当然だ。
日本中の人たちが、被災地のために立ちあがっているんだもの・・・)



 響が今朝見てきたばかりの、広野町のあの光景を思いおこしています。
まったくの無人となってしまっていた住宅街。
渋滞寸前で道路にあふれて福島第一原発へ急ぐ、あの大量の車の群れ。
壊滅的な被害を受けたのも関わらず圧倒的な人員を動員して、短期間で
再稼働までこぎつけてしまった東電の火力発電所。
まったくの手つかず状態で、がれきが残り、破壊された家々が放置されたままの
火力発電所のあの周囲の光景。
この差は、いったいどこから生まれてくるのか・・・・
響にもおぼろながら、そうしたものたちがようやく見えてきました。


 それでも被災地には、駅員のあの優しい心使いや、
きわめて明るくふるまう、かえでさんのような、あの美しい笑顔が有りました。
もうだ。
政府や行政に期待できないという事実を、みんなが理解をし始めたんだ
復興は、一人ひとりの人間が成し遂げていく、長い道のりを伴った闘いなんだ。
そう言う意味で日本は、政府の機能も行政も、まったくの後進国だ・・・・
あの大震災は、政府と政治家の無能ぶりを、極めて如実にしました。
一年たったいまでも、その事実に変更は無い・・・・
地震と津波は『天災』でも、その後の復旧の遅れと、
原発に対する曖昧な態度は、『人災』以外のなにものでもない・・・・
私はやっぱり日本の豊かな未来のために、何が有っても原発の再稼働は許さない。
響きの中に、一つの新しい結論が生まれようとしています。


 仮設住宅での暮らしを強いられている、
東日本大震災の被災者の意識を調べるためのアンケートでは、
それらを裏づける、きわめて興味深い結果が出ています。
仙台市と、岩手県宮古市田老地区の仮設入居者、計200人にアンケートを行ったところ、
東日本大震災の被災地全体の復興が「全く進まない」あるいは「緒についたばかり」
と答えた人の割合が、阪神大震災1年後の1・7倍にのぼりました。

 回答者自身の生活についても、東日本大震災の被災者が
「全く」「緒に」とした回答が阪神の被災者の1・5倍を超え、
自らの暮らしに関しても、復興の“遅さ”を実感していることを如実に示しています。


 被災地全体の復興はどこまで進んだか」については、
「全く進んでいない」から「完全に復興した」まで7つの中から選んでもらったところ、
東日本大震災の被災者は「全く」が38・9%、
「緒についたばかり」は44・7%にのぼり、併せて80%を超えました。


 「個人の生活の復興はどこまで進んだか」の問いへの回答では、
東日本の被災者で「7割がた復興した」「ほぼ復興した」との回答は、計5%しかなく、
阪神の回答計21・7%の4分の1以下という結果です。
単に「遅い」だけでなく、一定程度復興したと感じる被災者の「少なさ」も
如実に浮き彫りになりました。



 「またおいでね、福島へ」といって、本気で泣いていれていた、
楓さんの顔が、また、響の脳裏に浮かんできました。


「わたしはきっとまた、近いうちに必ず、広野へ行く」


 響が、自分の身体の中を、
武者ぶるいが戦慄となって走り抜けていくのを、ずっしりと感じています。




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