落合順平 作品集

現代小説の部屋。

連載小説「六連星(むつらぼし)」第78話

2013-05-28 10:44:06 | 現代小説
連載小説「六連星(むつらぼし)」第78話
「フェイスブックと響のブログ」




 山本が入院をしている3階の病室からは、低い屋並みばかりが続く
1丁目から2丁目あたりの下町』と呼ばれる一帯が良く見えます。
丘陵地の中腹にある病院からは、市内の東一帯を一望のもとに見ることができます。
ここから見える景観が、桐生市ではもっとも古い家並みのひとつと言われています。


 南北朝時代から戦国時代末期にかけて、上野国(こうずけのくに・群馬県)の
東部の桐生地方に拠った武士・桐生一族によって、今日の桐生の市街造りが
始まったとされています。
中央との結びつきにはさらに古いものがあり、京からの加茂神社や
美和神社といった古社が数多く誘致をされ、やがて市内の北部に建てられた
『桐生天満宮』が基点となり、碁盤の目をもつ今日の町作りが始まりました。



 桐生市は、第二次世界大戦における戦災を一切受けていない町です。
隣接している大田地区には、発動機(航空機のエンジン)生産で知られる中島飛行機の
主要工場が操業していたために、昭和20年2月10日の空襲をかわきりに、
数度にわたる空襲を受け、壊滅的な被害を受けています。


 また、15連隊の所在地であった軍都の高崎市では、空襲にはことのほか神経をとがらせ、
学校でも徹底した「空襲対策」が数え込まれていました。
東京からの鉄道関係をはじめ多くの官庁が、市内の公会堂や図書館、商工会議所などに
疎開し、また高崎駅には、首都圏で焼夷弾などで火傷をした市民が列車で送られて来て、
多くの医師や看護婦が動員され、その治療などにも当たっていた。
このような緊迫した状況の中で、昭和20年の7月28日に、アメリカ軍の爆撃を受け、
続いて8月6日に艦載機による機銃掃射、終戦前夜の8月14日夜には、
B29十数機による爆弾、焼夷弾攻撃を受け、多くの被害を出しています。



 広島へ原子爆弾が投下される前日の、8月5日の夜半には
県都の前橋市が大空襲を受け死傷者1万人以上を出し、市街地の大半が杯になっています。
同じく、8月14日深夜から翌8月15日未明にかけて、銘仙の織物の町としても知られる、
伊勢崎市とその周辺地域に、84機の米空軍B24爆撃機と戦闘機が現れて、
空襲は終戦日となる15日の未明まで続きました。


 群馬県内の主要都市において、大規模な空襲が頻発したのにもかかわらず、
なぜか桐生市だけが、こうした空襲被害から幸運にも免れています。
戦時中の幸運な経過を経て、桐生市は明治期から盛んにおこなわれてきた
絹生産の歴史とその建造物群を、こうして無傷のままに後世に残せることになりました。
いま山本が病室から見降ろしている景色は、まさにそうした桐生市の歴史そのものです。
『疲れていませんか?』二杯目のお茶を入れた響が、山本に声を掛けます。



 「チャカポコという、お囃子の音が日暮れになると良く聞こえてきます。
 乾いたような太鼓の音も、それに混じって聞こえてきます。
 勇壮な感じと、温かみがあるなんともいえない軽快なリズムが、
 心地よく響いてきます・・・・
 あれが桐生で有名な、八木節音頭のお囃子ですか」


 「この時期に聞こえてくるのは、子供たちが練習をしているお囃子です。
 町内ごとに夏祭りの櫓(やぐら)が建ちますので、それに向けて一斉に、
 子供たちの八木節の練習が、あちこちではじまります。
 8月の第一週の週末になると、桐生市のすべてが八木節の一色にかわるそうです。
 長年にわたるそうした歴史と伝統が、さらに今の子供たちにも引き継がれて、
 伝統芸能が、桐生の町に生き残るのだと思います。
 実は、八木節祭りを見るのは私も、初めての体験になります」


 「8月ですか・・・・真夏ですね」


 山本が遠い目をして、桐生の町の上方にある澄み切った青空を見上げています。
口元の茶碗からお茶を一口すすった後、山本の痩せた肩が、ため息をつくかのように、
かすかに軽く左右に動いてから、やがて力が尽きてうつむきます。


 「力を落とさないでください、山本さん。
 あと、たったの3か月と少しです。
 私が浴衣を着ますから、山本さんも浴衣に着替えて桐生の街をあるきましょう。
 八木節祭りはまた、桐生のひと月遅れの七夕祭りにもあたるそうです。
 一年に一度の、織り姫と彦星のように、二人で町をあるきましょう。
 梅雨明けの桐生の町は、蝉しぐれと、八木節音頭で昼と夜が明け暮れるそうです。
 私が案内をいたしますので、どうぞいまから、
 それだけを、本気で楽しみにしてください」


 「美人のエスコートとは有りがたい。
 それでは是が非でも、私もそこまで頑張りきる必要がありますねぇ。
 歩きたいですねぇ。是非とも、浴衣姿の響さんと・・・
 それまでは、あとたったの3カ月とほんのわずかですねぇ、
 確かに。おっしゃる通りだ・・・・」



 茶碗を持つ手を停めたまま、山本のその目は、遠い彼方の山脈の上を泳いでいます。
おそらく夏までは持たないだろうと、吐き捨てるように言い切った杉原医師の言葉を、
響きもまた、いまさらのようにして思い出しています。
「話題を変えましょうね」と、響がノートパソコンを取り出します。
すばやく電源を入れ、立ち上げたばかりの画面を操作しながら、
いつもの自分のブログを呼び出しました。


 「これは、先日から、フェイスブックに登録をして
 共同で書き始めた私たちのブログです。
 もうひとりの共同執筆者とは、放射線取扱主任者の川崎亜希子さんです。
 ふたりで、原発や放射能などに関しての、それぞれの書き込みを始めました」


 響が指し示す画面には、二部式着物の姿でほほ笑んでいる自分の画像と共に
那須の牧場を背景に、白衣姿で立つ川崎亜希子の本人画像が並んでいます。
響からノートパソコンを受け取り、手元に引き寄せた山本が、
なぜか、牧場でほほ笑む亜希子の画像に見とれています。



 「こちらの女性は・・・・きわめての美人です。
 落ち着きが有り、女性としての成熟した色香などを、存分なほどに感じます。
 しかし、実名登録や実在の画像を公開しても大丈夫なのですか。
 ネットといえば、偽名やニックネームで交流するとばかり
 思い込んでいました」


 「多くのサイトで使われているのは、いまだに偽名や愛称です。
 数多くあるSNSの中でも、このフェイスブックと、ミクシィの2つだけが、
 こうした実名による本人登録を義務づけています。
 実名で登録をするということは、それだけ強い責任を伴います。
 いわゆるハンドルネームなどを使わない、実名による交流は、
 実社会の信頼関係を大前提にするという意味で、
 誠実を前提とする、大人同士の交流サイトとも言えるようです。
 信憑性のたかい情報が多く、交流の範囲などをはるかに越えて、
 今では、商業取引やビジネス面などにも、幅広く活発に利用されているようです」


 「なるほど。
 責任ある大人の良識あるサイトが、最新のネットに誕生をしたと言う事ですか。
 実名で世界的に情報を発信するというところに、深い意味が有るようですね。
 世界最大規模を誇る、情報の共有サイトと書いてありますから、
 日本の原発の実情などを発信するには、ずいぶんと好都合かもしれません。
 東北の被災地と福島第一原発の事故は、
 たしかに、全世界から注目をされていますから」


 ノートパソコンから目を上げた山本が、響の瞳を見つめます。
いつも穏やかな山本がいつになく、その目に、真剣な光を秘めています。



 「ひとつだけ、響さんにお願いしたいことが実は、有ります。
 それを聞き届けていただけるのなら、私が知るかぎりの、
 原発の内面についての話や情報を提供しましょう。
 悲惨すぎるとはいえ、原発労働者の実態をできるかぎり真実のままに
 記録に残して書き込んでください。
 私の残り少ないこの命は、そのために有るのかもしれません。
 あの福島第一原発の惨状は、、いま始まったばかりの長い闘いです。
 放射能はこれから先に、気の遠くなるような長い時間をかけて東日本に残ります。
 現状はまだまだ、長い闘いのはじまりにしか過ぎません」
 
 
 
 「同感です。私もそのの通りだと思います。
 あれからもう、すでに一年が経過をしたというのに、
 福島第一原発の後処理は、まだ何一つとして改善されていません。
 冷温停止と言う段階は、とりあえず爆発の危険を回避したと言う意味だけで、
 依然として、事態の危機は進行中ですから」


 「炉心を溶解させて、溶けてしまった核燃料の回収は困難をきわめる作業です。
 現代の技術では、おそらく対応する事が出来ないでしょう。
 最大の被害を出したあの、ロシアのチエリノブイルでも、
 溶解してしまった核燃料の取り出しは、いまだに放置をされたままです。
 福島でもすべてを回収するのは、30年から40年もかかると言われたいます。
 福島の闘いは、ほんとうに、まだ始まったばかりです。
 被ばくの危険性は収まったわけでは無く、原発内では常に
 そうした危険にさらされながら、これから先も下請け労働者たちの仕事が続きます。
 だからこそ、知っていることのすべてを語る責任が、
 今の私にはあると信じています。
 全てを書きとめて下さい、響さん。
 私から聞いた事のすべてを、そのフェイスブックに公開をしてください。
 そのために、私は残った力のすべてを、あなたにプレゼントしたい」



 窓際に立った響が強い意志を込めて、唇を噛みしめています。


 (私は・・・・いいえ、私たちは、
 原発の非人間的な実態が明らかになったというのに、いまだに安全性を楯に、
 国民を欺瞞しようとしている、汚れた日本政府と東電を許さない。
 福島のこどもたちには、美しい故郷を取り戻す権利が有る。
 その手助けをするためにこそ、おおくの大人が
 勇気を持って立ち上がる必要がある。
 その良心こそが、美しい日本を作り出していく原動力だ。
 放射能が、どれほど危険なものであるのか、
 原発が崩壊をしたら、どれほど危険な事態に立ち入ってしまうのか、
 福島は、身を持ってそれを証明した。

 それこそが、3・11と福島第一原発が、
 わたしたちに向かって発信をしてきたメッセージだ。
 負の遺産は、もうこれ以上は絶対にいらない!
 それが福島からのメッセージだ。

 日本の原発と市民による真の安全を求める闘いは、まだ、
 やっと此処から始まったばかりだ・・・・。
 大切なことは、現実と事実をしっかりと見つめて、
 この教訓から受け継ぐべきことを明確にして、
 それを未来へ受け渡していくために、勇気と連帯と、
 未来を再生させるためのプロジェクトを立ち上げることだ。

 人は、その生命を安全に未来へつなげてこそ、
 人として生きてきた価値が、再び未来へ受け継がれる事になる。
 日本の本当に、安全な未来のために、未来を生きる子供たちの安全のために、
 もうこれ以上の負の遺産は、日本にはいらない。
 私は、やっとそれに気がついた。
 何をすべきかが、今になって、やっと見えてきた。)



 潤みはじめた響の大きな黒い瞳が、やせ衰えて・・・・いまではすっかり
針金のように痩せてしまったベッドの上の山本を、しっかりと見つめています。


 


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